炎天下の練習場に揺らぐ陽炎。陽が傾き始めても暑さがしつこく残る午後練習の後も、俺は残ってボールを蹴り続ける。幾通りものセットプレイのパターンを想定して、それに合わせて軌道を変えて、何度でも。納得するまで繰り返せば、いつの間にか短かったボールの影も長くなっていて、俺はボールを片付け部室へ戻った。 「サンキュ、辰巳。助かった」 自主練に付き合ってくれた長身FWに俺はそう声を掛ける。頷いた辰巳は既に着替え終え、帰り支度をしていて、 「まだ帰らないのか?」 と、練習着のまま椅子に座り込んだ俺を見てそう訊いてきた。それに俺は手にした日誌をヒラヒラとさせて答える。 「ちょっとな。渋沢いねーから日誌も書かなきゃいけねぇし」 「……そうか。あんまり無理するなよ」 辰巳がそう言って俺の肩に手を置くのに、ニッと笑って返した。 「判ってるって。じゃ」 そう軽く答えながらも、辰巳が本当に心配してるのは別のことだとは判ってる。けど、俺にはそんな――選抜落ちの――感傷に浸っている暇はない。俺たちは都大会を勝ち抜いて全国へと進まなければ行けない。それは至上命題。 だけどやっぱり、久しぶりに味わった「選ばれない、出られない」という悔しさから、立ち尽くしそうになる思いもあるのが本当のところだ。だから、必死に蹴り続けている。立ち止まらないように、前だけを向く為に。 ……そうだ、こんな思いは久しぶりだ。あれはレギュラーになって幾度目かの公式試合でのことだったか。 ジャッジがおかしいことは、前半でイエローを貰った時点で気がついていたその試合。 それでも流れはこちらに来ていた後半。早く点を、と俺はペナルティエリア内へ入り込んで、ちらりと横目で確認すれば敵DFは二枚味方FWに付いていた。ならば、とそのまま突っ込めば不意に俺の前に残りのDFが立ちはだかって、それを強行突破しようとした瞬間、衝撃と共に足に痛みが走って俺はその場に倒れこんだ。それに笛が鳴って、しめた、と内心思ったその時、出されたカードは俺に向けてのモノで。 「え?!」 何で、と俺が問えばシミュレーションだと言われ、さらにもう一枚出されたそのカードの色はレッド。前半でも一枚貰っていたからそうなるのは道理だが、それにしても今のは俺にとっては不服なジャッジで、舌打ちしたくなるのを何とか堪える。……微妙なところでさえ、いや明らかにおかしな場合でもその場で判定がひっくり返ることなんて、Jの試合ですらまず無いのだから、受け入れるしかないのだと自分に言い聞かせて。 けど、それ以上に腹立たしいのは自分自身で。一軍に上がってまもなくスタメンで出して貰ったというのにこのザマ。おまけに次の公式戦にはどうやったって出られない。 俺にもう少し技術があれば余計なカードなど貰わずに済んだのにと、情けなさと悔しさを堪えてベンチへと歩いて行き、ハッと気がつけば監督が俺を険しい顔で見つめていた。その前に立って、 「あのっ……」 と、謝ろうとした俺を遮るようにバサッと頭に投げかけられたタオルは先程まで監督の肩にあったもので、てっきり怒られるものだと思い込んでいた俺は呆然と立ち尽くす。 「どうした、早くクールダウンしてこい」 「……は、はい」 そう返事をし、いつもと変わらぬ仏頂面に一礼して、言われた通りクールダウンへと向かおうとした俺の背に声が掛かった。 「――お前はよくやった」 慌てて振り返ると、監督はもうピッチに視線を戻していた。いや、多分俺など見ずに言っただろうその言葉。けれど、その一言で俺は救われたような気持ちになる。俺はもう一度深く一礼して走り出した。 そして、クールダウンを終えて首にかけていたタオルを手にした時、ふとその違いに気がつく。 「このタオル……」 それは使い慣れた部のものではなく上質な手触りのブランドもので、恐らくは監督の私物なのだろう。部の備品ではなく、あえて私物の方を寄越した監督に、不器用な優しさみたいなものを感じて俺は思わずクスッと笑ってしまう。