放課後の練習が始まって、掛け声と笛の音が響くグラウンド。それを窓越しに聞くトレーニング室。筋トレを終えてから向かった医務室で、テーピングを巻いてくれたトレーナーにまだ痛むかと訊かれて、俺は首を振った。 「よし、もうよっぽど良いだろう。しばらくは大事を取った方が良いけどな」 トレーナーはそう言って笑った。それからコーチの方を振り返る。コーチはそれに頷いて言った。 「明日からのメニューはまた調整しよう」 「はい。ありがとうございました。失礼します」 そう言って医務室を出る。傾いた陽が差し込む廊下、赤く染まる空。明日はきっと良い天気だろう。回復を告げられたのもあって晴々とした気分になる。 翌日の早朝。久しぶりにいつものランニングを再開する。ジャージ姿を見て渋沢が俺を呼び止めた。 「三上、もう良いのか?」 「ああ。大丈夫だって」 そう言っても尚も心配そうな渋沢に俺は笑って言う。 「心配すんなって、まだしばらくは別メニューだし。トレーナーの許可は貰ったよ」 そう俺が言うと渋沢は「なら良いが」と言ってようやっと笑みを見せた。それに俺もニッと笑って 「じゃ、行って来る」 と言うと、片手を上げて背を向けた。 「ったく、本当に心配性だよな、あいつは」 そう言ってみて苦笑する。本当は俺も他人の事は言えないんだろう。そんなことを考えながら歩く廊下で、すれ違った先輩達に挨拶する。 「おはようございます」 「おお、三上。もう良いのか?」 そんな気遣いに、俺は 「はい。どうもありがとうございます」 と、笑って答えた。それに先輩も微笑むと 「気をつけろよ」 と言ってポンと俺の肩を叩いた。俺は「はい」と返事をすると玄関へ向かった。靴を履いて出た外の、朝の空気は清々しい。 三上を見送った渋沢に後ろから声が掛かる。 「おはよう、渋沢。…三上は?」 ジャージ姿の水野だった。いつも朝の早い三上の姿を見なかった為に、渋沢に訊いたのだろう。 「ランニングに行ったが」 渋沢はそう答えて、ニコッと笑うと付け足した。 「まだ今なら追いつくぞ」 「…ああ。ありがとう」 そう言うと水野は足早に玄関の方へと向かう。それを見送って、渋沢は窓の外を見ると言った。 「良い天気になりそうだな、今日は」 ランニングハイ その日の朝の重く垂れ込める雲は、先行きの暗さを表していたのかもしれない。 食堂の片隅に置かれたTVからはお天気キャスターが「東京はお昼前から雨がぱらつくかもしれません」と言うのが聞こえて、 「やだなぁ、こんな天気」 藤代が朝食を食べながらそう言うのに 「珍しいね」 と、笠井がお茶を飲みながら返した。そう、この天才FWに天気など関係ない筈だ。だが、藤代は口を尖らせる。 「だって、あそこの芝、今の時期コンディション悪いんだよ。雨降ったら悲惨」 ちょうどそこで藤代の後ろを通った俺は朝食を笠井の隣の席に置きながら会話に参加する。 「まあ、あそこは陽があまり当たらないからな」 「三上先輩」 振り返った藤代と笠井が「おはようございます」と挨拶をする。 「他人事みたいに言わないでくださいよ、先輩」 笠井が呆れたように言った。 「俺は今日は多分ベンチ」 ラックから新聞を持ってきて俺は読みながら食べはじめ、そう返事をした。 「確かにあっちは守備重視ッスよね。でもカテナチオじゃ勝てないよ」 それを聞いて笠井は半ば気の毒そうな呆れた声を出した。 「誠二…」 「…お前、本当に馬鹿だな」 そう俺達が呆れるのに藤代は 「あ、酷いッスよ。ワザとなのに」 と、抗議する。そんなのは百も承知だ。 「だからだよ。で、つまんなかったから、にんじん追加ー」 そう言って俺はひょいっと煮物のにんじんを藤代の皿に放る。それに 「えー、没収してくださいよ!」 と、藤代が倍にして返してきて、「えー、じゃねぇよ」と皿に返す俺。にんじんは俺と藤代の皿を行ったり来たりしている。