いつものように講義後の練習を終えた俺は学内でチームメイトと夕食を済ませ、サッカー部の寮になっているアパートに戻ると今日の講義のノートとテキストを開いた。今日は語学を入れていない曜日だったので一般教養はパラパラと見て確認することで大体の内容を覚えられたが、問題は学部の共通科目。しばらくテキストの数式を見ていると、いつの間にか文字が少しぼやけて見えるようになってきて、俺はデスクの上に置いていた眼鏡を手にしてかける。元々勉強は好きな方だし、中学高校と真面目にやっていたせいか大学に入ってもサボらずきっちりやっていたら――理系でサボるとついていけなくなってしまうのもあるが――少し視力が落ちてしまい時々眼鏡をかける羽目になった。まだ限りなく仮性近視を超えたくらいの状態で試合中にコンタクトが必要なレベルにはなっていないのが幸いだが、このまま進行したらマズイなぁと内心思いながらも、また俺はテキストに戻り、数式をレポート用紙に書き付けていく。 その途中不意にピンポーンと鳴ったドアチャイム。どうせまた誰かがノートのコピーか明日の代返を頼みに来たのだろうと思って、狭い玄関を突っ掛けも履かず手を伸ばし少しだけドアを開く。 「よお、三上」 と片手を挙げながら言って顔を出したのは、入学して早々に去年使っていたテキストなどを譲ってくれたサッカー部で唯一同じ学部の親しい先輩だった。それこそ一番ノートの貸し借りなどしているのでここに来るのは珍しいことじゃない。 「先輩。どうしましたか?」 と笑って俺は突っ掛けを履いてドアを全開にしたが、少しだけ開いた時には見えなかった、後ろに居た人物に俺は驚かされる。 「――水野、どうしてここに」 久しぶりに顔を合わせた水野は俺の眼鏡姿を見て少し驚いた顔をしていたが、俺の問いにはその当人ではなく先輩が答えた。 「ちょうど下に居て、声かけてみたらお前の部屋探してるっていったから案内してきた。ああ、そうだ、悪い。明日5コマの代返頼めるか」 そう言われて俺は先輩を見て、うーんと唸った。 「最近人数の割に妙に出席者が多いから、なんとかするって先週教授が脅してましたよ。明日はマズイですよ、多分」 その俺の言葉に先輩はがっくりと肩を落としてぼやいた。 「マジで?仕方ない出るか。その代わり寝てるからノートよろしく。あっちのレポート終わらなくてさ。ったく、こんなことなら文系にしとけば良かった」 確かに、サッカー部のレギュラーはほぼ文系ばかりなのだが、言われて俺はすぐ違和感に気がついた。 「あれ?先輩、一般入試組なのに文系でも合格出来たんですか?」 そう、この先輩はユースで上に上がれず一般入試で入学してきたが結局サッカーは辞められないと入部してきた人物で、理系には滅法強いが文系科目サッパリ、英語ギリギリな人だった。おかげで一般教養の一部は後輩の俺が指導してやるような羽目になってる。 「三上って時々凄く痛いとこつくよね。覚えテロ。まぁ、とにかくよろしく」 そう言った先輩は水野に「じゃ、ごゆっくり」と言って上の階の自室へ帰って行った。それを見送って、 「まぁ、とにかく。そんなとこに突っ立ってないで上がれよ」 と、俺がそう言うと、水野は頷いて部屋に入った。その様子がどことなくいつもと違って見えた気がしたがそれも一瞬で、水野は普段の表情で俺に勧められるまま、俺がテキストを広げていたテーブルの反対側に座った。 「面白そうだな、大学って」 さっきは俺と先輩のやりとりを黙って後ろで見守っていただけだった水野がそう言った。 「まぁそうだな。面白いっちゃ面白いかもな」 俺はそう答えて何か飲み物を出そうと考えるが、とりあえず今手に付けているものをキリが良いところまで進めたくて、俺はそのまま数式を書き続ける。一方で座って俺が手を付けてない他のテキストをペラペラとめくっていた水野は、それと俺の様子を見比べながら突然こんなことを言い出した。 