試合終了の笛が鳴った。それの意味するところがはっきりとは判らず、一瞬固まるスタジアム。ピッチ上の俺達も誰一人動けない。誰かが意を決してベンチの方を振り向いて問いかける。 「――神戸は」 その答えは飛び跳ねるチームメイトの姿が伝えてくれた。それを見て、すぐ近くの選手に飛びつく俺達。知らず流れる涙。 アウェイにもかかわらず半分以上黄色く染まったスタンドが、歓喜に沸く平塚競技場。黄色い紙テープが陸上トラックに投げ入れられて、始まるサポのコール。それを見ながら心の中で俺は呟く。 「やったよ。英士、結人」 …もう一人、明希人さん。 渡されたゲーフラを掲げて飛び跳ねてサポと一緒に歌いながら、俺は彼らの顔を思い浮かべていた。 ――2006年12月2日 昇格決定。 俺は戻ってきた。再びJ1の舞台で戦う為に。 リスタート 世間はクリスマス一色。家路や恋人との待ち合わせに急ぐ人はやはり多いのだろう、もの見事に渋滞にはまってしまったのに俺は一つ溜息を吐いて、カーラジオのクリスマスソングを聞き流しながら、先週明希人さんから貰った電話の内容を思い出していた。 「突然何だけど、お前クリスマス暇?」 数ヶ月ぶりの電話で、明希人さんはそう切り出した。それに俺は、 「今のところ特に予定はないですけど」 と、答える。昇格争い優先で天皇杯は後回しにした格好のおかげで俺のクリスマスは暇になり、ちょうど個人的に天皇杯を観に行こうかと――結人と英士が対戦して、結果結人のところが勝ちあがったから――思っていたところだった。そんな俺の返事を聞いて、 「俺、実家に帰ってるんだけど、良かったら遊びに来ない?両親が海外旅行に行っちゃったから、妹とささやかなクリスマスパーティーをやるつもりなんだけど」 そう誘ってくれた明希人さん。俺は喜んで、返事をした。 「どうもありがとうございます。行かせて貰います」 柏を出てヴェルディに移籍した明希人さんは、柏のマンションを引き払って今は東京で、実家の近くで新しいマンションを借りて暮らしているが、実家の方にはまだ行った事がなかった。それを告げれば、 「あとで地図、FAXしとくよ。俺のマンションから近いから駐車場はいつものとこで大丈夫だと思う。じゃ、楽しみにしてるよ」 そう言って明希人さんは電話を切った。それから程無くして、再度鳴る電話のベル。ガーッと言う音と共に、地図が吐き出された。 そして、その地図は今俺の手元にあるのだが、車を降りて歩いて印の付けられた場所に着いたのは約束の5分前だった。 「ここか」 もう一度地図を見て、表札を確認する。確かに小島さんのお宅だ。 「こんばんは、ごめんください」 チャイムを鳴らし、はーい、と言う女性の声にそう言った。ドアが開いたと同時に、パンッパンッというクラッカーの音がした。 「メリークリスマス!昇格おめでとう!」 明希人さんと明希人さんの面影のある女性――これが妹さんなんだろう――が笑顔で迎えてくれる。 「あ、ありがとうございます。メリークリスマス」 俺はちょっと驚きながらも笑って、ペコッと頭を下げてそう返した。が、次の瞬間俺はもっと驚かされることになる。 「…しまった、一足遅かったか」 聞き覚えのあるその声にギョッとして俺は振り返った。 「え?藤代?!なんでここに?」 「よ、久しぶり!」 笑顔でそう言ってポンッと俺の肩を叩く藤代。え?どうなってんの?と俺が考えている間に、事態はもっと判らなくなった。 「遅いよ、藤代」 そう言った明希人さんの妹の、怒ったような口調。でも、それは二人の親しさを感じさせるもので。 「だって、シャンパン切れてるだもん、そこのコンビニ。酒屋まで走っちゃったよ」 「もう。オフシーズンだからって鈍ってるんじゃない?その足」 「酷いなぁ、有希。オフぐらい休ませてよ。とりあえず、これ、氷水で良いよな?」 有希さんとそう言葉を交わしながら、藤代はさっさと靴を脱いで上がりこみ、先に奥へと消えていった。俺は全く予想も出来ない事態に面食らったままだ。いや、明希人さんとなら同じJリーガー同士、その人懐っこい性格で顔の広い藤代だから、誰かを介して――レンタル移籍した藤代と入れ違いで明希人さんはヴェルディへ移籍したから――親しくなっていることはまだ何とか考えられても、まさか妹さんと、とは思ってもみないことで。 俺が固まっているままのことに気がついた明希人さんの妹は、俺ににっこりと微笑んで言った。 