その様子を見て、 「何してんの、アンタら…」 と、先程の笠井以上に呆れた声をかけて来たのは朝食の盆を持った水野だった。 「おはよう!水野」 藤代がにんじんをひょいともう一度俺の皿に放り込んで、そう水野に話しかける。いい加減馬鹿らしくなって、返さずそのにんじんを食うと俺は 「俺、多分休みだから、今日は頼むわ」 と、水野に言った。 「そうかな。膠着状態になったら多分呼ばれるんじゃない?」 水野は俺の隣に座ると囁くように言った。そして、こうも仰る。 「大体このところ上手くいってるじゃん、俺達」 「ナマ言ってんじゃねぇよ」 そう返しながら新聞で軽く頭を叩いて、ニッと笑う。水野も同じ笑みを返してきた。 隣の県の私立高校との練習試合。選手権で当たることもある名門同士の試合は、ほぼ互角になるはずだった。雨さえ降らなければ。 藤代と話した通り、ここのグラウンドは川沿いにあって、芝の状態はあまり良くない。遠くで蛙の鳴く声がして、開始から10分頃にぽつりぽつりと来た。 「雨…」 降り出した雨に控えがバタバタとスパイクの用意を始める。俺もその横で雨用のに履き替えた。スリッピーになるピッチ。ボールが足に付かない状況が続いて、膠着状態になる。が、やはりそこは地の理がある相手。カウンターから先制を許してしまう。 「三上、アップしておけ。後半から行くぞ」 監督が振り向きもしないでそう言った。 「はい」 俺は返事をし、アップを始める。結局前半は1−0で、後半へと折り返す。ハーフタイムのロッカールーム。交代が告げられ、俺はユニフォーム姿になると、ミーティングに参加した。 「システムを変える」 と監督はそう宣言し、指示する。 「水野はもっと攻撃的に、三上はそのサポートに回れ。間宮はマークを解除、ボランチに専念しろ。DFはラインコントロールをしっかり」 「はい」 それぞれ返事をした。そして、水分を補給してからピッチへ戻っていくのに加わる。 「フォロー頼むぜ」 水野が横でそう言った。 「任せろ」 俺は水野を見ないまま、返す。見えているのはこれからの試合、敵の攻略だけだ。 …が、実際に後半が始まってみると上手くはいかない。体格のかなり良い相手ボランチに吹っ飛ばされそうになる。口に入った泥を唾と一緒に吐き出して、顔に付いた汚れをユニフォームの袖でぬぐう。 流れがこれ以上あちらにいかないよう、しばらくは相手の攻撃に耐える。耐え切る。そして、ようやっと回ってきたチャンス。俺はパスを受け取ると周りを確認せずにくるりと前を向いた。相手にパスコースを読まれない為だったが、それが災いした。後ろからの衝撃に俺は倒れる。審判は見ていなかったらしく笛は吹かれない。 「悪い悪い」 そう言われて、手を引かれて起き上がるものの内心舌打ちをする。そして覚える足の違和感。表情に出さぬよう気をつけながら…筋か?と見当をつける。 だが、負けている上に、既に俺で交代の枠を1枚使っている。幸いペースはこちらのものになりつつある。点を上げられれば、追いつけば何とかなるだろう。それまでもってくれ、と念じながら俺は走り続ける。 だが無情にも徐々に強くなる雨。水はけの悪いピッチはぬかるんだ、というより水に浸った状態に近くなる。自然と重くなる足、ボール。でもなんてことないという顔をして、蹴って走る。セットプレイに上がって、水野のコーナーキックに構える。クリアされたボールを追って、カウンターに備える。 そう、無様だとはわかりながらも負けているこの状況では走らずにはいられない。それだけの気持ちが俺にはある。なのに、痛んだ足は正直で。 「…冗談じゃない、これからだってのに」 もうどういう痛みなのかすら感じられない程、これ以上は走れないと足が言っている。 再び巡ってきたチャンス。水野がボールを持った。…そう、そのままマークが厳しくて難しいが藤代のところに出せば良い。あるいは自分で突破して持ち込むか、どちらにしたってお前なら出来るだろう。 