重く垂れ込めた雲から降りしきる雨粒。アップをしていた俺はそれに打たれながら、試合の様子が気になったのもあってふとピッチの方を眺めた。そこには良く知って見慣れている、背番号10、マリノスのブルーのユニを纏った水野の姿がある。プライベートならば、手を伸ばせばいつだって触れられるような距離にいて、いっそ深すぎるほど触れてくるその存在が、今この時ばかりは、すぐ側に見えて近いようなのに遥か遠くにも思えて、俺は二人の間にある選手としての距離を改めて思い知らされる。そんなことを考えていた俺にコーチから声がかかった。
「三上、準備して」
 そう言われるのに返事をした俺はオレンジ色のユニフォーム姿になる。大卒ルーキーだった去年より多く試合に出られるようになり、最近ではベンチスタートになることが多かった。ただし、チームとしての成績があまり良い訳ではないので、実際に俺が活躍する機会はまだまだというところだろう。
 ボールが外に出たところで一旦プレイが中断した。交代を示す電光ボードが掲げられ、こちらに歩いてきた先輩チームメイトと軽くポンと互いの背中を叩きあう挨拶しながら交代し、ピッチへと俺は駆け出す。その向こうに居た水野が一瞬だけこちらを見てニッと笑った。それにつられ自然と上がる片方の口の端。俺は全力でピッチを走り、やがて回って来たボールを受けて蹴り出す。そして、いつかペースはこちらのものとなる。それに下がり目になった水野が、俺の前に立ちはだかった。――瞬間、俺は賭けに出て勝負を選ぶ。今の実力差からは無謀だってことは判りきっている。けど何故か、どうしてもそうしたかった。そして、左へとボールを先に出して水野を躱す。左を選んだのは完全に勘だけだ。いや、あるいはこれまでの水野との付き合いから、自然とそちらだと思ったのかもしれない。後ろからほとんど手を伸ばさんばかりで迫ろうとする水野の気配を感じながらも、体力に余裕のある俺は前線へと向かって一気に駆け上がっていく。
 試合の後マリノスの選手と順番に握手を交わしていく中、俺の前に水野が現れた。
「やられた」
 水野は不機嫌なのを隠さずそう言った。その言葉に、確か大宮とマリノスはマリノスにとって分が悪かったのを思い出し、
「元々相性悪いんだろ」
 そう俺は苦笑しながら答えた。とはいえ、まだ他の選手との挨拶が残っているので、ゆっくりと話などは当然出来ず、
「それでも悔しいぜ。またな」
 短く水野がそう答えるのを聞いて頷きながら、俺と水野は互いに他の選手との握手に移る。



 ――そう。あの時、またなと言葉を交わした。
 けれどそれ以来、俺が水野と再び同じピッチに立つことは無かった。何故なら更なる出場機会を求めた俺が、その次のシーズンから水戸へのレンタル移籍を選んだから。
 あれはその話をしに水野の横浜のマンションに行った時のことだったか。俺がそれを告げると水野は、はぁ?と大きくその目を見開き、訊き返した。
「水戸?!どうしてまた水戸なんかに」
 確かに、名門マリノスの10番を背負う水野にしてみればそれは都落ちに等しいだろう。だが、俺にとっては新天地になるかもしれない場所だ。
「……何だよ、水戸じゃいけねぇのか」
 俺がそう不満そうに答えれば、水野はそれより更に不満そうな顔をして言った。
「だって、J2じゃ対戦出来ないじゃないか」
 ナビスコカップがJ1だけのものになって久しい。プレシーズンで水戸と鹿島が戦うことはあっても、マリノスとは天皇杯の組み合わせ次第でしか接点はないだろう。その気持ちも判るが、多分本当はそれだけじゃない。選んだのが水戸であることが不満なのだ。他所のチーム事情がどんななのかは、移籍してきたり移籍した選手などから、大体のところは伝わるものだから水野も少しは話を聞いているのだろうし、俺が今居る大宮も元々J2から上がってきていて水戸とは何度も対戦したことのあるチームだからそれこそ、その話はチーム内によく伝わっている。……そう、水戸と言えばJの中でも下から数える程の資金不足で、あれこれ地元やサポーターから協力して貰ったり工夫したりして、なんとかやっているという話で有名だ。そんなチームだ、当然ながら苦労はあるだろう。その心配を水野はしているのだとは思うし、不安や不満に思っても無理はない。だけど、俺にとってはそんな苦労よりもどうしても得たいものがあって――。
「そりゃそうだけど、俺はもっと試合に出たい。それは判るだろう?」
 俺がそう言えば、水野は口を噤む。同じ選手同士、試合に出てこその選手だという思いは判る筈だ。結局のところ、どうしても行くという俺の決意の固さに根負けした形で水野は俺の水戸行きを受け入れた。

