教室の窓辺からふと見た空の青さと木々の葉の鮮やかさを、清々しく感じる五月。俺が武蔵森へ来てもう1ヶ月以上が経とうとしている。
「ここはテストに出すからな」
 その教師の声に俺は窓から視線を黒板に戻した。書かれている長ったらしい公式。高校からの募集はあるとはいえ、中高一貫教育の武蔵森の授業は予想していた以上に進んでいて、特に理系の教科はまず遅れを取り戻すのが先で、中学では全く苦労してこなかった俺としてはほんの少し悔しい思いをさせられている。代わりに、サッカー部では直ぐにレギュラーを獲ったのだけど。
 子供の時のように何もかも簡単に手に入る訳ではないのだろう。数式を代入して消していく作業を繰り返しながら俺は思う。…そう、何かを手に入れて、何かを失っていくのだとぼんやりと判り始めた。1年で即レギュラーな上、父親が監督ときては、友人を作るのさえ一苦労。過剰な期待、羨望と嫉妬。受け止めるのが精一杯だ、今はまだ。そんな思いもスラッシュと一緒に打ち消して、しばし目の前のノートの数式を解くことに集中する。










Note









「水野ー!」
 昼休みの終わり、教室移動で廊下を一人歩いていると俺を呼ぶ声がして、手を振りながら目の前に現れた陽性の声の主。
「藤代」
 その人懐っこい笑みに俺はどこかほっとした。選抜で一緒だった渋沢や藤代とは入学してからも随分親しくさせて貰っている。…間宮はちょっと、だけど。
「何、化学実験?」
 俺の教科書の表紙をちらり見て、そう藤代は言う。
「ああ」
 俺は頷いた。それに羨ましそうな声をあげる藤代。
「良いな、うちも早く実験やんないかなー。絶対に化学式なんかより実験の方が楽しいじゃん。…そうだ、水野ってお昼どこで食べてる?」
「教室だけど」
 唐突に訊かれて、そう俺は答える。事実、教室の窓辺で本を読みながら一人で食べていることが多かった。トレセンやら進学やら慌しくて、入学してからも何かと忙しく、しばらくあまり読めていなかったミステリィを読むには、昼休みはちょうど良い時間だ。…まぁ、京極夏彦なんかはともかくとして。しかし、それがどうしたというのか。
「そうなんだ。俺達中庭で食ってるからさ、たまには来なよ」
 藤代はそう言った。俺達とはサッカー部の1年連中のことだろう。寮でも練習でも一緒なのに、何故かこいつらは学校でまで仲が良い。まぁ、寝食ともにするってのはそういう狙いもあるんだろうけど。…どうもまだ、その輪に入っていくのには躊躇いがある、というのが正直なところだ。
「サンキュ、また今度行くよ」
 俺はそう言ってその場を去ろうとする。それに、じゃあね、と頷いて歩きかけた藤代が不意にくるっと振り返って俺に言った。
「…って忘れてた。そうそう、6限の現代文の教科書貸してくれない?」
 ニカッと明るく頼まれちゃ断りようがない。それは藤代らしい頼み方で、俺は苦笑しながらも頷く。
「仕方ないな、後で取りに来いよ」
「助かる!また後でね」
 そう言って予鈴のチャイムと共に藤代は去っていった。その軽やかな後姿にふっと口の端が上がるのを自覚しながら、俺も化学室へと急いだ。



 普段の就寝前の自由時間なら、その名の通り各々が自由に、というよりかなり気ままにしているこの寮でも、テスト期間中は皆、静かに勉学に勤しんでいる。それは俺も勿論のことで。
 どういう訳だか、最後の答えが合わない。使う公式はこれであってる筈なんだけどな、そう内心呟きながら目の前のノートを睨み付ける。でも、判らないものは仕方ない。
「笠井、悪いんだけど数学で訊きたいことが…」
 隣の机でヘッドフォンを付けながら――多分、いつものピアノソナタだろう――問題集と格闘している笠井の肩を叩いて呼んだ。それに、振り返りヘッドフォンを首にかけるように外すと笠井は答えた。
「ごめん。俺、今、余裕ない。逆に教えて欲しいくらいだよ」
 そう言われて見れば、笠井のノートもさっきからあまり進んでいない。
「そっか。悪い、邪魔して」
 俺はそう詫びて、自分の机に戻ろうとする。すると、その俺の背に笠井からこう声がかかる。
「あー、数学なら三上先輩に頼んだらどうかな」
「三上に?」
 つい癖で呼び捨てにしてしまったのを笠井は聞き流してくれて、俺にこう返す。
「あの人、常に学年上位だよ。特に理系に強いみたいだし、ノートも揃ってるって噂」
 細く長い指で器用にくるくると鉛筆を回しながらそう言う笠井。
「そうなんだ」
「多分、今の時間くらいなら情報室でネットやってると思うけど。余裕だよね、テスト前だからってあまり生活変えないみたいでさ」
 それは皮肉ではなく、いたく感心した様子の声で、笠井はそう教えてくれた。
「ふーん。試しに訊いてみるよ。ありがとう」
 そう礼を言うと、俺はノートと問題集を抱えて部屋を出て情報室へ向かった。

