サックスブルーの10番。
 その背中を追って、俺はここまで来たんだ。





 Number





 …それは酷く懐かしい夢だった。見覚えのある公園でボールを蹴っていた。兄貴と二人。兄貴も俺もまだ幼くて、まだどこかたどたどしい。
「圭介」
 ふと、ボールを蹴るのをやめて兄貴が呼んできた。そして、こう訊いてきた。
「圭介はサッカー好きか?」
 それは何だか今更な質問過ぎて、一瞬キョトンとしてしまうけど。俺は微笑んで、
「うん、大好きだよ」
と答えた。そして、今度はこちらから訊いてみる。
「お兄ちゃんはサッカー好き?」
 すると兄貴は
「僕も大好きだよ」
そう言って、俺にポンとボールを蹴って寄越してきた。嬉しくなって俺もまたポンとボールを蹴って返す。 
 それを繰り返しているうちに。いつの間にか日は既に沈みかけていて、烏が鳴きながら夕暮れの空を飛んでいっている。もう帰らなければいけないと、二人とも蹴るのをやめた。そして、兄貴が言う。
「よーし、家まで競争だ」
 それはいつものことなのだけど。
「えー、お兄ちゃんの方が断然速いのに」
 そう抗議したところで、こう返されるのもいつものことなのだ。
「トレーニング」
 …やっぱりね。
 でも、急いで帰らなきゃいけない時間なのに間違いはないから走り出す。
「くそぅ、絶対いつか勝ってやるー」
と、言いながらも幼い身体での3つの年の差は大きくて。ぐんぐんと距離が開いていってしまう。遠い兄貴の背中。追いつけなくて、いつも少し悲しくなる。

 ……ねぇ、待って。待ってよ、お兄ちゃん。

 それは声にはならなかったけれど、兄貴にはちゃんと判ったみたいで、ややペースを落としてこちらを振り返り微笑んでくれた。俺はそれが嬉しくて、兄貴に近づこうと全力で走る。

 ふと、場面が変わった。こちらも見慣れたユースの練習場。兄貴がユースで最後の挨拶をしていた。スタッフやチームメイトに挨拶し終え最後に僕の所に来て、兄貴はこう言った。
「ごめんな、圭介。この先はお前の不戦勝だよ」
 それだけ言うと、兄貴は先に帰ってしまった。まだ身体が本調子でなく力無げに歩く後ろ姿が、それでもやたらと大きく感じて。そして何よりも、遠いものに感じて、俺は心の中で叫んでしまう。

 ……待てよ、兄貴。待てったら。

 兄貴は俺の永遠のライバルの筈だろ?こんな形でこの競争、終わりたくないよ。もっと一緒に蹴ってたいよ。兄貴だってそう思ってる筈だろ?
 幼い頃、置いて行かれた兄貴に再び置いて行かれる。
 今度はもうどれだけ心で呼びかけても、声を出したところで…きっと、振り返っては貰えない。