 それから数シーズン経つ頃にはチームにも馴染んで、いつか俺は各社の出している選手名鑑でも注目選手扱いで載るようになっていた。互いに忙しい日々の中、オフシーズン以外は水野とは電話やメールが中心で時折互いのマンションを訪れるくらいだけになっていた。ただし、その分水野は会える時はいつだって会えなかった分を埋めるかのような振る舞いをした。傍から見ればどう見たってその生活などが満たされてるのは水野の方だろうに、寂しがりなのは圧倒的に水野の方だ。マリノスの中で可愛がってくれる先輩もいるようだが、それでも話を聞いてる限り親しいチームメイトはどうも限られているようだ。元々の性格もあるだろう。でも、そんな水野の性格を差し引いても大きい名門チームではそんなものかもしれない。逆に小さいチームで色々苦労はしているけれどその分、水戸の選手達同士の方が親しく触れ合えているようで、俺はその中で楽しいとさえ思えていた。
 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。J2も終盤に入り上位で激しい昇格争いをしているチームとの試合中、相手DFに激しく削られた俺は負傷し、それがきっかけで次シーズンにまで渡る長期離脱を余儀なくされ、それでも何とか無事回復出来てフルで試合に出られるようなコンディションに戻った頃には、もう既に違う選手にレギュラーは奪われてしまっていた。
 ここでレギュラーを奪われてしまった以上、もうJリーグでは俺に他に行く場所はないだろう。その予感はシーズンが終わる前に既にあった。
 だけど、それを現実として受け入れるのはやっぱりキツイ。
「……解雇、ですか」
 呼び出された部屋で俺はそれを告げられ、やっぱりかという思いと悔しさとどちらもが混じった複雑な気持ちになる。そんな俺に更に追い打ちをかける言葉は、それでも遠慮がちに言われて、
「出来ればスタッフとして残って貰えればこちらとしてはありがたい」
 確かに十分なスタッフがいるとは言えない状況で、まだ下の方とは言え一応ライセンス持ちの俺がそう言われるのは当然と言えば当然だろう。
「少し考えさせて下さい」
 今の段階で俺が答えられるのはそれだけだった。それに勿論、と頷かれる。
「大事なことだから、じっくり考えて下さい」
 はい、と返事をして俺は部屋を後にする。
「ここまで、だな……」
 閉めた扉にもたれかかり、俺は天井を見上げ呟く。その廊下の蛍光灯がぼやけて見える。
 ――判ってる。ここではもうここまでなんだ。では、この先一体どうすれば良い?
 その答えがすぐ見つかる筈などなかったし、ここでこんな姿を他のチームメイトに見せたくは無かったので、俺は慌てて瞼を手の甲で拭うとそのまま駐車場へと急いだ。