「俺も大学行こうかな」 その言葉に、とっくに冷めて一口だけになっていたコーヒーをちょうど飲み干しかけていた俺は思わず吹き出しそうになる。 「はぁ?マリノス入団ほぼ決定だろうお前は」 半ば呆れながら俺がそう言うと、水野は少し口を尖らせて言い返した。 「プロやりながら大学通ってる選手結構いるじゃん。渋沢だってそうだろ」 と言って、水野は他にも具体的な名前を挙げる。それはクレーバーで通ってる代表DFの名前等。確かにプロをしながら関西の有名大学に通っているのは有名だ。それにしてもだ。 「その名前だすか?相変わらずの自信家だなぁ、坊ちゃんは。言っとくがその方が大変だからな、単位取るの」 俺がそう確認すると水野は苦笑して答えた。 「ああ、判ってるって。勿論慣れてからさ」 そう言われて、ちょうどそこで一段落ついた俺は飲み物を入れることにする。適当で良いか?と水野に確認すれば頷いたので、俺は立ち上がってワンルームの部屋の玄関を入ってすぐ、ユニットバスの向かいに申し訳程度に付いている小さな流しと随分と旧式の電熱コンロのキッチンに立つ。自分が飲まない紅茶など置いていないから、俺はインスタントコーヒーと小さな冷蔵庫から取り出した牛乳で割ったカフェオレと自分用のコーヒーを淹れる。その手を止めずに俺は水野に訊いた。 「で、なんだ突然に。電話でもメールでも出来ただろう。お前も忙しいんだろ?その方が……」 と、そう言いながら俺がテーブルに2つのマグカップを置こうとしたその時、水野が口を開いた。少し俯いてこちらも向かずに水野は言う。 「親父と母さん、再婚するって」 その言葉に俺は思わず持っていたマグカップの水面が震えていないか確認する。――大丈夫。 これは俺もそう望んだこと。あの日そう俺は言った。言ったのは俺だ。 とりあえずマグカップを置きながら水野に何と言うべきなのか考えた末、俺が思いついた言葉はこうだった。 「そりゃ、おめでとう。桐原竜也君」 するとそれを聞いた水野の顔色が見る見る間に赤くなった。そして、水野は叫ぶように言う。 「――俺は桐原じゃない!水野竜也としてシゲや風祭や皆に出会って、お前に出会って変わったんだ。今更桐原になんて戻らない」 その水野の叫びは悲痛に聞こえて俺はうかつなことを言ったなと後悔しながら、と同時にあることを思い出して言う。 「けど、戻らないって。そんなことしたらお前戸籍一人になるぞ」 確かそうなると、代返を頼まれて潜り込んだ法学部の講義で聞いたような覚えがある。 「もう高校で武蔵森に入った時点で監督に前みたいな反発は覚えてないんだろ?だったら、水野」 俺がそう言えば、水野はそりゃそうだけど、と答える。 「二人がまた仲良くしてくれるのが絶対に嫌なわけじゃない。けど、そうやって水野って呼ばれなくなる!それだけは嫌だ」 水野はそう言って俯く。 「別に登録名は桐原じゃなく水野のままに出来――」 俺が最後まで言う前に、顔を上げた水野はどこか虚ろな瞳で言った。 「水野って。なぁ、水野って呼んでくれよ」 まるで置いて行かれた子供のように、頼りなげな声でそう水野は言う。でも無理もないのかもしれない。過去を取り上げられたような思いに水野はなっているんだろう。もしかしたらそれは風祭に呼ばれていた頃の事を思い出しているのかもしれない。 「……シゲは良いよな。佐藤でも藤村でも、やっぱりシゲはシゲのまんまなんだ。けど、俺は違う」 側にいる俺など構わずそう呟く水野。サンガの藤村の話は水野からも藤代からも聞いたことがあるし、既に水野同様有名人だ。詳しい事情は知らないが、ただ、確かに中学の時初めて対戦した時は佐藤だったのは藤代や渋沢から聞いて覚えている。 「水野。桐原でも水野でもお前はお前だって」 そう俺が出来るだけ優しく微笑んで言っても、ただ、子供のように、イヤイヤをするように首を振り続ける水野。明らかに混乱してる水野の姿に俺はあの人へ激しい怒りを覚えた。 ――監督、俺は水野を不幸にする為に貴方に別れを告げて「家族の元に戻れ」って言ったんじゃない。 