足は限界に達していた。剥がれた芝に引っかかって俺は倒れる。倒れながら、水野がこちらを振り向こうとしているのが見えた。 ――気がつかないでくれ。いや、気がついてもそのまま続けてくれ。 だがその願いは叶わず、水溜りと化したピッチに倒れたままの俺が見たものは、大きく外へ蹴り出されるボール。 「あの馬鹿!」 叫びながら、空しさと憤り、そして思い出したように走る激痛に俺はもがいた。 コーチが駆け寄ってきて応急処置をしてくれるが、痛みはひかない。コーチが腕でバツを出して、俺はそのまま下がる。担架の上でちらりと見たピッチでは水野が何とも言えない表情をしていた。 先に引き上げてたロッカーに、皆が戻ってきた。 「三上先輩、大丈夫ですか?」 控えで応急処置も手伝ってくれた笠井が声をかけてきた。そして、その横には水野。その顔が心配そうな表情をしているのを見て、俺は感情を抑えきれなくなった。 「…なんで止めた」 その声の低さに自分で驚きながらも、止められない怒り。 「え?」 水野がそう訊き返すのに、 「なんで止めた!水野!」 思わず手が伸びて、水野の胸倉を掴んでもう一度繰り返す。それに、 「――なんで怒るんだよっ」 と言い、バッとその手を振りほどいて憤る水野。怒っているのだろう、先輩もいるのに敬語がとれている。そして、言う。 「練習試合なんだから無理しないで大事をとった方が」 その言葉に俺は言い返す。 「甘いんだよ、お前は。そんな考えじゃ困るんだよ!」 シーンと静まり返るロッカールーム。 「練習試合だから良い?手を抜いても良い?」 俺は水野に顔を近づけるとそう訊ねるように言った。 「そういうことじゃない!練習試合で大怪我して穴空けられたって困るだろっ」 水野がそう反論するのに、ハンっと嘲笑って、 「それが甘いって言ってるんだよ。練習試合では良くて試合では駄目なんて意識じゃ、この先通用するわけねぇよ」 そう俺が言えば、水野は、 「判ってるよ、それ位!」 と、ムキになって返す。俺はそれに呆れて言う。 「判ってねぇよ。せっかくのチャンスを潰しやがって」 その言葉に水野は一瞬詰まる。 「違う、俺はそんなつもりじゃ…!」 …そう、そんなつもりじゃないんだろうって事くらいは俺にだって判ってる、だけど。言わずにはいられない。期待してるから怒るんだ、俺は。そして、それを判って貰いたくて自分にも苛立ってるんだろう。 「…怪我したのは俺の運がなかっただけだ。それに俺はそんなにやわじゃねぇ、甘く見んな!」 それだけ言って、俺はくるりと背を向けた。そして、誰とも口をきかずさっさと着替える。 「三上、病院へ行くぞ」 コーチが呼びに来たのに返事をしてロッカーを後にする。 ――振り向きはしない。 その場に立ち尽くしたままの、水野を。 ・・・・・ 「怖えーな、三上。俺あいつ怒らせるのやめとこ」 「しかも正論で怒るしな。口たつんだよなぁ」 「藤代や間宮なんかはお構いなしだろうけど」 「酷いっスよ先輩たち」 ガヤガヤとした話し声が戻るロッカールーム。はっと気がつけば皆着替え終えてもう引き上げていくところだった。俺は慌てて着替えをする。ロッカーの上に脱ぎ捨てたユニフォームが床に落ちた。――背番号10、それを拾って。 …なんだって、三上はあんなに怒るんだ。だが三上の怒った表情の中に、ほんの少し寂しさに似たものがあったことを思い出して。…なんだって言うんだ、本当に。 投げ出したい衝動を堪えて、俺は砂を払ってユニフォームをたたみ直す。最後にロッカールームを出た。と、そこへ。 「水野、ちょっと良いか?」 待っていてくれたのだろう、渋沢が声をかけてくる。俺は頷いた。廊下を歩いて、ロビーのベンチに座る。「飲むか?」と勧められたスポーツドリンクを一口飲むと、知らず溜息が零れる。 「…水野。お前は間違っちゃいないよ」 渋沢はそう言った。だが、 「だったら!」 