俺が武蔵森のコーチになってしばらくして、水野はシーズン途中からではあったが海外への移籍が決まった。 「スコットランドか。……さすがに遠いな」 その話を聞かされた俺は驚きながらも、どこかでこんな日が来るだろうと覚悟していたことを思い出す。ああ、と頷き隣で紅茶の入ったカップを手にする水野。すぐ隣、手を伸ばせば触れられる筈の水野が遠く見えるのは俺の視力が落ちたせいじゃない。いつか同じピッチに立った時にも同じ事を感じたが、今度こそ本当に遠い。気がつけば海外へと移籍するほどの選手に水野はなっていたのだ。 「一緒に来る?コーチ修行とでも言ってさ」 水野がそう言うのに、俺は笑って冗談で返すことしか出来ない。 「バカ言え。J1のコーチならともかくさ」 そう答えながら、それが出来たらとほんの束の間の夢は見た。でもそれは所詮夢なのだ。ようやっと講師業とコーチ業の慌ただしい日々に慣れたばかりの俺には届かない夢。そんな俺を見て水野は苦笑する。 「寂しいとは言わないんだな」 そう言う水野の方がよほど寂しげだった。それに俺はあえて笑ってみせて言った。 「だって、海外だぜ?選手だった頃にそんなチャンスがあったら、俺だって飛びついてたさ」 俺にはそんな実力も機会もなかった。だからそのチャンスを手にした水野が眩しくもあり羨ましくもあり、そして誇らしくもあった。だけど、当人はその喜びだけじゃないみたいで。 「俺は寂しい」 そう言うと俺に抱きしめる水野。その腕はあまりに力を込められ過ぎていて少し痛い。 「絶対にどこにも行くなよ」 ……行くなって、行くのは水野の方なのに、と思ったがきっと水野が言いたいのはそう言う事じゃない。俺の気持ちのことだろう。 「判ってる。どれだけ離れてたって今の俺の居場所はお前でしかないさ」 俺がそう言っても、水野は抱きしめるその腕に力を込めるばかりで。 「どこにも行かないから、なぁ水野――」 言いかけた唇を強引に奪われた。それはいつになく激しく苦しささえ覚える。でもその切実な眼差しに俺は拒めず、抗えない。でも水野の気持ちは嫌でもよく判るから。いや、離れることは俺だって不安だ。でも俺は決して「行くな」などと言えない。水野には世界を見て来て欲しいし、それを聞くことはきっと俺の糧になる。でも寂しさはどうやったって否めない。元よりいつも、四六時中居られるような関係ではない。だけど、今度は本当に居て欲しい時にでさえ、すぐには会えなくなるのだ。 本当は、互いに不安で仕方無いのだろう。気づけばいつか重なっていた肌。強く激しく俺を求め、与えられる熱に酔いながら深く繋がる。そう、このまま繋がっていっそ溶けてしまえば良いのにと俺は思った。そんな何もかもがさらけ出されてしまうような感覚の中で、不意に露わになる本音。それはどうしようもない寂しさ、そして本当に一緒に行けたら良かったのにという思い。もし一緒に行けたなら俺はどうするのだろうかと、叶わぬ夢をぼんやりと見ながらも俺はただ水野の名を呼び、やがてその意識を手放した。 出立の日。成田まで俺は水野を乗せて車を走らせる。車中で水野は無言だった。さして面白くもないことを高い声で喋り続けるラジオを止めてCDに切り替える。随分前に水野から貸して貰ったままのそれ。本人はMP3にコピーしたと言うから借りっぱなしだった。 「そういや返してなかったな」 思い出したように俺がそう言うと、水野はそこでようやく口を聞いた。 「どうせまた会うんだし、いつでも良い」 その沈んだ声は晴れがましい筈の日にはまったくもって相応しくない。 「せっかくの旅立ちなんだから、もうちょっと明るくしてろよ。マスコミも相当来てるんだろうし」 俺がそう言うと水野は頷いた。 「判ってる。けど、今だけは、今だけは良いだろう?」 心細そうなその声。確かに、感傷に浸れるのもあと少しの時間だけで、空港に着けば水野は別の顔をしなければいけないのだ。 「そうだな」 と俺は返事をした。そしてその時、何故か急に昔の話をしたくなったのは俺もやっぱり感傷に浸っていたからなんだろう。 