たまらず俺は水野に近づくとそのまま抱きしめた。そして軽く背中をさすって、優しく囁く。 「判った。もう良い水野。もう何も言わない、何も言わないから」 「三上……」 そう俺の名を呼び、腕の中で今にも泣き出しそうな顔の水野を見つめながら、本当に不思議なものだと思う。一時はあんなにも水野のこと憎んだ筈なのに、今は水野が不幸になるのは絶対に見たくなかった。でも、それもその筈かとふと気がつく。水野が居なければ俺が監督に呼び寄せられることはなく、選抜に落ちて大事なことを思い出すこともなく、そして武蔵森で一緒にプレイしてセンスを引き上げられるようなこともなかった。だから、先輩として出来る限りのことをしてきた。……そうだ。いつか水野は、水野自身が俺にとって大切な存在になっていたんだ。だから、一人で堪えずいっそ素直に泣いてしまえば良いのにとさえ俺には思えて自然と抱きしめる腕に力が入った。 「ごめん、俺どうかしてた」 しばらくして落ち着きを取り戻した水野は慌ててバッと俺から身体を離した。そして少し照れくさそうに笑った。 「別に。混乱して当たり前のことだから気にするな」 そう言った俺は立ち上がってコーヒーを淹れ直す。とっくに冷めていたカフェオレの入ったカップも一緒に持ってレンジで温め直す。それを水野に差し出し俺は一つ微笑んで、テキストに向き直った。 「……あのさ三上。お前は、お前は何とも思わないの」 マグカップを抱えるようにしてカフェオレを飲みながら言う、その水野の問いに俺はテキストから目を上げぬままに答える。 「何のことだ」 「お前と親父、何かあるんだろう。随分前に俺んち泊まりに来たとき、親父からのメールが来てただろう」 記憶を辿れば確かにあの日、起きたらメールが入っていたのを思い出す。まさか、水野が気がついていたとは思わなかったが。 「終わったことだ」 俺はそう答えた。そう、終わったこと。決して、二度とは戻らない日々。 「終わったんなら、もう良いだろう」 水野はそう言う。確かにその通りだ。水野が告げたことが本当の終止符を打った。少しだけ躊躇いながらも俺は答える。 「――俺はお前の身代わりだった」 本当はそれ以上のものを貰った気はする。けれど、やっぱり本質は変わらない。いや、もうこうなった以上身代わりだったと思い切った方が楽だ。 「……そんな。そんなこと、どうして?そんな酷いこと、どうして許してた!」 そう水野に言われるのは妙な気持ちだった。当の本人の身代わりだったのに、水野は監督に憤っている。 「それでも良いと俺が望んだんだよ」 俺はそう言って水野に微笑み、続けた。 「家の事情でサッカー選手なんて夢で終わる筈だった俺を選んでくれて、こうして大学まで進ませて貰った。全て監督のおかげ。俺にとっては監督が全てだった。だから身代わりでも構わなかったし、何でも出来た」 ……本当に、本当に何でも出来た。その身を差し出せるくらい。もしあの時、仮に死を命じられても俺は躊躇わなかったんじゃないかと思えるくらい、あの頃は俺にはあの人しかなかった。だからこそ、中学の時の水野の編入話を裏切りに感じて恨みもしたし、選抜に落ちたあの日まで水野を心底憎んでたんだろう。 「なんで、なんでなんだよ!じゃあ、お前の幸せはどこにあるんだよ、三上」 強く水野がそう訊くのに、俺は笑って答える。 「俺は別に不幸せなんて思ったことはないけど?」 そう言葉にした後に、ズキリと胸が痛んでそれは嘘だと気がつく。 ――決して結ばれることのない愛はあの春に終わって、今、完全に破れて消えた。 覚悟はしていた、望んでさえいた筈なのに、どうしようもないこの空虚感は何だ? 気がついたら俺は水野に抱きしめられていた。いや、水野が抱いているのは俺というよりも自分自身なのかもしれない。同じようにたった一人になってしまったような感覚に襲われているんだろう。俺を強く抱きしめるその腕からそれが伝わってくる。 ……俺がお前で、お前が俺で。