カタタンカタタンと一定のリズムで揺れる列車。車窓からは菜の花畑が見える。それをぼんやりと見ていて、俺は教科書に載っていた詩を思い出した。 「いちめんのなのはないちめんのなのはな…」 県の花にもなっているその花の黄色は鮮やかで、この地方が一足先に春を迎えていることを俺に告げている。そう、隣の県なのにここまで来ると随分遠くまで来た気がするのは気のせいじゃない。二人の距離もまた、こんなに遠くなった。…あんなにいつもそばに居たのに。 感傷に浸る間もなく降りる駅名を告げる車掌のアナウンスを聞いて、俺は網棚の上に置いていた鞄をとり、ドアが開いたと同時にホームに飛び降りた。 |
glasses …4… |
「竹巳!今日練習ないって。で、今から高等部に行くけど、一緒に行かない?」 授業が終わって掃除の時間。窓からひょいと顔を覗かせたのは誠二だった。 「ごめん。俺、今日当番。後から行くよ」 俺は箒で掃くのを止め、そう答えた。 「じゃ、先に行ってるね!」 そう言って、軽やかな足取りで去った誠二の背を笑って見送った。俺も箒を動かすスピードを上げてさっさと掃き終えると、お先に、とクラスメイトに告げて高等部に向かうことにする。 が、高等部に着くなり、 「…嘘でしょ、そんなの嘘ッスよね!また戻ってきますよね?三上先輩は。そうだって言って下さいよ!渋沢先輩」 ただならぬ誠二の声に、声をかけようとした俺の足は止まり、その場に立ち尽くしてしまう。そして、そんな俺に追い打ちをかけるような渋沢先輩の返答。 「三上はもう帰って来ない」 そう言う渋沢先輩自身も酷く惜しんでいるような声音で。 「…嘘だ」 俺は知らず呟いてしまった。 「竹巳!」 「笠井…」 俺に気付いて慌てる二人に、くるりと背を向けて走り出す。信じたくなかった。 「待て、笠井!」 そう渋沢先輩が呼ぶのにも振り返らず、ただ高等部の寮を目指して走る。そして、許可無く立ち入った玄関で、 「あれ?笠井?」 と、先輩の誰かが呼び止めるのも聞かず勢い良く靴を脱ぎすてて、そのまま階段を駆け上がっていく。部屋の名前を横目で確認しながら、廊下を走る。そして、ようやくその名前を見つけたところで足を止めて、バタンと乱暴にドアを開いた。 「三上先輩!」 だが、そこに三上先輩の姿は無く。姿がないどころか片側は私物も片付けられ、ガランと広く見える部屋に居たのは呆然としている同室者のみ。 「近藤先輩…」 俺の顔を見た近藤先輩は、ただ首を横に振るだけだった。 「笠井」 振り返れば渋沢先輩が追いついていて、俺は問い詰める。 「どういうことなんですか?!三上先輩は何処へ行ったんですか、渋沢先輩」 「…辞めたんだ武蔵森を」 苦しそうな表情で答えたのは近藤先輩だった。 「どうして?!そんなこと一言も聞いてないですよ、俺」 そう言い募る俺の名を呼んで、何とか宥めようとする渋沢先輩。だが、やがて何かを決めたような表情をしたかと思うと渋沢先輩は近藤先輩を見て、それを察した近藤先輩は一つ頷くと部屋を出て行った。そのパタンとドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえる。 「…お前にだけは言うなと」 渋沢先輩はそう言った、沈痛な面持ちで。 「どうして?…どうして」 そこには居ない人に問うても返事があるはずも無く。俺は力なくその場に座り込んでしまう。そして、立ち上がれない。 「笠井、しっかりしろ」 渋沢先輩に支えられて何とか立ち上がったその時、視界に飛び込んできたのは綺麗に片付けられた机の上に、ぽつんと置き忘れてあった眼鏡。これを置いていくということは、彼が学業も放棄してしまったということなのだろうか。つまり、それほどの事が彼の身に降りかかったことを意味するのではないか。 …なのに、どうして俺に一言も言わなかったのか。それとも、俺には言えないことなのか。そう、考えれば考える程悪い方へ行ってしまう、俺の思考。 「笠井!」 気がつけば、俺は三上先輩の眼鏡を引っ掴んで、そのまま駆け出してしまっていた。 放課後の学校は文化部の練習している教室だけがまだ明るい。そして、時々響いてくるヴァイオリンの音色。…ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調Op.24「春」だろうか。俺はその音色に導かれるまま、夢遊病者のようにふらふらと廊下を進んで奥の階段を上っていた。最上階の音楽室のドアを強くノックするとヴァイオリンの音が止む。 