「今だから言うけどさ、俺、最初会った時お前のこと大嫌いだった。いや、選抜に落ちるまでずっと嫌いだった」 そんな俺の突然の昔話に水野は一瞬驚き戸惑ったようだが、やがて微笑んで返した。 「知ってるよ。でも武蔵森入ってからは違った。そうだろ?だから、俺もずっとお前を信頼してた。俺にとっては渋沢よりもお前の方がよっぽど頼れたんだ」 今度は俺が驚かされる番だった。元々誰からも頼られるし、選抜でも繋がりがあるだけにてっきり渋沢の方を頼っていると思っていたのに。けれど、確かに渋沢が水野を心配している様子はあっても、水野の方から渋沢に話しかけているところは意外と見ていない気がする。 「そうか、渋沢よりもか。それはちょっと嬉しいかもな」 俺はそう言うとチラッと一瞬だけ水野を見てニッと笑った。 「本当は多分あの頃からお前のこと好きだったんだ。たとえあの時のお前が別の人間しか見てなくても」 切なげにそう言うその声は懐かしさも込められていて。そうだったのか、と今更俺は思う。ずっと知らず気がつかずにいたその想い。水野が俺に向ける切実さはそこから来ていたのかと思うと、いっそ俺の方がたまらない。 「水野」 俺はその名を呼ぶ。今すぐにでもそちらを向いてしまいたいと思ったが、ちょうど後ろからこちらを追い抜こうとする車があるのに気がつき、それは出来ない。 「でも今は俺を居場所だと言ってくれる。嬉しいのは俺の方。だから俺はお前の言葉を信じるよ」 水野はそう言った。そう、俺も信じてる。信じてるから寂しくとも送り出すんだ。でも、あと少し、もう少しだけこうやって二人で居られたら。ただ、そんな思いもやがて現れた空港を示す標識が現実へと引き戻した。 「じゃあ、またな」 降車場に車を停めて、俺はそう言う。出来るだけ湿っぽく響かないように気を付けたその声。それを聞いた水野が訝しげにこちらを見る。 「見送ってくれないのか?」 シートベルトを外しながら水野が訊いてきた。出来るなら俺もそうしたい。だけど――。 「マスコミやファンが大勢来てんだろ。俺は上で飛び立ってくのを見てるさ。ずっとな」 俺はあえて笑ってそう言う。それを聞いた水野が俺を見つめる。その眼差しに込められたもの、想いが痛いほど伝わって。でも、もう人の目があるから抱き合うことすら出来ない。それでもせめてと思ってか伸ばされ触れたその手。重ねたその掌のぬくもりを互いに伝え合って、そして惜しむように最後はすっと指先だけで触れると水野はドアを開け、降り立った。そして後部座席からスーツケースを取り出す。 「ありがとう、またな」 それに、ああ、と手を挙げて返事をした。しばらく見られないその姿を焼き付けてから、車を駐車場へと向ける。国際線の手続きは時間がかかる。元々余裕を持って空港に到着したのもあって、俺は空港内の喫茶店でたっぷり時間をつぶしてから、屋上の展望デッキへと向かった。途中にあった自販機で買った缶コーヒーを飲みながら俺はただ、定刻まで飛行機を見て過ごす。気がつけばいつか陽は傾いて影が伸びていた。俺は腕時計を見て時間を確かめ、教えて貰っていたゲートの方を見る。やがて定刻通りに動き出した機体が、滑走路に向かってゆっくりと進んでいく。 「いってらっしゃい」 俺はそれを見守りながらそう言った。そして滑走路に進入したその機体は一度止まってから、離陸に向けて猛スピードで走り出す。 連絡はメールでも何でも出来る時代だし、きっと元気な姿はテレビでいくらでも見られる。活躍してるその姿が見られれば良い。そうは思ってみても。 「でも、本当に寂しくないわけないだろ……」 そう呟いた俺の声は飛び立つジェットエンジンの轟音がかき消す。本音を打ち明けて寂しいのだと言ってしまえば、旅立つ水野の気持ちに水を差すのではないかと思って、それが怖くて俺は最後までそう言わなかった。結局、最後の最後まで強がっちまったなと、少しだけ悔やんでみてももう遅く、水野を乗せた飛行機はもう随分と高度を上げていた。 しかし、だ。