容姿はまるで違うのに、その根本がどこかよく似ている俺たち。だから監督はあの日俺を選んだんだろうか。 「俺もお前も一人か」 俺はそう呟いた。 「そうだな」 そう答えた水野の唇が不意に俺の唇に重ねられる。驚いたが、俺は何故かそれを拒む気にならない。そのままフローリングの床に敷いたラグの上に押し倒された。上から降ってくる水野の視線はあまりにも切ない。 「俺と居てよ。俺のものになってよ。ずっと一緒に居てよ。もう俺にはお前しかいないんだ」 ――俺を見て。 そう言っているように聞こえて、ああ、かつて自分も同じようにあの人に願っていたのだろうと俺は思った。あの人そっくりな眼差しの水野から俺は視線を逸らすことが出来ない。 互いを見つめ合いながら俺は思う。一体どういう悪戯で、俺はこんな運命を与えられたのだろうか。あの日水野の身代わりとして呼び寄せられ、あの人に惹かれ求めて求められ、そして別れた。それが今、何の因果かこうして水野から求められている。だけど、俺はそれが嫌じゃないことに気がつく。それどころか、今の水野を一人にしておきたくない、側に居てやりたいと思った。だって、そもそも水野が居なければ今の俺は居なかったのだから。そう、本当に最初からこうなることは決まってたのかもしれない。 重なるあの人の影を振り払って、俺はただ目の前にある水野の顔を見つめる。 「そんなに俺が良いの?」 俺はゆっくり片手を伸ばし水野の頬に触れると優しく微笑んで訊いた。 「お前が良い」 そう答えた水野は性急なキスをする。それこそ、俺が逃げてしまうのではないかと焦ってる水野。経験は少ないかそもそもあるのかどうかってくらいに、とにかく拙くてただ激しいだけなのに、切実なのが嫌という程伝わってきて、俺はただそれを受け入れる。 ……そう、どこまでも自分の奥深くまで水野を受け入れて。この与えられた運命ごとすべて受け入れる。激しい水野の熱に溶かされて一つになるような感覚は俺を酔わせる。酔わされた俺は意識を焼き尽くされていく。いっそ、過去を想う空虚も焼き尽くして――。 「三上、好きだ」 最後の瞬間水野がそう切ない声で言ったのが聞き取れた。それは何も混じらない紛れもない愛情の言葉。それは俺が一番欲しかったものかもしれない。 武蔵森の寮を出てマリノスの独身寮に移った水野は、高校生Jリーガーとして忙しい日々を送っている。そんな水野が休み取れたと、また急に俺のアパートを訪れた。いつだって急で、こっちも大概忙しいんだけどなぁと内心思いながら、紅茶とコーヒーを淹れてテーブルに置き、俺がレポートの続きをやろうとすると水野が僅かな躊躇いを見せてから口を開いた。 「……弟か妹が出来るってさ」 水野のその言葉に、ポロリと俺の手から落ちるシャーペン。けれどそれは単なる驚きで、取り繕う必要ある感情はもう浮かばず、ただただ込み上げる可笑しさに、俺は声を立てて笑った。しばらく笑った後、 「お前みたいにひねくれなきゃいいけどな」 ニヤリと笑って俺がそう言うと、溜息を吐いた水野はせっかくサラサラに整えられたその色素の薄い髪をグシャグシャと掻き毟って答える。 「今は両親うまくいってるから問題ないんじゃねぇの」 俺は落としたシャーペンを拾って握り直し、数式を書きつけながらレポート用紙から目を上げぬまま言う。 「なのにお兄ちゃんはひねくれたまんまか。たまには帰ってやれよ、せっかくの休みだってのに」 「判ってるって。けど、今日は俺はアンタと居たい」 水野はそう言って俺がかけていた眼鏡を外した。 「ちょっと、水野。俺レポート終わってな――」 その言葉の最後は降ってきたキスごとそのまま飲み込まれた。 ……うーん、これは久しぶりに先輩に頼らなきゃいけないかなぁなどと考えていたが、段々それも考えられなくなる。 まぁ、たまには良いかこんなのも、と思ってレポートの続きを諦め、俺は水野の背中に手を回した。 |
Destiny 2011.08.04 UP |