 途中の記憶が怪しいものの何とか車を運転して、俺は自宅へと戻る。そこで緊張の糸は切れた。ドアの扉が完全に閉まると共に俺はその名前を呼んでいた。
「水野――」
 よっぽど今すぐ呼び出すか、これからでも横浜まで車を飛ばそうかと思った。でも多分、水野は諦めず現役を続けろと言うんだ。なのに同時に自分の側にいろと無茶なことを言う。だけど、もう俺は自分の限界を知ってしまった。水野にその気持ちはまだ判らない、理解出来ないだろう。
 そんな思いから不意に口から出た言葉は。
「……監督、俺、どうしたら良い?」
 それはもう絶対に訊けない言葉。今すぐに訊きたい。電話なり行くなりすれば、多分普通のかつての恩師と教え子という立場で相談にのってくれるんだろう。だけどもう会えない。個人的なことでは会わないと別れをやり直した日に決めたんだ。
「どうしたら良い」
 本当はまだやめたくなどない。それが本音だ。だけど、もう限界なんだ。歪む視界。知らず零れ落ちる涙がぽた、ぽたと落ちてフローリングまで濡らす。
 水野と桐原監督以外に頼れる人間。チームメイトや大学の先輩、同級生などの顔を思い浮かべる中、誰か……と思った時にふと同じ県内にいる高校時代の同級生を思い出す。それこそ俺の事情をよく知っていて、誰からも頼られる存在。気がつけば俺は携帯で登録されてるその人物に電話をかけていた。
「渋沢、相談があるんだけど――」
 そして、そのまま俺は鹿島へと車を飛ばした。夜の突然の訪問でも構わず出迎えてくれた渋沢は俺の赤い目を見て一瞬驚きながらも、そのまま気がつかぬふりをしてくれた。そして勧められるままリビングに通される。同じ県内に居ながらこうして訪れるのは実は初めてだった。ソファに座った俺に渋沢は温かいコーヒーを出してくれた。俺はそれを受け取りながら、事情を話す。
「解雇?」
 驚いたように渋沢は言った。
「ああ。発表はまだだけど、じきにプレスに出ると思う」
 俺がそう答えると、渋沢はふと気がついたように俺に訊き返した。
「水野には言ったのか」
 まぁ、確かにそう言われるのが普通だろう。
「まだ話してない」
 そう俺が答えるのに渋沢は深い溜息を吐く。
「……俺を頼ってくれて一番に相談してくれるのはありがたいが、さすがにそれはどうかと思うぞ」
 そう言いながら困ったなという顔をする渋沢。
「相談出来そうな人間の中で一番近いのお前だったし。それに、言われることは大体想像つくからさ。現役を続けろ、けど近くに居ろって」
 そんな俺の答えに、渋沢も想像がついたのか苦笑して答えた。
「まぁ、そうだろうな。で、お前はどうしたいんだ?」
 後半は真顔でそう訊かれ俺は、少しばかり考えてから答える。
「このまま引退して勧められたままスタッフになるか、現役続けたいんならJFLか地域リーグへ行くか。普通この二択しかないだろ。……ただ現役続けるのは色々と厳しいな。チームや環境がどうというのよりも俺の事情から。となるとスタッフしかねぇのかな」
 解雇されても今のチームは好きだからスタッフになるのが嫌な訳ではない。だけど、慣れるまで他の選手、チームメイト達を近くで見るのは切ないだろうなと俺は思う。
「ああ、そうだ。実は、もう一つ選択肢があるんだが」
 ふと渋沢は思い出したように言った。それに、え?と俺は渋沢を見る。他に一体何があるというのか。今更、普通の勤め人は難しい筈だが。しかし、そんな俺の予想とはまるで違ったことを渋沢は言う。
「武蔵森のコーチが引き抜かれたんだ」
 そう言って渋沢は俺達が世話になっていたコーチの名前を挙げる。
「え?じゃあ、どうなんの?」
 俺が驚きながらもそう訊き返せば、
「だから探しているらしい。ライセンスはお前も取ってただろ?指導者になるならそっちの道もある」
と、渋沢は微笑んで答えた。確かにライセンスの講習では渋沢とよく顔を合わせていたのを思い出す――内心毎回、何で渋沢がこんな早い時期から取ろうとしてるのか不思議に思ってたのだが――。そして、言われたことをよく考えて見る。
「なるほど母校のコーチか、それ悪くねぇな。いや、むしろ面白そうだ」
 そう言いながら、何だか急に道が開けたような気がした。
「……けど」
 ――そう、それはまた桐原監督の元に戻ることになる。監督はともかく、水野はどう思うだろうか。多分あまり気分は良くないんだろうなと思う。
 俺が何を考え言い淀んだのか、渋沢はすぐに察したらしい。
「三上。お前の人生なんだからお前がやりたいと思うこと、進みたいと思う道を進むべきだと俺は思うが。こんな大切なことで、水野や監督に変な遠慮する必要はないだろ」
 はっきりとした口調で渋沢はそう言った。
「渋沢」
 俺がそう呼べば渋沢は真剣な顔で言い聞かせるようにこう言った。
「たとえ最初は判って貰えなくても、お前が新しい道で幸せになればそのうち理解して貰えるだろ。そうじゃなきゃ、二人でいる意味なんてないと思う」
 そして、そうだろう?と微笑んで言われ、俺は頷く。確かにその通りだ。だけど……。