あれほど色々な思いをして送り出したのに、それがまるで無駄……とまで言わないが、感傷に浸ったのを割と本気で後悔したくらい、オフに帰国した水野はそのまままっすぐ俺の部屋に来るようになっていた。聞けば、横浜で借りていたマンションは渡英した時に引き払っていたらしい。 「だから、いい加減自分のマンション借りるかシティホに行けよ。それくらいの金はあるだろう」 寝る場所がないと、いつの間にか勝手にソファベッドを購入し入れてくれた水野に俺は呆れながらそう言う。おかげで一人暮らしには十分だったとはいえ決して広くはなかったリビングは余計に狭く見える。 「だってそんなに居ないし、勿体ないじゃん」 水野は何を言うんだというばかりの口調でそう答えた。本当それこそホテル生活で良いじゃないかと思う訳だが、そんなに勿体ないなどというのなら、本来帰るべき場所があるだろう。 「だったら実家に帰れば?」 俺がニヤッと笑ってそう言えば、水野は仏頂面になって 「それだけは嫌だ」 と答えた。とはいえ、随分前から実家には既にここに居座っていることは伝えてあるらしく、俺は何度か電話などで真理子さんに礼を言われていたくらいだ。だが、そうとも知らず水野はこう言う。 「だから、お前がもっと広い部屋借りてくれれば良いんだって」 簡単に言ってくれるぜ、と俺は内心溜息を吐いて言い返す。 「おーい。俺のどこにそんな金があるんだよ」 人並みの給料にプラスコーチとしての手当は出ているものの、Jリーガー時代のような――年俸の安い水戸でもさすがに同じ年のサラリーマンよりは多かった――収入がある訳ではない。それを聞いた水野が少し考えてからとんでもないことを言い出した。 「俺が出しても良いけど。……いや、だったら買っちゃえば良いのか」 はい?俺はポカンと口を開ける。 「待て待て待て、それはちょっと」 そう言って、俺は全力で否定した。一体どうしたらそう言うことを思いつくんだ。家買っちゃえって、どっかのサポーターじゃあるまいし。困惑している俺に構わず水野はしれっと続ける。 「だって、それなら堂々と俺が居られるだろう。何、それとも俺と居るのが嫌?」 そう言う問題じゃない。それに周りへの説明やマスコミに嗅ぎつけられたらどうするんだ。そもそも、水野が買ってしまったらそれはもはや俺の家じゃなくなるだろう。当人はそういうことを全然考えてないようだが。……世間知らずの坊ちゃんにもほどがあると俺は溜息を吐く。 「そういうことじゃねぇし。ああ、もう」 困惑しきった俺がそう答えその髪をガシガシ掻いてると水野がニッと笑った。 「困った顔してるお前も良いな」 ジリジリと距離を詰められて気がついた時には重ねられてた唇。強引な口づけにヤバイ、流されると思った時には既に時遅しというべきか。ソファに押し倒されていた。 「あのさ、まだ昼間なんだけど」 俺は水野を見上げながらそう言ってみる。 「別に良いじゃん」 会える回数が減ったせいか、どうも会えば求められる回数が増えている。思いは判らないでもない。だけど、こちらは講師業とコーチ業を兼ねていて大概忙しい。 「俺、授業の準備とかしたいんだけど」 「後でも出来るだろ?」 その口調そのものは優しいが同時に強引さも多分に含まれていて。確かに出来なくはないが、どうせなら逆の順序の方が良い。決して水野を後回しにしたい訳ではないが、正直そういう事を昼にするのは恥ずかしさや後ろめたさに拍車がかかってどうにも慣れないのだ。 「水野。ちょ、ちょっと……」 必死で抵抗しているその時、インターフォンがピンポーンと鳴ったのは救いに思えた。俺は上にのし掛かっている水野を、それこそ試合の時くらいの全力で押しのけるとインターフォンに出る。そこに映っているのは、押しのけたばかりの人物そっくりの子供。あまりのタイミングにちょっとおかしくて思わず笑いそうになるのを堪えて俺は返事をする。 「はい」 「虎治ですけど。お兄ちゃんいますか?」 まだ声変わりしてない高い声でそう訊かれる。 「いるよ。