「笠井君!どうしたの?」 そう言って、ドアを開けて顔を覗かせたのはヴァイオリンの音の主で顔なじみのオーケストラ部員――コンクールにも出る実力者だ――。 「悪いけど、第2音楽室空いてる?」 俺がそう言えば、彼は頷いた。 「良いけど、これから使うの?」 「うん」 俺が返事をすると、彼は準備室から鍵を取ってきてくれた。 「僕もコンクール前でもう少し練習してるから、遠慮なく使って。はい、第2の鍵と、これは校舎の合鍵」 校舎の合鍵は内緒だよ、と彼は片目を瞑りながら渡してくれた。 「ありがとう」 彼の好意に感謝して、一つ頭を下げると俺は鍵を受け取った。 第2音楽室は予備の教室なのでグランドピアノではなく、アップライトピアノが置かれているだけだ。そのピアノの蓋をあけて、フェルトのカバーと眼鏡をピアノの上に置いて、俺は鍵盤に手を置いた。けれど向こうの音に合わせて「春」を弾く気にはなれず、選んだ曲は。 ――ベートーヴェンピアノソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」。 弾いていながら、いつものように彼と音楽室で過ごしていた時間を思い出して、知らず感傷的になってしまう演奏。 …ああ、もうあれから随分経ってしまったのか。 柔らかな日差しの差し込む季節に、同じこの教室で、三上先輩の前でこの曲を弾いてみせたあの日。 「日本語訳すると『悲愴』という曲名だけど、ニュアンスは随分違うんですよ」 弾きながら俺がそう言うと、三上先輩は何のことは無いという顔で頷いて答えた。 「知ってる。フランス語でpathetique」 出会った当初クラシック音楽には詳しくなかった筈の先輩がいつの間にかそんなことにまで興味を持ってくれて、俺は内心嬉しかった。でも、冷静な表情を装いながら 「つまり?」 と、先輩に先を促した。その時、風が吹いて窓辺のカーテンが揺れ、眩しい光りが入ってきたのを俺は今でも覚えている。その逆光のせいで、三上先輩の表情は見えなくて。 「強く心を動かすモノ、強い情動をかきたてるモノ…しばしば苦痛を伴いつつも」 そう答えた三上先輩にとって、それが何であったのかすら、今の俺には知ることが出来ない。けれど、今の俺にとって三上先輩がそれなのには間違いない。 …このまま、忘れることなんて出来る筈ない。たとえ真実がどんなに苦痛なものであれ。 気の済むまでピアノを弾き続けているうちに、いつの間にか向こうのヴァイオリンの音も止み。あの時の窓からは月明かりが差し込んでいて、置かれたままの眼鏡が冷たくその光を撥ね付けていた。 「お願いです。教えてください、三上先輩の居場所を」 しばらく経ってようやく落ち着きを取り戻した俺は、渋沢先輩の元へ行き、頭を下げそう頼んだ。 「…それが辛い現実でも、か」 渋沢先輩はそう言うと溜息を吐いて、天井を見上げた。 「――はい」 俺は頭を上げ、前を向いてきっぱりと返事をし、こう続けた。 「何も知らずに忘れることなんて、俺には出来ません」 それを訊いた先輩は、ぽつりと言った。 「俺も本当の事を言うべきじゃないかとは言ったんだ」 そう言いながらポケットを探って、俺に差し出されたのは、渋沢先輩宛の一通の手紙。そして、裏のリターンアドレスを見て、俺は驚く。 「…病院?どこか悪かったんですか?」 俺の言葉に渋沢先輩は頷いた。 「難しい病気だったが、幸い手術は成功したそうだ。だが、それですぐに全てが取り戻せる訳じゃない。先がどうなるかもまだ判らない。…それでも会うか?いや、会ってくれるかどうかさえ判らないぞ」 言い聞かせるように俺にそう言う渋沢先輩。先輩なりに俺を心配してくれているのは判っている。だけど、俺は自分の思いに嘘は吐けなかった。 「行ってみます。何もしないよりその方が俺にはあってます」 「そうか。…そうだな」 俺の言葉に渋沢先輩は頷き、眩しそうな表情で俺を見た。 入院案内で聞いた病室に先輩の姿は無かった。呼び止めたナースに居場所を教えて貰ってやってきた病院の中庭には明るい日差しが差し込んでいて、芝生の緑も眩しいほどだ。そこでは、やはり入院患者であろう包帯を頭に巻かれた小さな男の子が、ビニル製のボールを蹴って遊んでいる。それをベンチで眺めながら、時々その子に何か話しかけているその人の横顔を見た時、俺は時間が止まったように感じた。随分やつれた顔で、鍛えていた身体もすっかり細くなってしまっていても、その黒い髪、長い睫の整った横顔、その姿を俺が見間違う筈ない。 