そして、汗を拭ったそのタオルの柔らかな肌触りと共に、心が軽くなった気がした。 ――そうだ。あの時のタオルを、俺はまだ返しそびれている。 通り雨 まとわりつくような汗をシャワーで軽く流してから再び戻った部室で、誰かが持ち込んだ去年の学祭のうちわで扇ぎながら、ぼんやりと一息つく。汗が収まってから着替えをしていると窓から強い風が吹き込んできた。その風の中に湿り気を微かに感じて、 「一雨来るかな」 窓辺に立って俺はそう呟く。 「失礼します」 と言う声と共にカラリと開いたドアからは一層強い風が入り込んできて、振り向けば見覚えのある後輩が立っていた。掃除当番にやってきた二年だろう。 「お疲れ様です。まだ残ってたんですか、三上先輩」 「ええと、山川だっけ」 俺は記憶を辿って、顔と名前を一致させた。最近ニ軍にあがった一つ下の後輩だ。 「あ、はい。でもどうしてオレの名前……」 驚いた顔の山川に、俺はニッと笑って答えた。 「この前二軍の練習を見たからさ。結構頑張ってんじゃん」 確か、二軍の連中――二軍はそれに甘んじる者か更なる向上心を持つ者かで両極端だが、数としては前者の方が多いだろう――の中で最後まで諦めないひたむきなプレイをしていた。渋沢が言うには風祭の友達らしく、それを聞いて妙に納得したものだ。それで覚えていた。 「ありがとうございます!」 そう礼を言いながら頭を下げる山川は初々しくて、俺は自然と笑みを浮かべてしまう。俺にもあんな頃があって、それからまだそんなに経ってない筈なのに、酷く昔のことのように感じるから不思議だ。 「掃除か?」 俺がそう確認すれば山川は、はい、と返事をしたが、帰る気配を全く見せない俺を見て、 「あ、でも、まだ居るんでしたら待ってます」 と、そう言った。 「だったら今日は俺がやっとくから良いよ」 「え、そんなわけには」 俺の言葉に山川は慌てて断ろうとするが、良いからと俺は片手を振り、 「俺まだ日誌書かなきゃいけねぇし、一雨来そうだから帰りな」 と言って、戸惑った表情の後輩にニッと笑えば、山川も困ったような笑みを浮かべて答える。 「判りました。それじゃ、お願いします」 そう言い一礼した山川は、ふと何か思いついたように、エナメルバッグを開けるとスポーツドリンクのボトルを取り出し、俺の前に差し出した。 「代わりと言っちゃなんですけど、このドリンク貰ってください。――お疲れ様でした」 ちょうど喉が渇いていたところだったので、ありがたく受け取って言う。 「サンキュ。お疲れさん」 それに笑顔でペコリと頭を下げて出て行った後輩。開いたドアから入ってきた風は、さっきよりも濃い雨の匂いがした。 遠雷と共に暗くなる部室はやがて雨音に包まれる。徐々に強くなっていく雨はいつしかバケツをひっくり返したような激しい雨音に変わり、雷も確実にこちらへと近付いているようだった。俺は日誌を書く手を止めて、電気を点けようと立ち上がる。稲光で一瞬明るくなったその時、ガラリと勢い良くドアが開けられて俺は驚いて振り返った。 「監督?」 そこに立っていたのは桐原監督だった。酷く雨に打たれたようで、シャツの色が変わっていて、いつもきっちりと撫で付けられている前髪も幾束か額に掛かっている。 「三上か」 「どうしたんですか、そんなに濡れて」 俺の問いにハンカチで顔を拭いながら、フッと笑って監督は答えた。 「お前のように残って練習してる者がいないか、確認の為にひとっ走りしたものでな」 確かに、広い練習場は落雷の危険性がある。……だけど、それより。 「見てたんですか」 集中していたせいかまったく気がつかなかったし、見ていたなら少しくらいアドバイスくれたって良い様なものだけど、そういうことする監督じゃないし。 「くれぐれもオーバートレーニングにならないように」 と、そう言ってくれたってことは、それなりに良かったということなんだろう。