上がって」 俺はそう答えながらオートロックの解錠ボタンを押した。 「はーい」 と、返事をした虎治はそのまま開いたドアをくぐっていく。それを確認して俺はインターフォンを切った。 「……誰?」 中断されて不機嫌なのを隠そうともせずに近づいて来た水野はそう言った。だが俺が、 「虎治」 と、答えれば水野は急に表情を驚きに変えた。 「は?何で急に。連絡あった?」 そう言われて俺も気がついた。ここに来ることは初めてではない、どころか水野が帰国している間は時々あるのだが、その前に大抵水野の携帯か家の電話に連絡がある。 「そう言えばなかったな」 俺はそう答え首を傾げた。その時再度鳴るインターフォン。今度は俺は直接玄関へと向かう。そのドアを開ければ大きな紙袋を下げた虎治が立っていた。挨拶する彼を俺は招き入れる。そして俺が用意したスリッパを履いてリビングに入ると、 「これ、お母さんから」 と言って、虎治は持っていた紙袋を差し出した。そこにはお洒落な大きめの保存容器が幾つも入っていて、食事の差し入れだとすぐ判った。 「外食や三上さんに作らせてばっかじゃいけないよって言ってたよ、お兄ちゃん」 虎治のその言葉に憮然とする水野。俺は思わず声を立てて笑う。どうやらすっかり見通されているようだ。いや、水野も作れない訳ではなかったが、どうにも調理器具をぐちゃぐちゃにしてくれて、結局それらを全部片付けるのは俺なので、いい加減面倒臭くなって作らせるのをやめたのだ。 「ありがとうございますって伝えておいてくれる?」 俺がそう言えば、うん、と返事をする虎治。容器を返すときにまたお礼の手紙を書かなければなと俺は思い、この季節向きの便せんがあっただろうかと、頂いたものを冷蔵庫にしまいながら考える。一方ソファに座り直した水野は、向かいに座った弟に尋ねていた。 「しかし、どうしたんだ。急に来るなんて珍しいな」 そう、どうしたと言うのだろう。虎治の分と、水野の紅茶と自分のコーヒーも淹れ直そうと思ってキッチンで用意していた俺も、気になってその答えに耳を傾ける。すると虎治は想像してもいなかったことを言い出した。 「僕、武蔵森受けたくて」 「は?」 さすがにこれには二人してポカンと口を開ける羽目になる。用意した飲み物を持って、絶句したままの水野の横に座った俺は、 「お父さんやお母さんは何て言ってんの?」 と、一応そう訊いてみた。するとニコニコと虎治は笑って答える。 「二人とも好きにしたら良いって」 明るく返ってきたその声に、 「……俺の時にもそう言ってくれたら良かったのにな」 そう言いながら遠い目をしてガクリと肩を落とす水野を、俺はまぁまぁと慰める。そして、ふと疑問に思ったことを訊いてみた。 「でも、マリノスのユースあるなら横浜の方が楽じゃないか?というか寮じゃ不便だろ?」 俺の問いに虎治に相変わらず笑顔のままでこう答える。 「そうだけど家からは武蔵森の方が近いし、寮は入らなくても良いって言われたよ。それに三上先生の授業受けてみたいから」 なるほど、寮の件は水野が特例を作ってしまったからか。それこそ自業自得じゃないかと思って横の水野を見てみたが、ちょっとそれは冗談でも口に出来るような状態ではなかった。更に虎治は思ってもみなかったことを言い出す。 「さすがにユースやめる訳にはいかなかったから諦めたけど、三上コーチの指導受けて見たかったな、僕」 そう言って俺を見る視線に妙にドキリとさせられて、もしかして俺は根本的にこのDNAに弱いんだろうかと、少しばかり頭を抱えたくなった。とはいえ、隣に座ってる水野の方こそもう完全に頭を抱えているのを見て、俺はそちらをフォローすることにする。 だが、頭を抱えたくなる事態は入学されてからの方が圧倒的に多くなった。 遅くに出来た子は可愛いって言うけど、本当にその通りのようで、甘やかされて育ったのが嫌と言うほど判る。実際、同じ年の頃の水野を見てるだけに、可愛いのは確かなんだが。 「三上さーん」 朝練を終えてグラウンドから職員室へ向かう途中にそう声をかけられる。 