 ――水野、お前は判ってくれるだろうか。誰の為のでもなく俺自身の俺だけの為に、もう一度武蔵森へ戻ることを。

 俺にとっては本当にそれだけが気がかりだった。
 そして、やっぱり心配はかけたくないし、いくら探しているからといってJリーガーを辞めたばかりの俺が採用されるとは限らない。すべて無事に決まってから報告したいと思って俺は自分だけで話を進めることにする。



 数年ぶりに母校を訪れ理事長との面接を終え、その結果無事再就職が決まった俺は少しほっとしながらようやく水戸の自宅まで戻り、近いうちに新しい部屋を探してここを引き払わなきゃなきゃと思いながら自宅の玄関の扉を開ける。その玄関に既に合い鍵で部屋に入っていた水野の靴を見つけ、
「水野?来てたのか」
と、俺はリビングに向かって声をかける。しかし返事はない。それに訝しみながらも俺が上着を脱ぎながらリビングに入っていくと、座っていたソファから突然立ち上がりつかつかと俺に歩み寄ってくる水野。
「三上。どうして俺に黙ってた!」
 水野は怒りながらそう叫んだ。恐らくは口の堅い渋沢以外のルート、多分に藤代辺りから聞きつけたのだろう。
「だって、相談してもお前の言いそうなことくらい判るから」
 俺はそう言って答えたが、それはどうにもちゃんとした言い訳にはなってない気はした。ただ、水野にしても、こういう時自分が自分の意見だけを押しつけてしまう自覚は多少はあるのだろう。それ自体は否定せず、
「そうだとしても!」
と言った。そうやって言われてしまえば、確かに悪いのは俺の方なんだろう。
「……確かに悪かったよ」
 けれど俺がそう謝っても、水野は怒りを静めることは出来ないらしい。
「やめるならまだ良い。でも、何だって武蔵森のコーチになるんだよ。チームからのスタッフに回ってくれって話だってあったんだろ?」
 やっぱり一番気に入らないのはそれらしく、ほとんど胸ぐらを掴まんばかりの勢い。いや、もうその手は伸びていた。だが、さすがにそこまではと思いとどまったのか、すぐに引っ込められる。が、その手は俺のネクタイにほんの少し触れていて、引っ込められたその時に当たったのか、カツンッと音を立てて床に落ちるネクタイピン。
「悪い」
と、あんまり悪く思ってないような口調でそう言ってそれを拾い上げた水野の手が、何かに気がついて止まる。――そう、気がついてしまったのだ。
「S.Kirihara……?」
 まったくもって間が悪い。よりにもよって最悪なタイミングだろう。
「これ、親父のだろ?何でお前が持ってるんだよ」
 水野はそのネクタイピンを握りしめたままのその拳を振るわせている。
「そりゃ、貰ったからしかないだろ」
 俺はそう答えるしかなかった。だって他になんと答えようがある。そんな俺の言葉にまるで水野は、今まで疑問に感じていたものを全てぶつけるような叫び声で訊いた。
「一体お前は親父の何なんだよ!?三上!」
 その言葉に含まれた嫉妬にも似た感情は俺と監督のどちらにも向けられているように思えた。
「前に言ったじゃねぇか」
 俺は努めて冷静に答える。俺にとってはもうすべて終わった過去でしかないのだ。
「それだけじゃないだろ?!本当は!」
 いくらそう言われても、俺は過去の監督との関係を答えるつもりはなかった。無邪気で残酷な子供ではないのだ。何もかも正直に全て言えば良いってものじゃなく、真実は時に傷つけるものでしかないこともある。それを俺はよく知っていた。そして、何より恋や愛は相手のすべてを奪うものじゃない。それもよく判ってるから。
「お前、俺の過去まで全部欲しいの?」
 俺はなるべく優しい口調でそう訊き、そしてこう言った。
「前に自分は桐原竜也じゃないって言ったのはお前だろ、水野」
 そう俺が言えば、水野はクッと言葉を詰まらせる。だが、その後で急に今度は不安げな顔になり、そして心細そうにこう言う。
「……だって、俺はお前の全部が欲しいよ」
 そう言いながら俺へと腕を伸ばし抱きしめてくる水野。そう願うこともまた、当然と言えば当然なのだろう。
「過去はもう過去でしかないんだ。今の俺は今の俺でしかないし、お前が俺の居場所だと思ってる。それじゃ駄目なのか?」
 俺は水野の腕の中で、まっすぐと水野を見つめながらそう言う。その瞳に見ているのは水野との今と未来しかない。それを受け止める水野は切なく微笑んでこう言った。
「判ってるよ。だけど、本当はお前の過去も今も未来も全部欲しい」
 その言葉と共により強い力で抱きしめられて、俺は息も出来なくなる。そんなに不安にならずとも、多分俺はもうどこにも行かない。だから、それを伝えたくて俺も強く抱き返す。そして、それに安心したのかその腕が緩んだ時、冗談めかして俺は言う。
「強欲だな」
 そんな俺の言葉に、水野は苦笑して答える。
「知ってる癖に」
 ……よく知ってる。お前のことならば、きっともうお前以上に知ってしまっているのかもしれない。そして本当は俺も水野との今、未来を欲しいと切に願うのだ。それが世間から望まれぬものだと判っていても。