素直じゃないとは思うが、やっぱり嬉しいので、 「ありがとうございます」 俺はそう答えて頭を下げた。下げたその時、監督が手にしていたハンカチからぽたぽたと水が滴り落ちて床にシミをつくっていることに気がつき、俺は席を立つと自分のロッカーから自前のタオルを出して監督へと差し出す。 「俺のタオルで良かったら使ってください」 「すまんな」 そう受け取って、監督は俺の座っていた反対の椅子に座り、髪を拭きながら気がついたらしい。 「……お前だけか?片付けは下に任せてるんじゃないのか」 「いや、ちょうど日誌を書くところだったんで、一緒に片付けようと断りました」 でも、そう言われて後輩も戸惑ったみたいでしたけど、と俺が言えば、 「そうか」 と、監督は微笑んだ。俺はさっき貰って飲んでいたスポーツドリンクに手を伸ばし、備品の紙コップを拝借して注いで監督にも勧めた。頷いた監督にそれを手渡しながら俺は言う。 「初心に戻ってみようと思ったんですよ。俺はここではレギュラーですけど、まだまだだと思い知らされたんで」 俺の言葉に、監督は俺を見ないまま言った。 「焦ることはない。お前はよくやってるし、これからまだ伸びるだろう。でなければ、私はお前にこのチームの司令塔など任せん」 「だからこそです。皆の期待を背負ってるから、俺たちはニ軍や三軍に大変な雑用を任せる権利があるんですよね。でも、逆に言えば俺たちにはその分期待に応える義務がある。けど、俺はそれをいつの間にか忘れてました」 いつしか自惚れて、当たり前だと思ってしまっていた。面倒なことばかりだろうに、それでも俺たちを応援してくれるありがたみさえ、忘れかけていた。 「――選抜は残念だったな」 呟くようなその監督の言葉に俺は首を横に振った。 「いいえ。自分の慢心に気がつく良い機会でした。それと……」 言いかけて止まった俺の言葉。監督が俺を見て促す。 「それと?」 その名を口にすることに一瞬迷ったが、俺は続けた。 「――正直に言えば、俺は水野を意識し過ぎてました。結果水野は一番に受かって、俺は落ちた。けれど、そうやって誰かと比べてたって仕方ないってことにも気がつけました」 ……そうだ。誰かより出来るとか、それくらいで満足しているようじゃ、高みにはいけない。 それに、俺が水野に負けて本当に悔しかったのは、きっと水野が監督の息子だからだ。 親の七光りへの羨望。それは勿論ある。けれどそれ以上に、水野と監督は血の繋がった親子だから――時々感じる不器用な監督の愛情は俺にではなく、本当は水野に向けられたもののように思えてしまうから、つまらない嫉妬にもかられる。 今回の合宿で思い知らされたのは、そんなものに振り回される自分の情けなさと、血は争えない水野の実力だった。 「済まなかった」 監督が詫びるように言った。 「――どうして」 俺が戸惑いながらそう訊けば、 「私のせいで要らぬプレッシャーをかけたな」 と、監督がそう言うのに俺は微笑んで答える。 「おかげで大切なことに気がつけたんです。多分、俺にとって最も大切なことに。だからここまで来れたことも、今回のことも全部監督のおかげです。――だから」 「だから?」 「俺は控えになっても構いません」 その言葉の意味するところ。あの様子――春の大会とはまた違う、選抜選考合宿でのいきいきとした様子――を見れば、中学では武蔵森を自分から蹴った水野でも、高みを求めて再びここへやってくるだろう。そして、それは監督だって願うところの筈だ。実力も見て納得した。ならば、俺はそれを受け入れる。結果、控えになることがあっても仕方ないだろう。 「俺は身代わりにさえならなかったんだから」 思わず零れてしまった本音。監督が倒れたあの時、監督が本当に誰を求めているのか知ってしまった。やはり俺じゃ駄目なんだと思い知らされてしまった。サッカーの実力にしても今の俺では水野には敵わなかった。 それでも、俺は監督の側に居たいと思う。