 いつかの兄の言葉が聞こえる。
『これが僕の選んだ道だから』
 …判ってる、兄貴が悩んで選び取った道だって判ってるけど。
『圭介は伸びるよ、僕なんか遙かに越えて』

 違う、勝ちたかっただけじゃない。
 俺はずっと一緒に戦っていきたかったんだ。
 そんな、失ってから気付いた、良きライバルの存在の重み。

 ……待てよ、兄貴。待てったら。

 届かない背中。
 サックスブルーの10番。
 もう見ることの出来ない。

 ――ねぇ、待って。待ってよ、お兄ちゃん。

 気付けば、夢の中の俺は幼い頃に戻ってしまっていた。
 そして、泣いていた。


 ・・・・・


 はっと気が付くと、閉め忘れたカーテンからは明るい日差し。良く晴れた朝だった。
 それにしても変な夢を見たものだと思いながら、俺は部屋を出て階段を下りて居間へ向かう。
「おはよう。結局起きなかったわね。夕飯とっておいたんだけど」
 そう母親に言われ
「おはよう、うん、疲れてたみたいだ」
と返す。そして、ふと訊いてみた。
「兄貴は?」
 すると母親は不思議な顔をし、
「塾。知ってると思ったけど」
と言った。
「うん、いや、ど忘れ」
 知っていたが何だか訊きたくなってしまったのだ。
「そう、寝過ぎかしらね。瞼腫れてるみたいだし」
 …兄貴を思って泣きそうになってたなんて、恥ずかしくて死んだって言えやしないけど。俺はそう思いながら、テーブルに付いた、その時母親は唐突に訊いてきた。
「それにしても時間大丈夫?」
「え?」
「須釜くんち」
と言われて、ようやく思い出した。
「ああーっ!!」
 思わず叫んでしまったが、今日は前から須釜の家に行くと約束をしていた日だったのだ。
「電話あったわよ。お兄ちゃんが出たけど」
 母親は慌てる俺を見て笑いながらそう言った。俺は訊いた。
「……兄貴は何て?」
「新幹線で行かせますので。お待たせしますがよろしく。いえいえ、こちらこそ」
 母親はご丁寧に口真似までして会話を再現してくれた。そして俺にある小さな紙袋―ポチ袋だ―を差し出した。
「ハイ、これ。今月はあまり電話使わなかったし、お兄ちゃん明言しちゃったし」
 中に入っていたのは諭吉さんだった。俺は嬉しくなり
「やった、母さん大好き♪兄貴感謝!…じゃ、俺支度してくる」
と言うと、「ちょっと、ごはんはー?!」と、叫ぶ母親をおいて、自室に戻り支度を始めた。そして、急いでまとめた荷物を担いで下へ降りて、そのまま玄関へ向かおうとするところへ、母親は来て、
「ごはんは食べてきなさい!」
と一喝すると俺を台所へと引きずってく。
「わ、わかった。食べてくよ」
 そう答えると、俺は席について、時計の針を睨みながら食事をする。そして、急いで食べ終えて箸を置くと立ち上がって「行ってきます!」と駆け出し、靴の踵をつぶしたまま自転車に飛び乗る。
「待ってろ、俺のこだま」
 そう言って蹴りだした自転車は、風をも切って一気に坂を下ってく。

 ギリギリ間に合って、飛び乗ったこだま。ほっと一息つくと、空いてる窓側の席に座る。揺れる列車。リクライニングを倒してもたれ掛かると、俺は窓を眺めた。そして、物思いにふける。
 …そう、昔の夢を見た理由の心当たりはあった。あのトレセンでの事故だ。東京選抜の小柄なFWが倒れたとき、俺はあの時のことを思い出さずにはいられなかった。そう、兄がフィールドで倒れ、それからもうプレーヤーとしては帰ってこなかった日のことを…。

 ・・・・・

「山口!!」
 自分の事を呼ばれたわけではないが、振り返られずには居られなかった。…それは、兄貴の事を呼ばれたことだから。そして、その声はただ事ではない様子で。
 振り向いて見ればフィールドに倒れているのは、見間違うはずの無い、誰よりも知っている姿。
「兄貴!!」
「おい、山口!しっかりしろ!!」
 コーチが必死で呼びかけている。
 自分も練習中であることを忘れて、思わず駆け寄っていた。
「兄貴!」
 呼びかけると兄貴は俺の姿をみとめ、
「圭介…お前は練習しろ」
 ぐったりとした姿でそんなことを言った。
「馬鹿、んなことできねぇよ」
 俺は怒ってそう返す。
「すぐに病院へ」
 コーチがスタッフに指示を出し始める。
「俺も行く。…行かせてください」
 前半は兄貴へ、後半はコーチに向かって言った。ところが兄貴は
「駄目だ、言うことを聞け、練習しろ」
そう言って許してくれない。
「こんな時に兄貴面すんなっ」
 俺は怒りながら泣きそうな気持ちになっていた。
 すると兄貴はふと優しい顔になって、
「お前に、後を、任せたい、から…練習しとけ」
と言った。
「何?何だよ、それ」
 いつかは越えたいと思っていた兄貴が。――後を任せたい?
 それは兄貴が競争から降りることを多分意味してて。
 そんなのは認めたくなくて頭が混乱する。
「空が、青いな…芝の、緑が、眩しい……僕は」
 そこで兄貴の意識は途切れたようだ。
「兄貴?!」
 叫んでも届かない。
 …結局、兄貴は救急車で運ばれ、病院へはコーチが付き添った。俺はその場に立ちつくしてしまっていたらしい。
「圭介…」
 いつの間にか側に来ていた幼馴染みの千裕がポンと、俺の肩に手を置いた。それをきっかけに俺は泣き出してしまって。心配したコーチがついててくれて、大丈夫だからと言われてようやっと泣き止んで、練習に戻っても。兄貴の残した言いつけは、まともにこなせなかった。