 水野がよく行くと言う大手百貨店の中のブランドショップで。水野は俺を試着室に押し込むと次々とスーツを差し出してくる。俺はついそのタグに書かれた値段を見て遠慮し、どうにも一番安いものから選んで手を取ってしまう。それに呆れた顔で溜息を吐く水野。
「だから、もうちょっと良いヤツにしとけって。仮にも元Jリーガーがあんまり安物着てると馬鹿にされるぞ。お前が服に頓着しないのは判ってるけど」
 水野はそう言うが、あいにく俺は水野と違って高い年俸を貰っていた訳ではない。
「いや、だって。いくらなんでもこれは高いと思うんだが」
 俺がそう言うと、水野がニヤッと悪戯を思いついた子供のように笑ってからこう言った。
「俺からの再就職祝いってことなら問題ないだろ」
 不意に言われたその「祝い」という言葉が、何故か妙に嬉しくなって、それでもやっぱり照れ臭くて、俺はそれを隠して答える。
「んーなら、ありがたく受け取ることにするわ」
 けれど俺が隠した感情は水野にはお見通しだったらしい。
「はい、そういうことなので、全部俺に任せとけ」
 笑ってそう言い、楽しげに選び続ける水野。これじゃまるで俺は着せ替え人形だ。
「あの、着るの俺なんだけどさ」
 さすがに今度は俺の方が呆れてそう答えると、水野はその綺麗に整えられた眉の片方をピクリとさせながらも笑って言い返してきた。
「俺のセンスに何か問題があるとでも?」
 確かに、ファッション誌でも取り上げられることのあるJリーガーならば任せておいても、多分間違いはないだろう。俺はそこで白旗を揚げることにする。
「いーえ、ございません。……はいはい、俺の負けってね」
 そう言い溜息を吐いてから苦笑した。そして、渡されたスーツに着替え、鏡に映る自分の姿を眺めてみる。上等な仕立てのスーツにシャツと洒落たネクタイ。水野の見立てはやはり悪くなく、こうすれば我ながら様になるもんだと思ってみたりする。そんな俺のネクタイを水野が手に取る。そして、そこに何かを付ける。
「水野?」
「返しておく。大切なんだろ」
 そこに止められたネクタイピンは監督から貰ったもので。確か、あの日から水野が持ったままでいた。それに、良いのか?と訊こうとして、そこにあった笑顔に俺は何も言えなくなる。水野は俺と監督との間に何があったのか知らない。だけど、それでも良いのだと受け入れてくれた。それがこの笑顔だろう。
「ありがとう」
 俺はそう言った。そして鏡に二人並んで映る姿を見る。
 ――そこには今、そして未来がある気がした。



 

インフィニティ
〜期限付きのシンデレラボーイ TRASH 1〜
2011.10.02 UP