「学校では先生付けろって言ってるだろう、桐原」 結局、渋沢以外の先輩の前でしか俺を先輩付けで呼ばなかった水野を嫌でも思い出す。まぁ、自分でそれで良いと言ってはいたから仕方ないことでもあるけど。 「えー、皆、みかみんとかミカちゃんとか言ってるよ」 確かに、生徒が教師にあだ名を付けるのはよくある話で、自分達もそうだったとは思うが、さすがに当人をそう呼んだ覚えはない。 「ほう、良い根性だな」 約一名、原因を作ってるであろう人物が職員室にいることを思い出して、俺は後でシメたろうかと内心思う。 「で、だ。いい加減ギリギリに登校してくんな。特例なんだし。朝はもっと余裕を……」 と、俺が説教をしかけた時、 「寝起きが最悪な三上先生から言われたくないなぁ」 そう口をとがらせて言われる。 「それ、もしかしてお兄さんから聞いたの?」 俺がそう尋ねれば、虎治はうん、と明るく頷く。そして思い出したようにこう付け加えた。 「そうそう、お父さんもそう言ってたけど」 一体何をどうしたらそういう話になるんだ、と思ったが昔一度だけ水野の家に泊まった翌日の朝、案の定寝起きが悪くしばらく使い物にならなかった記憶はあるから、何かの拍子にそういう話になったかもしれない。しかし、だとしても。 「黙っとけよ。特にサッカー部連中にはな」 俺は虎治にそう言った。まだコーチとしては若い方だから連中にバレれば絶対そこを突かれるであろうことは目に見えている。 「はーい。じゃあね」 そう返事をし、手を振って教室へと向かう虎治。 「……じゃあね、じゃねぇし」 俺は溜息を吐いてから、せっかく数時間前に寝癖を直したばっかりの髪をくしゃくしゃと掻いた。最近数本若白髪を発見したが、あえて気にしないことにする。 それから数ヶ月経った中間テストの後。空き時間に採点しながら、俺はその点数を名簿に書き出していてとんでもないことに気がついた。無い――! 慌ててバサバサと答案用紙をめくって確認する。そしてその中から一枚だけ無記名の答案用紙を用紙を発見する。 ……またやってくれた。 俺は内心でそう呟く。出来る子ではあるのだが、同時に問題児でもあって。俺は文字通り頭を抱えた。その日の昼休みに、とりあえず当人を来るよう呼び出しておいてから、俺は離れたところに座っているであろうその保護者の姿を探し、声をかける。 「桐原先生、ちょっとよろしいですか?」 そう呼んで、当人を呼び出している面談室へと一緒に向かった。そして部屋に入るなり、俺は無記名の答案用紙をバッと見せつけるようにしてから差し出して訊いた。 「これ、おたくの息子さんの字ですよね」 ふむ、と頷いた監督はその答案を見て言った。 「そうだが。満点だな」 おーい、ちょっと待て。それより何で重要なことに気が付かない、と内心思いながらも俺は言う。 「ただその前に名前がないんでどうしたものかと思いまして。とりあえずまだ他の先生方には言ってませんけど」 そこに明るい声でやってきた当人。 「三上先生、何ー?」 ちょっと待って、と言って俺は監督への話を続ける。 「当然ながら学年トップ……って言いたいんですが、無記名じゃ――」 そう俺が最後まで言いかけるより先に監督が口を開いた。 「けど、平均点が下がると困るんですよね?三上先生」 最後の「先生」という響きがやけに大きく聞こえたのは多分気のせいじゃないだろう。 「はい?あの、桐原先生?」 そう言い、戸惑っている俺に畳みかけるように監督は言う。 「ここは大目にみてやってくださいませんかね。後でキツく叱っておきますので」 そう言って頭を下げられた。考えて見たら頭を下げることは何度もあったが、逆に下げられたのは初めてかもとか思ったが、まさかこんなことで、と思うと段々馬鹿らしくなってきた。 「は、はぁ……」 だからそう頷いたのは、もう最後は限りなく溜息に近い。 なんで俺はあの頃ああまでこの人に惹かれてたんだろうなぁと思うが、多分にこういうどうしようもないとこも好きだったから、もう俺は完全に諦めることにして、ポケットからシャーペンを出す。 