それは思い出の中。金浦空港の出発ロビーで。 「じゃあね、ヨンサ。元気でね」 祖母にそう言われ、幼い俺はコクリと頷く。それを見て、見送りに来ていた潤慶は、 「ヨンサはどこに帰るの?」 そう俺に尋ねる。それに俺は 「日本だよ」 と答えた。すると潤慶は 「やだ、僕も帰る」 と、嫌だ嫌だと言い張って。俺は呆れて 「ユンギョンの家はこっちでしょ。すぐ会えるよ」 そう言いきかせるように言う。でも潤慶は 「やだ、ヨンサは僕と一緒だ」 と尚も言い募る。怒っているような、泣いているような、真っ赤な顔をして。 そうやって、帰り際にいつも駄々をこねる潤慶。 それに俺は振り向かないことにしてた。 だって、振り向いたら俺も挫けてしまいそうになるから。 ずっと一緒に居たかったのは俺だって同じだから。 …だから振り向かない、振り向けない。 それから数年後。成田空港のロビーに俺達は居た。 親の都合でしばらく東京に住んでいた潤慶がソウルに帰る日だった。 別れ際に潤慶は言った。 「ヨンサもこっちに来れば良いのに」 それに俺は苦笑しながら返す。 「冗談。俺は日本代表だよ」 そう言いながらも何かがチクリと胸を刺す、それに気がつかないふりをして。彼もまた気がつかないふりをして。 「じゃあ、またね」 と手を振ってエスカレータを降りていく潤慶。 …そう、僕らはいつか離れていく。 判っていてそれでも本当はずっと一緒に居たいから。 その思い、その気持ちだけ残して。 ――いつの間にか二人して振り向かない、振り向けない。 シスター 関空から飛行機を乗り継いで、更にマドリッドからは随分と長くAVE―日本で言う新幹線―に揺られてようやっと辿り着いたのは、青い空に石畳の坂が続く古い街並み。片手でキャリーケースを引いて、もう片方の手に持ったエアメールの差出人の住所を探して、俺は歩いている。その手紙の返事に「近く行くよ」とだけメールして驚かせるつもりで来たスペイン。しかし、その作戦は困難を極めている。 「…らしくないことはするもんじゃないね」 そう自分に苦笑しながらも、なんとかうろ覚えのスペイン語で道を尋ね、「もうすぐそこだよ」と教えられた方へ歩いていくと、広場に出た。そこでは子供達が石畳の上でサッカーボールを蹴っている。その様子が微笑ましくて、自分の幼い頃を思い出して自然と笑みがこぼれる。幼い頃、俺と潤慶、一馬に結人と4人はロッサの中心だった。練習が終わって遊んでいてもその4人だと、結局いつもボールを蹴っていたっけ。そんなことを思い出す。 と、そこへ、俺の元に転がってきたボール。それを足で受け止めると、わっと子供達が駆け寄って話しかけてくる。スペイン語はほとんど判らないけれど、それを欲しがっているのをは伝わってきた。俺はボールを渡す。 「グラシアス!(ありがとう)」 人懐っこそうな笑みを浮かべた子がそう言った。 「デ・ナダ(どういたしまして)」 と、俺は微笑んで返す。するとその子は更に何か話しかけてくる。 俺は判らないといった風に首を振ると、その子も言葉は通じないと覚ったのか、俺の手を引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。 俺が首を傾げると、ボールを俺に渡した。 「サッカーしよう!」 短くそう言われてようやっと意味が判った。きっとこの子達も俺が見ているのに気がついてそう誘ったのだろう。 「いいよ」 俺はボールを足元に置く。すると遠くから聞き慣れた声が俺を呼んでいた。 「ヨンサ!?」 振り向くとトレーニングウェア姿の潤慶が自転車で坂道を下りてくるところだった。キッとブレーキの音を立てて俺の脇に止まると、潤慶は自転車から軽やかに飛び降りる。 「ユンギョン!」 先に叫んだのは子供達だった。わっと寄ってくる子供達に潤慶はスペイン語で何か話しかけて、俺の方を向いた。それを聞いた子供達も俺を見てくる。