と言いかける俺を制すると言う。 「でも三上が言ったことも正しい」 そう言われて俺は何も言えなくなる。判っている、それくらい。でも、あの時何かを思うよりも早く、足が明後日の方へと蹴り出していたんだ。けれど、それを言うことは出来なくて。 「三上はお前の為にああやって怒ったんだよ」 渋沢は更に言う。 「振り切ったつもりでも、身体が勝手に動いていたんだろう。だから普段から意識していろと三上は言ったんだよ。それと、皆の前でお前があいつにああやって怒られれば、誰もお前には文句は言えなくなる」 本当にそのつもりだったかどうかは知らないが、結果的にはそうなるだろう。俺はそう思うよと、渋沢はそう言った。それに比べて俺ときたらどうだろう。怒られたことに憤って、そこまで考えが至らなかった。俺は俯いた。 「すまない渋沢、俺は…」 俯いたまま俺がそう言うのに渋沢は言った。 「謝るのは三上にじゃないか?」 それもその通りだった。俺は顔を上げて言う。 「…ありがとう」 「それもな」 その広い護る手をポンと軽く俺の頭に一瞬乗せて、渋沢は微笑んだ。 「先に行ってます」 俺はそう言うと、渋沢に一礼して出口へ向かった。 「ったく、甘いのは三上先輩の方だっての」 藤代の声がした。振り向けば、 「藤代、笠井」 二人が並んで立っていた。恐らく話も聞いていたのだろう。 「ついでに先輩も甘いッスよ。せっかく俺達がフォローしてやろうと思ったのに」 藤代はそう渋沢に抗議する。 「それはすまんな」 渋沢は苦笑交じりにそう答えた。 「まぁ、でもあの二人の喧嘩のおかげで、チームの皆が大切なものを思い出せたような気がしますよ」 笠井がそう言った。水野のチームメイトを思いやる気持ちと、三上の試合にかける思い、その二つは確かに大事なもので。二人にそのつもりはなかったのだろうが、ハッとさせられたのだ、誰もが。 「選手権には間に合うと良いッスね」 藤代がそう言った。それに渋沢は力強く答える。 「大丈夫さ、あいつなら」 ・・・・・ タッタッタッタッと、一定のリズムを刻む足音。川の堤防まで来た時には軽く息が切れていた。 「ようやっと追いついた」 不意に後ろから声を掛けられて驚く。その声は、振り向くまでもない。 「水野」 水野は俺に並ぶとニッと笑って言った。 「あんま、飛ばすなよ。少しは自重したらどうなんだ」 「…俺はお前と違って自重してる余裕はないんでね」 俺がそう言うと、水野はこちらを見ずに言った。 「体壊されたら一緒に出来ねぇじゃん。困るんだよ」 その言葉に俺は水野の顔を見た。その横顔が心底困っていて。 「悪かったよ」 その俺の返答に、水野はぼそぼそと言った。 「…俺が先に謝ろうと思ってたのに」 「今日は雨かな」 俺はわざとそうからかってみる。が、水野は真面目くさった声音で 「三上」 と俺を呼ぶから俺はからかうのを止めて、横を見た。 「何だよ」 「…あの日の事。すまない、ありがとう」 水野はそう言うとまた俯いた。俺はそれに苦笑しながらも、 「ああ、俺もな。早く治す」 そう言った。 「待ってる」 水野はそう言うと黙った。重なる足音だけが響いて、水野が俺のペースに合わせて ることに気がついた。それに何だか照れくさいような、可笑しいような気分になって俺がクッと笑い始めると水野も笑って、二人して笑いながら走った。 久しぶりのランニングにあがる息。その苦しさを超えた時のランナーズハイ。 それは試合中を思い出させて、俺は一日も早くピッチに戻りたいと願った。 …その日には。 どこまでも走ってやるさ、俺は。お前を追って。勝利を追って。 |
2006.06.14UP BGM:Mr.Children「ランニングハイ」 |
※あとがき※ 「RainyBlue」をシリーズに合わせて書き直したつもりが違うテーマになってました。 似たシチュエーションの別の話ということでお願いします。 |