「名前書いて。今回だけだぞ」 俺はそう言って虎治にシャーペンを差し出し名前を書かせた。それを見守って、 「申し訳ありませんでしたな、三上先生。じゃ、私はこれで」 と、しれっと何事もなかったように戻っていく監督の後ろ姿を見て、同じように強引に事を進めた後しれっとする水野を俺は思い出す。本人達は気づいてないだろうが、まったくもってそっくりだよと俺は溜息を吐いた。そして、その場にいるもう一人の息子に向かって俺はキツい口調で言う。 「今度やったら0点だからな」 「……はい。気を付けます」 しょんぼりとした口調で素直にそう言われたので、結局それ以上は言えず俺は「帰って良い」と言ってしまっていた。 ただそれにしてもやっぱり思うところはある訳で……。それがかつてあれほど慕った人に向けて言う言葉じゃないのは判ってはいるのだが。 「あんの、親馬鹿が。やってられっかー!つーか子育て根本的に間違ってんだろっ!上にあんだけ厳しくしてたのが下にとことん甘いとか、ホント馬鹿じゃねーの!」 そう言いながら、コーチをやってるだけにまだそれほど鈍ってない右足で蹴ったゴミ箱はガンッともの凄い音を立てて、少し凹んだ。思わずキョロキョロと周りを見回すと、背後から声をかけられる。 「見ーちゃった。器物損壊はいけないよ、ミカちゃん」 「中西」 元チームメイトの中西は、高校卒業と同時にサッカーをやめ都内の有名私立大学で元々セカンドランゲージだという英語に磨きをかけ卒業するなりすぐに母校の英語教師として帰ってきていた。生徒が陰で妙な呼び方をするのは恐らくというか、ほぼ間違いなくこいつのせいだろう。 「何、まーた桐原親子?とことん振り回されてるねぇ、三上先生は」 昔っからだよね、とクスクス笑う中西。 「さすがに頭痛い。大人しく横浜の学校に行っておいてくれれば良かったのに、なんで特例使ってまでウチに来たんだか。つか最初に特例作った水野が悪いんだが」 笑ったまま中西は言う。 「仕方ないよ。虎クンは兄と逆で実家も父親も好きだし、三上の事も気に入ってるからねぇ」 「はい?」 ポカンと口を開ける俺を見て中西はクスクス笑い続ける。そして、それからニッと笑って言った。 「ま、諦めるんだね。子供の頃から知ってる上に、あんだけ水野と仲良くしてるんだからさー」 関係はバレずともやっぱり親しくは見えるのかと思ってみたりする。だが、それよりふとあることを思い出して俺は中西に言った。 「つか、お前のとこのクラスだろ?担任ならちゃんと指導しとけよ、中西先生」 俺がそう言うと、さすがの中西も苦笑した。 「そう言われても、俺もあんま強く言えないって、監督が親じゃさ。まぁまぁ、とりあえずコーヒーでも飲み行かない?理科準備室に良い豆入ったって聞いたよ」 自分達が生徒だった頃に新任でやってきた理科教師が、準備室で凝ったコーヒーを淹れるのは教師間では有名な話で、一種の喫茶店と化していた。 「そーするわ」 苦笑しながら答え、中西と理科準備室へと向かう。ちょうどこの日の5時間目は互いに空き時間だ。フラスコで淹れられたコーヒーを飲みながら俺は窓から学校内を眺める。そこから向かいの校舎の教壇に立つ監督の姿が見えた。そして、更に離れた教室の窓際には虎治が座っている。少し眠そうにしてるのがここからでも判って俺は苦笑する。 「まぁ、でも良いんだ。幸せなら」 知らず俺はそう呟いていた。 「ん?なんか言った?」 中西がそう訊き返すのに俺は笑って誤魔化す。 「別に」 お互い幸せな生活をしてる。それが判る。 それで良いと思える、そんな日々。悪くないなと俺は思う。 ……水野、今度帰ってきた時にまた色々話す。 俺は俺なりにこんなドタバタして苦労もあるけどわりと楽しい日々を過ごしていると。 だからお前の話も聞かせろよ。たとえ苦労や愚痴であろうと俺は何だって聞くから。 |
デイズ 〜期限付きのシンデレラボーイ TRASH 2〜 2011.10.08 UP |