目を輝かせて。 「何?」 俺は潤慶に訊いた。すると潤慶は笑って、俺の足元のボールをひょいっと蹴り上げるとリフティングをはじめる。そして、俺にそのボールを返すと 「ヨンサもサッカー選手だって言ったの」 と言った。つまり、何かして見せろってことだ。 まずは蹴り上げたボールを足をクロスして一度挟んでもう一度蹴り上げる。それを肩に乗せるとそのまま反対の手の方へと転がす。 「ブラボ!」 子供達がそう言って手を叩いた。 「ユンギョンも!」 その中の誰かが言ったので、俺はひょいっと潤慶の方にボールを浮かす。 気がつけば、いつの間にか観客が増えている。誰かが持ってきたアコーディオンに合わせて器用なリフティングを披露しはじめる潤慶。 「ブラボ!」 恰幅の良い初老の男性に話しかけられ、握手を求められた。 「見てたよ。君も韓国人?」 コリアという響きで意味が判った。だが俺が答えようとする早く、潤慶が答えた。 「いや、日本人だよ」 「ほう、日本人。そういえばリーガにも一人いるが、君も来るのか?」 さすがにこれは潤慶に訳してもらう。 確かにリーガには一人日本人選手が居て、その前にも何人かの日本人がやってきていた。だが、俺にはまだ早い。 「僕はまだまだですよ」 そう俺が言ったのを翻訳しながら潤慶がニヤリと笑った。 「でもプロだろう。日本で、かい?」 「ええ」 これは自分で答えた。 それに頷くと彼は潤慶に何か話しかける。 「ユンギョン、またウチの店に寄りなさい。彼も連れて」 「勿論おごりだよね」 「彼の分だけのつもりだったが、通訳して貰わなければ異国の話は聞けないからな」 「やった!」 …と、いうことらしい。 「ユンギョン、サッカーしようよ。リーガはまだお休みでしょ?」 大人達の話が終わるのを待っていたかのように、子供が潤慶に話しかけた。しかし潤慶は俺を振り返ると、 「今日はお客さんいるからまた今度ね」 そう言って、子供達の頭を撫でる。 「判った、またね!ユンギョン」 「アディオス!」 そう言って手を振ると「行こうか」と俺を促し、止めてあった自転車を引いて歩き始める。 「ここまで来るの、疲れたろ?」 歩きながら潤慶が言った。 「うん。さすがに遠いね」 俺はそう答えた。乗り継ぎがあったりして、飛行機の中ではあまり眠れなかった為、軽い時差ボケになっている。 「すぐそこだから」 そう言って曲がった角のアパート―というには豪華だけど―。その玄関の鍵を開けながら 「しかし、無茶するね。連絡くれたら迎えに行ったのに」 少し呆れたように潤慶が言った。それに俺は 「いや、驚かせたくて」 と笑って返す。確かに驚いたけど、と潤慶は苦笑しながら 「おかげで何の用意もしてないから、今はそのソファでも構わないかな」 と言って奥の寝室から毛布を持ってきた。 「うん、ありがとう」 受け取って礼を言う。 「僕はちょっと買い物行ってくるよ。しばらく休んでて」 それになんと返事をしたか覚えていない。気がつけば眠っていて、受け取って枕代わりにしていた毛布が肩に掛けられていた。 俺は起き上がってぼんやりとした頭で部屋を見つめる。白い部屋。物はあまり無く、余計に広さを感じる。ただ隅に置かれた本棚には書籍がびっしりと並んでいる。そんな整然としていながらも、どこか落ち着きすぎず、和む部屋だった。そういえば、潤慶の東京での家もそうだったなと思い出して、少し懐かしくなる。その部屋の時計を見ると午後9時過ぎだった。 「ヨンサ、起きたの?眠れた?」 キッチンからマグカップを片手に潤慶が出てきた。帰ってきて着替えたらしく、洗いざらしのシャツにデニム姿だ。 「ありがとう。中途半端な時間だね。夕食は食べたの?」 俺がそう訊くと「まだ」と答えて、俺の分のコーヒーを持ってきてくれた。 「さっきの親父さんの店があるよ。行く?」 勿論と頷いてコーヒーを飲んでから、支度をして部屋を出る。 