時折触れるその不器用な優しさに惹かれてしまったから。 俺の悲痛な叫びに監督は厳しい表情で言った。 「そういう言い方はやめなさい、三上。それに……私は、身代わりを愛せるほど器用ではない」 こちらへ、と促され俺は監督の前に立つ。座ったままの監督が俺を見上げてきた。気がつくと俺の手を取っていた監督。雨に打たれたせいだろうか、最初はひんやりとしながらも、じんわりと伝わってくるそのぬくもり。 「竜也は竜也だ。誰かと比べたって仕方ないと言ったのはお前ではないか?」 けれど、血の繋がった親子の愛情と俺が監督を想う気持ちは、繋がりにおいてどうやっても敵いっこない。それが事実だろう。痛いほど判ってるから、俺は悔しかったんだ。 「確かに最初にお前の姿を見た時、竜也と重なったのは否定出来ない。けれど、お前を見ていてその個性、才能をもっと引き出したいと思ったから、私はお前を見出しここまで引き上げた」 そう言って立ち上がった監督が俺の肩に手を伸ばし、俺を抱き寄せた。そして、右の手が俺の頬を撫で、両手で挟まれる。 「でも――」 言いかけた俺の唇に重なった監督の唇。それは優しく柔らかい感触で、俺は目を閉じ全てを委ねた。唇が離れて、間近にあるその顔はフッと緩んだ。 「お前が竜也の代わりだったら、こんなことは出来ないではないか」 そう冗談めかして監督は言ったけど、俺が水野を羨んでも同じ立場になりたいとは思わなかったのは、そういうことだ。だから二人を仲違いさせようと考えたのだろう。 「私はお前にお前であって欲しい。控えに、なんてことはその時考えることだ」 監督は俺の瞳を見つめながらそう言った。俺はその視線から目を逸らし俯く。 「……やっぱり、勝手ですね」 その時、なんて狡い。けれど、そう正直に言ってしまうのが監督らしく。 「そんでもって、不器用だ」 俺はそう言う。いい大人なんだし、口ではなんとでも言える筈なのに。でも多分、そう言う不器用さにも俺は惹かれてしまったんだろう。 「そうだな」 そう監督は頷き、その手が俺の頭を撫で、もう一方の手で身体を引き寄せた。 ――決して泣くまい。そう堪えていた涙が頬を伝わっていくのを感じる。選抜に落ちた帰りの電車で込み上げてきたものはあったけど、その時でさえ俺は涙を許さなかったというのに。 「でも、俺はそんな貴方だから……」 どうしようもないと判っていて惹かれてしまった。だから、その先の言葉は口に出来ない。 一時の恋だとは判っている。通り雨のような愛。 窓を打つ雨も段々と弱まってきて、この温かな腕の中に要られる時間も終わる。 それを止めることなど俺に出来るはずも無い。 ……それほどまでに惹かれてしまったから。 やがて雨音は去り、窓ガラスから差し込む光で部屋は鮮やかな朱色に染まる。 「先に帰る」 そう言うと監督は椅子から立ち上がった。その首には俺のタオルがかけられたままで。 「あの、そのタオル」 俺がそう言えば、 「これは貰っても良いだろう?お前も私のを持ったままだ」 フッと笑ってそう答える監督。あの時のことを覚えていてくれたのだ。俺は懐かしいような切ないような気持ちになりながらも、 「はい」 と、俺も笑みを浮かべてそう返事をし、立ち上がってドアのところまで行く。 「お前もなるべく早く帰るように」 その監督の言葉に、 「はい、お疲れ様でした」 そう笑顔で返事をして俺は深々と頭を下げた。 寮に戻りクローゼットにしまっていた監督のタオルを手にして俺はそれを見つめる。 ――すぐには無理でも水野と並び立てるようなMFになって、ずっと監督の側に居たい。その為の努力ならどれだけだってしよう。それが俺の監督への想いの証だから。 ……大丈夫だ、きっとやっていける。 俺はそう誓うように思うと、手の中のタオルを強く握り締めた。 |
| 2011.07.24UP 初稿:2007.12.30発行「Akira Mikami Anthology」より |