「はじめまして、小島有希です。柏では兄がお世話になってました」 「…あ、ああ、はじめまして、真田一馬です。こちらこそお世話になってました」 俺はそうなんとか挨拶をする。 「まぁ挨拶は後で良いから、一馬も上がって」 明希人さんは苦笑しながら、そう俺を促した。 通された部屋のテーブルにはオードブル、ローストチキンといったご馳走が並べられていた。 「早く食べましょーよ」 藤代がそう言うのを 「待って、今ケーキ出すから」 と制した有希さんが冷蔵庫からケーキを出す。てきぱきと動いてグラスを用意し、氷水からシャンパンの瓶を取り出した。それを受け取った藤代が、 「じゃ、始めましょうか」 と言ったので、席に着いた俺と明希人さんは頷いて、栓を抜く藤代を見守る。ポンッと良い音がして、グラスに注がれるシャンパン。 「乾杯!」 4つの声が重なった。 「お久しぶりです、明希人さん。藤代も久しぶり」 俺はそう改めて挨拶した。隣の座った明希人さんは俺の頭を軽く小突くと、 「本当にヒヤヒヤさせやがって。こっちはとっくに残留が決まってたから、柏に上がって貰いたくてさ。もう気になって仕方なかったよ」 と言ったので、俺は苦笑するしかない。山形戦や札幌戦の敗戦でサポにも随分心配をかけた自覚はあった。 「そうそう。でも、あんなドラマ羨ましいくらいッスよね」 明希人さんの言葉に藤代がそう言った。 「来年は頑張ってね」 にっこりと有希さんが明希人さんに向かって笑って言った。頷く明希人さん。 「頑張るさ」 それに藤代が口を尖らせる。 「ズルイな、明希人さんにだけ。ね、たまにはスタジアムに観に来てよ」 「私だって忙しいのに。そっくり返すわ、その言葉」 明希人さんがそれを見て笑って言った。 「有希の方が一枚上手だな」 「…調子はどう?この1年でJ1はすっかり浦島状態だよ」 俺は自分から藤代にそう話しかけてみた。 「俺は元気だよ。ただ成績は決して良かったわけじゃないけどな」 チキンを頬張りながらそうにこやかに返される。 「何か、海外がどうとか言われてなかったか?」 「いや、まだまだ。渋沢さんに勝ててないもん」 藤代が頭を掻きながらそう言うのに、俺も苦笑して言った。 「渋沢はなぁ。俺も自信ないよ」 それを聞いていた明希人さんが、 「多分俺もないや」 と言ったので、皆で笑った。 「じゃあ、私も今日は帰らないからね!」 ほろ酔いなのだろうか、有希さんがそう明希人さんに宣言した。 「ハイハイ。羽目外しすぎんなよ、お二人とも」 明希人さんが半ば呆れた声で返事をして、言い聞かせるようにそう言えば藤代は 「まさか!明希人さん怒らすようなヘマはしませんよ」 と、心外だとばかりの表情をして言った。それに、ぼそっと 「…って、この前パス外した癖に。見たぞ」 などと明希人さんが言うもんだから、あちゃー、と言いながら 「勘弁してくださいよ。代わりに難しいところ一人で持ち込んで決めたじゃないッスか。じゃ、また年明けに」 と、藤代はそそくさと帰ろうとする。 「ん、じゃあまたな。よい年を」 明希人さんは笑いながらそう返した。それに、はい、と返事をすると藤代は俺を見て言う。 「今度またゆっくり会おうよ、真田。皆も会いたがってたよ」 皆とはJ1に在籍する同じ世代の連中のことだろう。俺も早くまた皆と戦いたいと思っていたところだった。 「ああ、そうだな。またな」 藤代の言葉にそう頷いて、大きく手を振った。その横でぺこりと頭を下げた有希さん。二人は仲良く話しながら駅の方へと消えていった。 「妹さん、藤代と…」 居間のこたつに場所を移してTVを見ながらワインを飲み始めた明希人さんの隣に座って、そう訊いてみる。明希人さんは一つ頷いてこう教えてくれた。 「あいつ、中学の時桜上水でサッカー部のマネやってたんだけど、どうも武蔵森とは色々因縁があってそれで知り合ったらしいんだ。まぁ付き合いだしたのは最近みたいだけどな。アメリカ留学してる間に文通しててそれで意気投合したって聞いたよ」 「へぇ、そうなんですか。留学って、まさかサッカーで、ですか?」 「サッカーで生きてくって決めたから、…って言って半ば飛び出すようにアメリカ行っちゃって。女子だとなでしこリーグはあるとは言え、プロリーグじゃないし、部活すらあるとこ限られてるような状態じゃ、サッカー続けてくのは大変だからな。