「三上さん」 意を決して俺がそう声をかけると、振り返った三上先輩は黒い目を大きく見開いた。 「笠井?なんで、ここに」 彼は驚き、そして戸惑った顔をして、俺の顔を見つめ何度も繰り返す。 「なんで…どうして」 「それはこっちが言いたいです。…どうして?どうして、俺に何も言ってくれなかったんですか?全部、渋沢先輩から聞きました」 俺がそう訊ねると、三上先輩は顔を背け言い捨てるように言った。 「聞いたんなら、俺のことは忘れろ。帰れ」 その言葉はキツイものの筈なのに、声音は酷く弱々しく聞こえた。 「…貴方はそれで忘れられるんですか?」 そう訊けば、先輩は俯いてこう答えた。 「忘れられないって判ってるから、何も言わずに出てきたんだ俺は」 それに俺は、再度どうして?と問う。 「忘れる必要なんてないじゃないですか。サッカーをやめても学校をやめても、貴方が貴方であることに変わりは無いんだから」 俺がそう言うと、三上先輩はようやっと顔を上げて、俺を見たかと思うとハンと嘲笑った。俺をじゃない、自分自身を嘲笑うように、 「…何もかも失った俺にそれを言うのか?」 口元を歪めてそう言う三上先輩。皮肉っぽい口調だけど、それも強がりなんだろう。だって、その黒い瞳が揺れている。そんな様子は出会った時から全く変わっていないもので。その揺れている瞳に俺は訴えかける。 「貴方を失った俺がどんな思いだったか、判りますか?何もかも失ったに等しかった」 その切なく行き場のない思い。三上先輩が居なくなったあの日から、サッカー部の練習にも集中出来なくなっていた。けれど、それじゃいけないって判ってたから、それこそが三上先輩の恐れていたことだろうと思ったから、練習を休むことは決してしなかった。代わりに夜、ピアノを思いっきり弾くことで気を晴らしながらなんとかやってきた。でも、とてもそれだけじゃ心の隙間なんてのは埋められない。本当に、俺にとって三上先輩は、言葉通りかけがえの無い存在だったんだ。 「でも、俺はもうお前の『先輩』でもなんでもないんだ。何のつながりもなくなった」 ぽつりとそう呟く三上先輩。俺は負けじと言った。 「俺は、それでも三上さんが好きです。思いは『つながり』にはなりませんか?」 その俺の言葉に、目の前の点滴のチューブを見ながら三上先輩は言う。 「こんな風になった俺でもか?」 その彼の目の前に屈んで、その手を握って瞳をまっすぐに見つめながら言う。 「貴方は何も変わってない。俺の大事な人に変わりはないんです」 ああ、この温もりもその声も顔も、どこが変わったと言うのか。今、ここに彼が生きていて、触れられるということ、俺はそれだけでも感謝したい気持ちだった。でも、触れていればもっと触れたいと思うものだろう。だから、 「…来てくれてありがとな、笠井。でも、もう会えない」 と三上先輩が俯きながら、くぐもった声で言うのに、 「嫌です」 と俺は答える。それに三上先輩は俺の顔を見ないまま首を振って言った。 「俺はお前の重荷にはなりたくない。お前の輝ける未来の邪魔をしたくないんだ」 叫ぶように言ったその彼の言葉に、 「悲愴だ」 と、思わず俺が言うと、三上先輩が「え?」と顔をあげて俺を見た。彼も覚えているだろうか、あの時のやりとりを。俺にとってのpathetique――悲愴――はまさしく、三上先輩だ。強く心を動かすもの、強い情動をかきたてるもの…しばしば苦痛を伴いつつも。好きになった時から、そうだった。――だから。 「俺は貴方が居たから、ここまでこれた。そして、だから、これからもやってける。一緒に居てください、それだけで良いんです。俺は俺の為に、貴方と居たいんです」 溢れる思いを言葉にするのはなんて難しいのだろう。だから、人は音楽に思いを込めたりするのだろうか。上手く言えたなんて思えないけど。それでも、俺の思いは貴方に少しでも伝わっただろうか?いや、伝わったと信じたい。 「笠井…」 そう呼ぶ先輩の目から溢れたのであろう涙が、俺の手を濡らしたから。 誰だって先がどうなるかなんて判らない。 それ以上に俺たち二人を待つ未来は想像もつかないんだろう。 けれど、苦痛を伴いながらも、強く心動かされて強い情動をかきたてられるから、 俺たちは互いを必要とするんだ。 それはpathetique――悲愴――。 あの時見えなかった筈の三上先輩の表情が、笑っていたように今は思えた。 |
(FIN) 2007.02.24 UP |