glasses

 月明かりを映すのは貴方の眼鏡、それとも貴方自身…?

・・2・・

 夕暮れはもうほとんど闇へと近づいていた。
 会議の関係で今日の午後練はなく、俺は今じゃほとんど使われていない第2音楽室でひとりピアノを弾いていた。もっともこの第2音楽室は真ん中に古びたグランドピアノがぽつんと置かれているだけで、ピアノを弾く以外に何もないのだが。たまにコーラス部が練習しているくらいだ。

「やっぱり、ここだったか」
 不意に入り口から声を掛けられた。振り向かずとも誰かわかるその声。
「良いのか?こんな時間に」
 そう言われてようやっと振り返った。学校にいるときの常で眼鏡をかけたままの三上先輩はニヤニヤと笑っている。
 俺はこう返した。
「担当教師から鍵借りてるんです。練習したいからって」
 …それは嘘じゃないけど、でも都合の良いときにしか使っていないのだから、どうだかとは自分でも思っている。
「見かけによらねぇよな」
 先輩はそう言った。
「…アンタに言われたくない」
 寮の大浴場の窓が常に一つ開いているのは、彼のためだと何処かで聞いたことがあった。
 俺が眉を顰めて言い返すと、先輩はニッと彼特有の笑いを浮かべて、
「仰るとおりで」
と言った。

 ――共犯者。
 俺達二人にはそんなイメージがつきまとう。
 もっとも、男同士じゃそんなものだろうけど。

「ま、俺に構わず練習してくださいよ、先生」
 などと先輩はふざけて言った。
「ええ、そうしますとも」
 俺はそう言う。すると先輩は口をへの字にして言った。
「…可愛くない」
 俺はニッと笑って返す。
「可愛いのは先輩で充分です」
 と。
「馬鹿言ってないで弾きやがれ」
 先輩はそう言って蹴る真似をした。
 …だから、そういうとこがさ。
 なんてことは言わずに、俺はふたたびピアノに向かった。

 ――広げた楽譜はベートーヴェンピアノソナタ第14番嬰ハ短調。
 


 冬の夕暮れは早く、弾き終わる頃には窓からは月明かり。
 ああ、ぴったりだ、などと思いながらも電気をつけようとした俺を、先輩の手が止めた。その眼鏡が僅かに月明かりを反射して光っている。
「できれば、そのままで」
 そう言われた。
「何故?」
 俺は訊く。と、先輩はニヤっと笑って。
「今の曲、『月光』だろ?どうせならさ」
 などと言った。やはり同じことを思ったらしい。だが。
「暗くっちゃ見えない」
 俺はそう言う。するとこう返された。
「キーなんて見ずに弾けるだろう?」
 パソコンで言うブラインドタッチ。確かに、ピアノも常に鍵盤を見て弾くものではない。
 だがふと、俺はあることを思いつく。そしてこう言った。
「いや、三上さんが」
 俺はそう言って、先輩の真似をしてニッと笑った。
「…成程ね」 
 先輩は苦笑しながらも頷き、こう言った。
「じゃ、近くに寄れば良いか?」
 言いながら、俺の方に近づいてくる。
 俺は言う。
「もっと、近く」
 二人の距離は狭まっていく。
「これくらい?」
と先輩が言うのに
「もっと」
 と言って、彼の手首を捕まえるとぐいっと引き寄せた。確かに先輩より体格は下回るけど、DFの力をなめちゃいけない。
 そして、先輩の唇を奪った。空いている方の片手で先輩の眼鏡を外し、口づけをより深くする。
「ったく。そういうところが、見かけによらねぇんだよな」
 呆れながらも先輩は笑っていた。
 そしてもう一度唇を合わせる。
「…もう一回弾けよ、今度は別のヤツ」
 ようやっと唇を離すと、溜息混じりに先輩は言った。
「キスさせてくれます?」
 俺はそう返す。
「『合格』だったらな」
 先輩はそう言う。
「じゃ、曲は選ばせてくださいね」
 にこっと笑ってそう言った。
「何てヤツだ?」
 先輩はそう訊いてきた。俺は笑って返す。 
「それは聴いてからのお楽しみです」
 すると、ちょっと眉をしかめて、
「…ベートーヴェンにしろ。後はまだ知らねぇし」
と先輩は言った。
「はいはい」
 などと苦笑しながら返事をして、俺は楽譜を広げる。
 そして、鍵盤に指をおいた。

 …そのうちサティの「君が欲しい」でも弾いてやろうか。
 そんなことを思いながら。
 俺は「アパショナータ」を弾き始める。

 ピアノソナタ23番 ヘ短調 『アパショナータ』

 …熱情。
 それは多分誰もが内に秘めたるもの。

 そして。
 ――俺のそれは、この貴方への想い。

 to be continued...

20010108 UP