まぁ、その情熱と覚悟は我が妹ながら見上げたもんだよ」 桜上水中ということは、水野やあの風祭と一緒だったということだろう。出会いは最悪だったけど、風祭のあのひた向きなプレイ、サッカーへの情熱は俺にさえも衝撃だった。そして、あの事故の時のことを俺達は忘れたことがない。あの想いに感化されれば誰だってひた向きにはなるけど、何より兄妹揃って強い意志の持ち主なのだろう。だって、あの時の明希人さんの声を今でも俺は忘れられない。 「明希人さん」 俺がそう呼べば、明希人さんは 「どうした?」 と、不思議そうに俺の顔を見た。それに俺は迷いながらも続けた。 「もう、柏には戻ってきてくれないんですか?」 俺がそう言うと明希人さんは頭を掻いて苦笑しながら言った。 「…そう言うんじゃないかなと思ったよ、お前は」 「すみません」 俺がそう詫びれば、明希人さんは手をヒラヒラと振って否定し、 「いや、俺だってお前に一緒に出ていかないかって誘ったからおあいこさ」 と、苦笑しながらそう言った。それに俺は首を振った。 「そんなことないです。明希人さんがそう言ってくれたから、俺は自分の本当の気持ちに気がつくことが出来たんです」 そう言って明希人さんを真っ直ぐと見つめる。 「そうか。本当に良かったな、昇格出来て」 明希人さんはそう言って微笑んでくれた。 「はい」 俺が真っ直ぐに見つめたままそう返事をすると、明希人さんはふっと軽く溜息を吐いた。 「でも、もう戻れないさ。せっかく今のチームで昇格出来たんだろ。そこに戻って水を差す気にはなれないよ」 そう言った明希人さんの顔に寂しげなものが混じってるように感じるのは、俺の思い込みなんだろうか。 「俺は、明希人さんと一緒にやりたいです」 それが俺の本当の気持ちだった。昇格が決まったあの時、俺は振り返って、明希人さんの姿を探してしまっていた。こんなとこにいるはずないのに、そう判っていながら。 しかし、明希人さんは俺の言葉に顔を引き締め、言い聞かせるように言った。 「お前の気持ちはありがたい。だけど、それじゃお前のチームメイトに悪いよ。それと、正直に言わせて貰えば、今の柏はまだ未完成の状態だ。これから、今の若いチームをきっちりとJ1で戦えるようにしなきゃいけないだろ」 俺は尚も食い下がる。 「若いチームだからこそ、明希人さんのような経験豊富な選手が必要です」 「そこまで言ってくれてありがとうな、一馬」 そう微笑む明希人さん。 「…明希人さん」 彼は照れ臭そうにこう続けた。 「でもな、俺は俺の今のチームを何としてもJ1に上げたいと思ってるんだ」 ――俺ももう若くない。どこまで続けられるか判らない。だからこそ、まずは目の前にある壁を越えたいんだと明希人さんは言う。 「この1年を通してお前だってその気持ち判るだろう?」 「はい」 頷いた。それもまた真実。 「別にカテゴリが違おうが、Jリーガーであることに変わりはないんだから、またそのうち一緒にやれるさ。そうだな、来年の天皇杯とか」 「…はい」 頷きながら、明希人さんの言葉に以前英士と結人と3人でしたやりとりを思い出した。そうだ、確かにサッカーを続けてさえいれば、いつかまた一緒にやれるだろう。そして、信じよう、明希人さんが上がってきてくれることを。俺が信じて貰いたかったように、きっと明希人さんも信じて貰いたい筈だから。そう思えば、この寂しさは薄らぐ。 「さ、飲もう、飲もう」 そう明希人さんに勧められるがまま、ワインを飲む。アルコールが身体に染みて、気持ちが良い。 「お前も強くなったよ」 一瞬お酒のことを言われたのかと思ったが、明希人さんの表情でサッカーのことだと判った。 「そうですか?俺はまだまだだなって思い知らされたんですけど」 俺がそう返せば、明希人さんは、いや、と否定する。 「勿論プレイもだけど、気持ちがさ。良い選手になったよ、お前は。…だからさ、お前がこれからを引っ張っていかなきゃ。本当は1年前に言いたかったけど、あの頃はかえってその言葉がお前にとって重荷になるんじゃないかと思って言えなかった。でも、この1年見てて、ようやっと言えたよ」 「明希人さん」 俺は明希人さんの名を呼ぶしか出来なくなる。零れそうになる涙。昇格の時、流れた涙と、それは同質のものだ。 「俺もまだ頑張んなきゃな。…頑張るからさ」 その言葉に頷きながら明希人さんがポンポンと俺の頭を撫でるように叩く。 「はい」 俺はそう返事をするのがやっとだった。 