 …実は兄貴はずっと判っていたのだ。己の身体の限界を。治らないその身を。でも諦めきれずに迷っていた、辞めるタイミングを。それはそうだ。ユースで10番を付ける存在にまでなっていた。簡単に諦めなんかつかない。その一方、兄貴は優秀な学業成績も誇っていた。通っていた地元有名進学塾の模試なんかは常にトップだった。サッカーを辞めても、道は幾らでもある。むしろ辞めて学業に専念した方がその未来は広がる。医者にだって弁護士にだって学者だって何にだってなれる。そんな状況は、却って迷い悩む一方だったと言う。
 そのことを俺が知らされたのは、練習が終わった後、病院に駆けつけたときだったが。そして、その時には兄貴はユースをやめると既に結論を出してしまっていた。
「良いきっかけだと思う。僕はユースをやめるよ」
 そう言う兄貴の目はきっちりと前を向いていて。…当然ながら俺にそれを止めることなど、出来るはずもなかった。

 ・・・・・

「チビくん、心配ですね」
 あの時、東京選抜のFWが運び出されるのを見ながら、彼と知り合いでもあるスガは痛ましそうな表情でそう言った。
「…大丈夫。大丈夫だと祈ろう」
 俺はそう返す。
「ええ」
 スガははっとして、それからそう頷いた。そして、二人祈りを天に捧げるかのように、空を仰ぐ。そこには雲ひとつ無く、眩しいほど澄んだ青い空が広がっていた。…兄貴が見た、あの空のように。

 と、そこまで思い出して、ふっと我に返る。気がつけばこだまはもう小田原を出たところだった。新横浜まではあと1駅だ。携帯を取り出して、スガへメールを打つ。が、そういえば新横浜の前は電波が入りにくい。しまったなぁと思いながらも、多分スガは駅で待ってくれているだろうと思う。そして予想通り。新横浜の駅に着くとスガが改札の向こうで待っていた。
「ケースケくん」
「よっ。出迎えサンキュー」
と、俺は片手を上げて答え、改札をくぐる。今日はこれから横国である試合を観に行く約束をしていたのだ。同じような人と観光客でごった返す駅の人混みをかき分けるようにして、二人で歩く。
「お兄さん、相変わらずですね」
 電話で話したからだろう、スガはそう言った。
「うん、まぁな」
 俺はそう返した。
「…元気そうですね」
 スガはそう言った。
「ああ。元気…てゆか、策士っぷりは健在だろ?」
 新幹線使ってでも行かせようとする辺りが強引だよな。そのおかげでお小遣いまで貰えちゃったし、と俺は言った。スガが笑う。
「当然学業の方でも?」
「そりゃもう。元が良い上に、最近はかなり勉強してるしな」
 そっちは比べられるから困るんだけど、とぼやいた。すると、窺うように静かに
「…お身体は」
と訊いてきた。心配してくれているのだろう。
「大丈夫。ただ今度は勉強のしすぎが心配なくらいだけど」
 俺はそう笑って返した。
 ふと、須釜は黙って。しばらく考えた後、訊いてきた。
「激ウマ司令塔のケースケくんが10番を付けない理由はお兄さんですか?」
 そう言われて、俺はちょっと驚く。
「あ、ごめんなさい。僕には兄弟がいないんでつい…」
 そう答えながら見せた翳りが兄貴のモノとよく似ていて俺はハッとする。それを打ち払おうと俺は笑って答えた。
「気にしてないよ。うん、多分な。俺もよく考えたことなかったけど、そうかも」
 ただ何となく10番を付ける気にはならなかったのだ、一度も。誰もが憧れるというその番号を。俺はきっと兄貴の背中にあるものだとしか見ていなかったのだ。その背中を追って、俺はここまで来た。だから、兄貴をそれを脱いだからと言って、他人はともかく自分が付けるものだとは思えなかったのだ。