あの広場のすぐ傍にあるその店はバーのような、居酒屋のような、そんな感じの店だった。日本ではスパニッシュオムレツと呼ばれるトルティーリャ、それにパエリアとワイン。この国を代表する料理はどれも美味しかった。 「ほう、従兄弟か。国を跨いだ」 彼はパイプに火を付け、俺達を避けながら煙を吐いてそう言った。 「気にさわったらすまない。何、こちらでは別に珍しいことではなくてね」 ECがEUになって久しい。ヨーロッパでは国境のボーダレスが進んでいる。それに国を跨いだ結婚というのは元々こちらでは珍しくないはずだ。ヨーロッパでは各国の王族や貴族は血縁関係にあったりする。そんなことを世界史の授業で聞いたのをちらりと思い出した。 「この国も異国の影響を受けた時期があってな。もう少し足を伸ばせばイスラムの宮殿なんかもある」 「ああ、明日辺り観光に連れて行こうかと思っていたんだ、どう?ヨンサ」 訳してくれてそう言った潤慶に「うん」と俺は頷く。 頷きながら、俺は別の音色に聴き入っていた。店の片隅に置かれたアンティーク調のレコードからはアランフエス協奏曲が流れている。少し物悲しくも美しいギターの音色。それは、心にまで響く音色だった。 翌日も気持ち良い晴天に恵まれた。潤慶の運転する車に乗って観光名所を回った。まずは地元アンダルシア地方。有名なのはやはりグラナダのアルハンブラ宮殿だろう。確かアルハンブラは赤い城の意だったと思う。繊細な造りでありながら、イスラム文化らしく内は華麗なアラベスクで装飾されていた。レコンキスタで逆に取り残された異国の宮殿。その城はそのまま時間まで取り残されたような、今日もひっそりと昔のままの姿で佇んでいる。 その日は帰らずそのままバルセロナまで一気に走って、前から一度見てみたかったサクラダ・ファミリアを見に行った。天に届きそうな高さの幻想的な聖堂。しかし、それは今も建設中。 「19世紀に着工されて、21世紀になっても未だ完成せずか」 俺は見上げながらそう言った。 「ここまで来ると、完成するの、見たいような見たくないような複雑な気分だね」 潤慶はそう返す。そして、惜しむように言った。 「完成したら、そこで終わりだもんな」 それは、まるで自分達の事のようだ。俺達は常に上を目指し続けなければいけない。満足してしまったら、それ以上は進めない。だから先を、上を目指して走り続けている。 「そうだね」 俺はそう答えた。天を目指す未完成の塔に自分を重ねながら。 アンダルシアに戻ってきて、潤慶が最後に案内してくれたのは自分のチームだった。上に頼み込んでくれた潤慶のおかげで特別に練習場などにも入れて貰えた。施設一つとってもやはり環境は断然良い。クラブでかなり差のあるJ―J2のクラブの多くは正直大変だ―とは比べ物にならない。 その練習場から少し離れたところにあるスタジアム。TVでよく目にしていて、ヨーロッパではサッカー専用が当たり前だと知っていても、やっぱり実物を見ると圧倒される。 その俺の前で、 「ここが僕のホームスタジアム」 潤慶は両手を大きく広げてそう言った。 「なかなか良いだろ?」 「うん、素敵だ」 俺はそう微笑んだ。ただ、潤慶は言わなかったけれど、アンダルシアダービーが世界一仲の悪いダービーなのを知っている。それが日韓戦を思い出させて。でもそれは言葉にせず、溜息を吐いて空を仰ぐ。 アンダルシアの夏の空は、眩しいくらいに青い。 青くどこまでも繋がっている空。 遥か東の韓国も日本も、本当は同じ空の下にあるのだ。 季節風で見せる風景を変えていても。 そう、この空は何処までも繋がっているのに。 世界は見えない何かに隔たれてしまってる。 「ヨンサ?疲れた?」 俺の溜息に気がついた潤慶がそう声をかけてきた。 「いや、そうでもないよ」 俺はそう答える。それに潤慶は微笑んで言う。 「そろそろ戻ろうか」 潤慶の気遣いに甘えてそうすることにする。 …そうだ。それでも、きっと俺達は繋がってる。 国境線も越えて、この空のように。 今言葉にせずとも繋がった思いのように。 明日の帰国を控えて荷物をまとめているところに、潤慶がアイスティーを持ってきてくれた。 「終わった?」 受け取って一口飲んで、 「ありがとう。うん、ほぼ終わったよ」 そう答えた。すると潤慶は 「じゃあ、ちょっと散歩に行かない?とっておきの場所があるんだ」 そう言った。その潤慶の後について石畳の坂を上に歩いていくと、丘の上に出た。 …白い街並み。青い海。行き交う船と、鳥。ここからは全てが見下ろせる。 それはどこか懐かしいような、とても美しい風景だった。 「良い街だろ、ここは」 俺の横に並んだ潤慶はそう言った。そして、俺を見ずに続ける。 「ヨンサにとっての広島みたいなものかな」 「え?」 その潤慶の言葉に俺は振り返って思わず聞き返す。 「ソウル、東京に続く第3の故郷ってこと。ったく、俺にさえ何の相談もないんだもんな。結人や一馬は怒ったろ」 そう言って潤慶は笑った。その様子に俺は 「…お見通しってわけね」 と、苦笑しながら答えた。 「だって、それがヨンサの生き方って判ってるから。そうと決めたら誰がなんと言おうと聞かないんだよね。ほら、子供の頃空港別れる時、絶対に振り向いてくれなかったみたいにさ」 そう言って、笑うユンギョン。…本当に、何もかもお見通しだ。 広島に行くと決めた時も、残ると決めた時にもユンギョンには何の相談も、連絡すらしなかった。したら迷ったかもしれないからじゃない。どんなに離れていようと彼には通じているそう思ったからだ。たとえ、どんな選択をしようとも。 「オファーの中にさ、こっちの2部のもあっただろ?」 俺は頷いた。だが、あの時はとてもこちらに来るとは考えられなかった。 キャリアを考えればこちらに来るべきだっただろうが、あの時、俺はあの場所で必要とされていて、その希望に応えたかった。そして、何よりも逃げ出したくはなかったのだ。「本当は来て欲しかったよ。でもさ、ヨンサの決めることだから。僕はそれを信じるだけだった」 その潤慶の言葉。彼にはやっぱり届いていた。 「俺だって、潤慶の成功を祈ってたよ」 スター集団レアルや日本人選手のおかげでリーガの情報も随分日本に伝わってくるようになった。そして、潤慶のことも。その活躍は自分のことのように嬉しかった。俺はそう言う。「ありがとう」と潤慶は笑った。そして、言う。 「…遅くなったけど、J1復帰おめでとう」 その潤慶の言葉を待っていたかのように鳴り響く教会の鐘。不意に強い風が吹いて花びらが舞い上がった。俺はそれを見上げる。 「行こう!」 そう言って潤慶は微笑んで振り返り、俺に手を差し伸べてくれた。俺はそれを掴んで立ち上がる。 街の教会からは美しいシスターの祈りの歌声も聞こえてくる。 それは風にのって何処までも、遥か彼方まで届いているようだった。 空港の出発ロビーまで潤慶は見送りに来てくれた。洋風の挨拶で軽く抱き合って別れを惜しんだ後、歩き出した俺の背中にユンギョンは言う。 「いつか、で良いからさ。こっちに来てよ、ヨンサ」 その言葉に俺は振り返って、大きく手を振って答える。潤慶は笑って手を振っていた。 それに背を向けて、また歩き出すと自分に言い聞かせるように呟いた。 「いつか、ね」 …そう、隔たれて、離れていても気持ちは繋がっているから。 振り向いて、別れを惜しみながらも。 僕らは違う道を歩いていく。 ――思い出と祈りと希望を抱いて。 |
BGM:ポルノグラフィティ「シスター」 2006.05.20 UP |
※このお話はフィクションです。 スペインの描写は資料である程度は調べたものですが、イメージです。 また潤慶のチームはセビリャのつもりで書きましたが、正直リーガには疎いです。 あくまでもイメージということで、感じとっていただければ幸いです。 |