「もう、二人ともこたつで寝て、風邪引くよ。それともうお昼過ぎだからね」 有希さんの声がどこか遠くに聞こえる。 「…あ?有希帰ってたのか。起きろ、一馬」 「うーん?」 明希人さんに揺すられて気がつく。いつの間にか眠ってしまって、日はすっかり高いところにあるようだ。レース越しの陽射しが寝起きに眩しい。 「携帯さっきから鳴りっぱなしだけど。これ、真田君の?」 有希さんにそう問われて、ガバッと寝ていたこたつから飛び起きた。…そういえば、今日英士が帰ってくるって言ってたっけ。 「すみません!」 そう詫びて机の上で唸っている携帯に飛びつく。パカッと開いて確認すると、そこに表示されてるのはやはり英士の名と番号だった。慌てて通話ボタンを押す。 「一馬?ひょっとして寝てたんならごめん。今、東京向かう新幹線の中。迎えに来てくれると助かるんだけど」 そう言って、英士は乗っている列車の到着時間を告げる。ここから車で向かうには混雑など考えるとあまり時間はない。間際に連絡してくるようなのは英士じゃないから何度もかけてきていたのだろう。 「こっちこそごめん、出られなくて。判った。じゃ、駅に迎えに行くから。いつもの出口で」 そう言って電話を切ると洗面所を借りて顔を洗い、濡らした手で跳ねてた髪を撫で付ける。 「あれ?真田君帰るの?お昼、食べてけば良いのに」 エプロン姿の有希さんが台所から顔を覗かせた。手に持ったお皿にはフレンチトーストが載せられている。ちょっと食べたかったが、時計を見れば余裕はない。 「ごめんなさい、また機会があったら」 俺はそう答えながら、上着を羽織る。 「うーん、じゃあこれは藤代に持って行こうかな」 有希さんが手のお皿を見ながらそう呟けば、しっかり聞いていた明希人さんが 「心配しなくても俺がちゃんと食ってやるって」 と言って、回収してしまっていた。仲の良い兄妹にちょっと羨ましくなるくらいだ。 「あ、そうだ。良かったら飲み物だけでも。頭すっきりするから、どうぞ」 そう言った有希さんに渡されたのはパックのりんごジュースだった。礼を言いながら、好物に思わずにっこりしてしまう。 「じゃあ、またな」 そう言う明希人さんの声は久しぶりに明るく響いて聞こえた。 「はい、また。ありがとうございました!」 俺も笑顔でそう答えた。そして、靴に足を突っ込んで片方の踵は踏み潰したまま、明希人さんの実家を飛び出す。 「時間無いからって焦るなよー、運転気をつけろ」 明希人さんが俺の背にそう呼びかける。それに、 「はーい!」 と、返事をして振り返りながらも俺は走って、車へと飛び乗った。 信号待ちでりんごジュースを飲んで、言われたとおり頭はすっきりした。ついていたのか、思っていたより時間はかからず東京駅に着け、ロータリーに入ったところで歩いてくる英士の姿を捉えられた。目の前につけて、ウィンドウを下げた。それを見て英士が微笑み、助手席のドアをあけた。 「ただいま。ありがとう、迎えに来てくれて」 「おかえり」 乗り込んでシートベルトをした英士にそう言えば、 「一馬、食事食べてないでしょ。どこか行かない?俺出すからさ」 英士にそう返されてしまう。アクセルを踏みながら俺は言った。 「…やっぱ判った?」 「そりゃ、付き合い長いからね」 英士にそう言われて笑う。…確かに俺達は長い。子供の頃から俺達はずっと一緒だった。たとえチームはバラバラになっても、カテゴリが違っていても、会わなくても心はそばにあったんだろう。そう、信じていたんだ。 「天皇杯、楽しみだな」 信号待ちで俺がそう言えば、 「羨ましいね、結人が」 と、返事をする英士。対戦した英士にとっては、尚のことだろう。遠い目をして英士はそう言った。それに頷きながら 「ああ。でも、来年は俺達が勝ちあがれば良いんじゃないか?」 そう俺が言えば、英士が一瞬キョトンとして、次の瞬間には 「そうだね」 そう言って微笑んだ。そして、英士は言う。 「おかえり、一馬。結人も、待ってたって」 …そう、俺は戻ってきた。英士、結人と子供の頃から見ていた夢を叶える為に。そう思っていたから長いJ2も戦い抜けた。 その思いを込めて、俺は言った。 「ありがとう。――ただいま」 2007年3月4日――。 J1開幕戦をホーム日立台で迎える。 …俺達の夢の続きが、始まった。 |
(FIN) 2007.02.02 UP |
※あくまでもフィクションです。 |