…実は僕らは見えない何かに縛られているのだと気が付かされて、
 翼を持ちながらも飛ぶことが出来なくなる、そんな時代だから。







   飛べない翼〜Fの子達〜






 地下鉄の駅を上がって、夕方の新横浜の街を圭介君と二人で歩いている。
「散歩って、こっちの方向は横国しかねぇじゃん」
 脇を歩いてた圭介君が僕を追い抜いて、顔を覗きこみながら呆れ声でそう言った。
 今日は圭介君が僕の家に遊びに来ていて、とはいえ家の中ですることもそれほど無く、散歩でもしようかと僕が誘って目的地も告げずに地下鉄に乗った――パスネットなら可能だ――のが事の始まり。ただ、乗った地下鉄が関内や桜木町、横浜駅まで通過してしまうと圭介君はさすがに
「どこまで散歩に行くつもりだよ?」
と、不安な顔を隠さなかったけど。
 そんな圭介君をまぁまぁと宥めて降りたのは、二人とも良く知った新横浜の駅で。
「いやぁ、でもケースケくん。試合でしか横国は行ったことないでしょ?」
「まぁそりゃそうだけどな」
 まだ納得していない声音でそう返事しながらも、信号が変わって歩き出した僕の後をやれやれと、溜息一つ吐いた後でちゃんとついてきてくれる圭介君に、僕は振り返って言った。
「普段の横国の周りは格好の散歩スポットなんですよ」
 事実、MM21や山下公園のように人が多すぎもせず少なすぎもせず。横浜国際競技場、通称横国の周りはそんな散策スポットになっていたのだ。
「ま、何ならあとでラー博でもカレーミュージアムでも連れて行ってあげますから」
 そう僕が言えば、圭介君はぱぁっと顔を輝かして訊いてくる。
「え?どっちもおごり?」
 何でですか、と内心苦笑しながらも甘え癖を付けない為に――本当のところ、精神的には僕の方が甘えてるけれど――、
「ぼくはそんなに甘くないですよ」
と、答えた。それに、
「…ラーメンだけで良いデス」
 そう圭介君は恐縮しながら、でも微妙に遠慮しきってない言葉で返事をする。その様子が彼らしくて、僕は笑った。


 そんなやりとりをしているうちに横国に着いていた。ゆっくりと二人で外周を歩いていると、不意に後ろからサッカーボールが転がってきた。
「とってー」
と、叫ぶ小さな子と共に。すると、圭介君はちらりとこちらを向いてウィンク一つ寄越してから、そのボールに向かって走り出した。そして、ボールを止めるとそこでリフティングを始め、そのままこちらへ歩いてくる。ボールを追いかけて来ていた男の子はその様子に一瞬見とれて、その後
「おにーちゃん、サッカーやってるの?」
と、駆け寄りながら訊いてきた。それに答える圭介君。
「うん、ユースでね」
 小さな子だったが、その言葉は判ったらしい。すぐにこう訊いてくる。
「えふマリノス?」
「ううん、ジュビロ」
 圭介君がそう答えると、
「えー?じゅびろぉー?」
 男の子は不服そうに口を尖らせてそう言った。それに苦笑して僕も会話に割り込む。
「ぼくはマリノスだよ」
 するとその子はくるりと僕の方を向いて、大きな目を輝かせた。
「うわー、すごーい!」
 そんな言葉に、
「…何だよ、俺は凄くねぇのかよ」
と、ぶつぶつ呟いて膨れっ面をして拗ねる圭介君。それは独り言のつもりだったのだろうけど、小さなその子の耳にもしっかり入っていたらしく、
「だってー、あのとり、かおいろわるいんだもん」
 そんな無邪気な答えに思わずずっこける。が、圭介君は
「なんだとぅ。マリノス君だって目つき悪いじゃねぇかよ」
と、膨れっ面を更に膨らまして抗議する。さながら審判に詰め寄る時のように。勿論、小さなマリノスサポーターも負けてはいない。
「そんなことないもんっ!」
「こっちだって、そんなことねぇよっ」
 …これじゃ完全に子供の喧嘩じゃないですか。
「ケースケくん、ケースケくん。小さな子供じゃないんですから」
 僕は内心可愛らしいなぁと思いながらも、そう言って宥めた。
「あっ」
 はっと気が付いてバツが悪そうな顔をする圭介君。その後は照れくさそうに笑っていた。
「あのね、あのね」
 一方、小さな男の子は僕のシャツの裾を掴んで呼ぶと、そう話しかけてきた。
「なぁに?」
 僕は屈んで目線を合わせる。するとその子は、瞳を輝かせたままこう言った。
「ぼくもおおきくなったらユースにはいるー!」
「マリノスの?」
 にっこり笑って訊くと、こくりと頷いてその子はこう答えた。
「うん、えふマリノスー」
 それを聞いて、ちらりと僕を見た圭介君。その時、その子の名前を呼ぶ声がして、
「パパだー」
と、その子はたどたどしいドリブルと共にそちらの方へ駆け出した。そして、僕らをくるりと振り返って、
「じゃあまたね、ユースのおにいちゃん!あっ、ついでにじゅびろのおにいちゃんもー」
 そう言いながらバイバイと手を振って男の子は去っていった。
「またね」
 僕は笑顔でそう言う。
「おまけのように言うなっての。…元気でなー」
 これは圭介君。圭介君も笑顔で手を振って、二人で男の子の背中を見送ってると、その父親らしい男性がこちらに気が付いたようで、僕らに会釈すると男の子の手を繋いで帰って行った。