 ・・・・・


 空いた心の透き間はなかなか埋まらない。それは兄貴にとってもそうで、俺にとってもそうだったみたいだ。退院した兄貴はよく笑うようになった。が、それは表面だけで心を閉ざしてるのは判った。
 一方俺は俺で、ライバルがいない虚無感に襲われていたらしい。つまらないミス、ボールコントロールに僅かな狂いが出てた。そんな時に俺の前に現れたのが、須釜寿樹。…スガだった。
 小机で行われたマリノスユースとの練習試合。俺は初めて司令塔の位置で試合に出た。が、戸惑いや焦りが出て、受けようとしたパスはインターセプトされる。それが繰り返され、俺は悔しさを感じ、今度は自分でもパスカットに行く。そして奪ったそのボールをすかさず出す。その一瞬相手の―インターセプトした―選手と目が合った。その口元には不敵な笑み。それに思わず俺もニッと笑う。再び俺に回ってきたボール。今度はダイレクトでシュートを放つ。そのボールはまっすぐゴールネットに突き刺さった。ワーッと歓声があがり、チームメイトが駆け寄ってくる。
 …そうだ、これだ。これを俺は忘れていた。これがサッカーだ。俺は思い出す。そして兄が俺に任せると言ったことも。俺はもっとサッカーを楽しんで、頑張って、兄から託されたポジションを守らなければいけないのだ。
「もっと、決めてこうぜ!」
 俺はそうチームメイトに言うと、駆け出した。千裕がポンとその背中を叩く。
 そんな俺に影響されてか、チームの士気は上がり、得点がまた入る。後半は修正してきたマリノスユースに攻められるも、何とか守りきって、試合は終了した。
 終了の笛のあと礼をして、とりあえず水を飲もうとピッチの外へ向かって俺は歩いていく。と、そこへ、手が差し出された。不敵な笑みを浮かべたあの選手だ。俺は差し出された手を握った。すると、相手は
「山口くんですよね?すっかりやられましたよ」
 そう言ってきたので、俺は驚きながらも、返す。
「こっちの方がきつかったですよ。ええーと…ごめんなさい」
 …相手の名前まで覚えてなかった。俺は謝った。相手は「良いんですよ」と言い、
「須釜寿樹。スガで良いですよ。皆そう呼ぶんで」
 そう名乗った。ニコニコと微笑みながら。
「ああ、じゃ俺もケースケで良いですよ」
 俺も笑いながらそう言った。するとスガは苦笑して
「てか、同い年なんで敬語じゃなくて良いですよ」
と言う。
「あ、え?同い年なの?」
 とてもそうは見えず、思わず俺は笑ってしまった。
「失礼だなぁ…」
「ああ、ごめんごめん」
 俺はやっぱり笑いを堪えられずにいた。スガも仕方なさそうに笑っていたが、すっと真顔に戻るとこう宣言する。
「今日は負けましたけど、大会では負けませんからね」
 その口元に浮かんでいるのはあの不敵な笑みで。
「ああ、こっちこそ」
 俺もそう言ってニッと口元を上げる。

 …それが、俺達のはじまりだった。


 ・・・・・

 横国の手前の橋を渡る。もうスタジアムの中の喧騒が伝わってくる。
 左に行けばあの小机のグラウンドにたどり着けるだろう。
 ふっとそんなことを考えて立ち止まる。スガがこちらを振り返った。
 そして、また歩き出す。
「スガ」
 その背中を追いかけて、横に並び歩く。

 俺は再びライバルを見つけた。
 それは誰よりもかけがえのない大切な人。
 同じ未来を目指す為に戦っていく為に。

 ――今度はきっと失うことはない。



(FIN)
06.02.11 UP