 ひとときの嵐が去って、僕らは顔を見合わせて改めて笑った。が、ひとしきり笑った後で圭介君はふと真顔になった。
「スガ」
「何です?」
 圭介君が僕を呼ぶその声がやけに低くて、僕も真顔になって訊き返した。すると圭介君はしばらく躊躇した後、ぼそりと呟くように言った。
「…お前って、『F』つけないのな」

 その言葉で気が付いた。
 特に考えずに付けずにいた「F」。
 ――Fの意味はフリューゲルス。

 それをマリノスユースである僕が付けないこと。
 圭介君はそれに深い意味を感じてしまったみたいで。
 そう、僕が気が付かない振りをしてたことに、彼は気付いたらしい。
 
「うーん、なんとなくですかね。慣れないってのもありますけど」
 指摘されるまで忘れてた振りをしてた感情に気が付いて、とりあえず僕はそう返す。
「戸惑い?」
「それもありますね」
 そう答えたのだが、でも圭介君は腑に落ちないのか難しい顔のままだった。彼とてユース同士の試合やナショナル選抜などでフリューゲルスユースの人間と会う機会は多かったからやはり他人事には感じられなかっただろう。
「チームが消えるってどんなだろう…」
 曇り顔の圭介君。そして溜息まじりの独白。


 横浜国際競技場上空は今日も晴れ。

 嗚呼、空はこんなにも青いのに、
 実は僕らは見えない何かに縛られているのだと気が付かされて、
 翼を持ちながらも飛ぶことが出来なくなる。
 ――あの無邪気な男の子のようには、とても。





「俺達、このままじゃライバルじゃなくなるみたいだ…」
 あの日、関東選抜やユースの試合を通してそれなりに親しくなっていたフリューゲルスユースの友人から貰った署名を頼む電話。その悔しさと自分達の力だけではどうにも出来ない憤り、そして、どれだけ署名を集めたところで、もはや絶望的な状況に変わりないのを感じていたからか、酷く自嘲じみてたその言葉は何とも忘れられない。
 実を言うと僕はかなり早い段階から合併話は知っていた。それは、銀行員であり――勤務地はずっと海外だけど――地元経済界と関わりの深い父の存在からだった。自由主義で僕を育ててきた父ではあったが、決まったときには心配して珍しくわざわざ連絡をしてきたほどだ。
 そう、それほどの衝撃的な出来事。
 僕ですらそうなのだから、フリューゲルス側の人間にはたまらないものだろう。
 …だって、チームがなくなってしまうのだから。
 僕が言葉を考えている間に、電話をかけてきた友人はこう言った。
「いや、でもやっぱライバルかな」
と言ったって、その声が空元気なのは判りきっている。
「これからポジションを争わなきゃいけないし」
 そう、下部組織はマリノス側に吸収合併されることが決まっている。が、残るのはやっぱり良い部分で、切り捨てられてしまう人間だって多いだろう。…チームが消えた上で、また新たなポジション争いをしなければいけない人間の複雑な気持ちは、吸収する側の人間である僕が理解してはいけないような気がして、それっきり途切れてしまう会話。
「…大丈夫?無理しないで。ぼくに出来ることは全部させてもらうから」
 そう言うのが精一杯だった。
「ありがとう、須釜…」
 押し殺していても泣いているのが受話器越しに伝わってくる。

 …が、いくら同情して、応援したところで。
 結局のところ、僕ら――マリノス――が彼ら――フリューゲルス――からチームをとりあげることになるのに変わりはないのに。


「スガ」
 僕を呼ぶ声が圭介君のものだと気が付いて、はっと我に返った。
「…ごめん。さっき俺、余計なこと言ったかな」
 ぼんやりとしてたのを心配してか圭介君が、僕の顔をのぞき込んでくる。
「ああ、こちらこそごめんなさい。ぼーっとしちゃって。大丈夫ですよ」
と笑って返して、僕は改めて気が付いたが、横国の周りを半周以上歩いたところだった。日も随分傾き始めている。歩きながらも奇妙な沈黙が二人をつきまとう。こんな時は、ここがゆったりと散歩出来る場所であることがちょっと悔やまれるくらいだ。
「Free、Freedom、自由、Future、未来、Forever、永遠」
 やがて、いつの間にか横ではなく後ろを歩いていた圭介君が沈黙を破って、幾つもの単語を並べた。 
「何です?」
 僕は振り返って訊いた。
「『F』って希望に満ちた単語が多いよな」
 そんな圭介君の明るく響く言葉。
「ケースケくん」
 傾きかけた日の微妙な加減で、彼の表情はしっかりと見えない。でも。
「うん。だから、必要以上に抱え込むことはないさ」
 その言葉は力強く、優しく。僕は今すぐ彼を抱きかかえたい衝動に駆られる。否、そうしていた。圭介君は驚きながらも、されるがままになっていた。
「…ありがとう、ケースケくん。でもね」
 耳元で囁いて、身体を離した。
「多分、必要最低限でしかFは付けないと思いますよ。何かの書類で正式なチーム名を書かなければいけない時とか以外はね」
 圭介君の瞳を見つめ、その茶色い瞳に誓うように続けた。
「それが僕の誇りであって、彼らの誇りを守る為でもありますから」
 …そう、それは最後までライバルたらんとした、F――フリューゲルス――の友人達の為に。
「そっか、お前らしいな」
 圭介君は微笑んでそう言った。
「お前が良いんなら、それが良いさ」
 そう言う、その瞳は物凄く優しいもので。その言葉の奥に彼が僕を気遣ってくれているその想いが込められているのが判って。僕は改めてこの人に支えられていることに、その幸せに気付かされて、泣きたいような気持ちになる。それは、同時に僕に笑みをもたらして。
「行こうぜ」
 そう言って笑って圭介君が歩き出すのに、
「ええ」
と、僕も笑って、再び歩き出す。
 
 それでも、ふと思い出して陸橋の上で立ち止まって振り返る。
 …そう、ここは最後の横浜ダービーの場所でもあって。甦る記憶と共にスタジアムを見上げた、その時、足下に居た鳥たちが一気に飛び立った。その音にケースケくんも振り返って、見上げる。

 そこには重力の枷を外して何にも縛られることなく、
 迷いもなく、ただ空へと向かって羽ばたいていく鳥たち。

 …二人見上げながら、多分考えたことは似たような事だったと思う。

 今はまだ若すぎて、見えない何かの影を振り払うことは出来ないけれど。
 ――僕らは飛んでもみせるよ。
 たとえ翼を奪われても、きっと。彼ら――Fの子達――のように。





   ・・・・・


 僕が高校卒業後、ユースを過ごしたマリノスではなくエスパルスに進んだ理由は上に振り回されるのはもううんざりとか、そういう気持ちからではなくて――なかった訳ではない。特にトップチームのユース出身者の扱いは多少は考えさせられてしまう――。色々なチームに誘われた中で、圭介君と同じ静岡県内でも、つい清水の方を選んでしまったのは。勿論条件が良かったと言うのが一番の理由でも。

「だから、ってわざわざエスパルス?」
 圭介君はそう訊いてきた。
「いや。ぼくはケースケくんの最も近しい人であると共に、良きライバルでありつづけたいですから」
 そう僕は言い切った。
「ヘイヘイ」
 圭介君が呆れながらも満更じゃないような顔をしているような気がするのは、単なる希望だろうか。



 エコパの周りの緑は眩しいほどで、水色とオレンジに染まったスタジアムに紙吹雪が舞った、静岡ダービー。
 センターサークルの向こうでは圭介君がサックスブルーのユニを纏って不敵で素敵な笑みをこっそりと僕に寄越して。
 僕は自分のオレンジ色のユニフォームを強く意識する。
 その胸に書かれたスポンサー名は、元居たチームのスポンサー――あの騒動の元凶となった――のライバル会社。



 …僕は別の翼で飛ぶことにする。






(Fin)

2003.09.04 UP

※あとがき※
あくまでもフィクションですが、98年度に消滅したクラブチームがあったのは忘れようもない悲しい事実です。
いや、当初は小さな男の子とのやりとりまでの話だったのですが、チーム名を書いたところで、あの年代設定で須釜がマリノスユースであれば巻き込まれていただろうと思い出してしまいまして。
万一、当事者サポの方が読まれてたらすみませんでした。