 ずらりと並べられた最新型のパソコンの、ファンの音すらしない情報室。目的の人物どころか誰も居ない部屋は、直射日光をさける為のブラインドで酷く暗い。パチリと電気をつけ、せっかく来たのだから気分転換に少しだけネットで海外サッカーの情報を見ようと思って、パソコンを起動させる。…が、どうも調子の悪いパソコンを選んでしまったようだ。フリーズしてしまったところで、後ろから声を掛けられる。
「なーにやってんだよ、坊ちゃん。こんなとこでさ」
と、言いながらも三上は俺を軽く押しのけてキーボードに触れると強制終了させた。
「だから、その坊ちゃんってのはやめろ。…お前探してたんだよ」
 俺はそう言って席を立って、譲った。それに三上は遠慮なく座ると
「俺に?何の用だよ」
 椅子の背もたれをギーッと音を立たせて踏ん反り返って足を組みながらそう言った。
「ははーん、数学か物理か」
 それが面白がるような声だったので俺はムッとして、
「悪いか」
と、言い返す。それに三上は椅子を右へ左へと少し回転させながらこう続けた。
「坊ちゃんの頼みとあらば、お教えしますが」
 カチンと来てしまった。揶揄なら慣れてたつもりだったのに、こうもはっきりと、しかもコイツとなると、冷静を装えなくなる。…何故だかはよく判らないけれど。
「もう良い。お前には頼まねぇよ」
 そう言い捨てて情報室を出ようとする俺を、
「待てよ」
と、三上は決して大きくはないが、はっきりと通る声で呼び止めた。それに自然と止まった俺の足。
「冗談だっての。俺の部屋来いよ」
「え?」
 俺が思わず振り返ると、三上は一瞬ハッとさせられてしまうような真顔をしていて、
「ノート、要るんだろ」
 そう素っ気なくもきっぱりと言い切られて、俺はつい素直に頷いてしまう。



 三上の後をついて、いつもより1階多く階段を上がり廊下を歩いて行く。突き当たりの少し手前のドアをあける三上。
「まぁ入れよ」
 その言葉に従って、部屋に入る。
「お邪魔します」
 同室の近藤先輩はやはり誰かのところで勉強会でもやっているのだろう、部屋を空けていた。…しかし、まったく同じ作りの部屋なのに、住む人間でやっぱ変わるもんだなぁと、三上がノートを探しているのを待ちながら、くるりと眺めてぼんやりと思う。片方はシンプルなカレンダー、片方はポスター――多分ワールドサッカーダイジェストの付録――がペタペタと。まぁ、どっちがどっちか想像はつくけど。
 ふと視線を戻せば、どうやら机の方の棚にはなかったらしく、三上は本棚代わりらしい黒いカラーボックスの方へと手を伸ばしていた。
「えーっと、1年の時のはっと…」
 そう言いながら、三上は本棚に並べられたノートの背の上を指で引いた。取り出されたそのノートをパラパラとめくって確認すると、ポンと俺に寄越した。それを手にして開いた時、俺は思わず驚きの声を上げてしまった。
「凄く細かいな」
 要点が整理されところどころに付箋の貼ってあるそのノート。重要なところにはアンダーライン。そして、意外にも綺麗で繊細な筆跡に、三上が実は細やかな性格の持ち主ではないかと俺はつい関心を抱いてしまう。
 そんな俺の驚いた表情を違う意味に取ったのか、三上は片方の眉を上げて言った。
「悪いか」
「いいえ。判りやすくて助かります、センパイ。じゃあ、ありがとうございました」
 俺がそう礼を言ってそのノートを脇に抱えて軽く頭を下げて、部屋を出ようとした時。
「ここでやってけば良いじゃん。近藤もしばらく帰って来なさそうだし」
 三上はそう言った。
「え?」
「訊きたいことあるんだろ」
 一瞬ドキッとしたが、数学のことだと思いなおす。しかし、まさか、そこまで言ってくれるとも思ってなかったので、俺の返事をする声は戸惑ったものになってしまう。
「あ、ああ…」
「変なヤツ。じゃ、そこら辺に適当に座ってくれ」
 苦笑しながらも、三上は俺が座るところを作ってくれて、俺はそこに座り、テキストとノートを開く。早速、あの訊きたかった問題を指した。
「三上、これなんだけどさ」
「ああこれな…似てるからややこしいけど、これはこっちの応用。これを移項するとほら」
「そうなんだ」
「まぁ、元々ひっかけ問題だから。多分皆引っかかるんじゃね?」
 スラスラと動く三上の手のシャーペン。しかも全部解いてしまうのではなく、最低限のところで止めてくれるので、ちゃんと勉強になった。

 本当に、意外にも三上の教え方は上手く感心してしまった。本当は真面目な性格なんだろうか、茶化すこともなくプロのように――家庭教師ってどんなものか知らないけど――熱心に教えてくれた。
 そろそろ少し喉が渇いたなと思ったその時、絶妙のタイミングで
「何か飲むか?何かって言っても大したものないけど」
と、三上が言った。その言葉に甘えて、
「出来れば紅茶を」
 そう俺が答えれば三上はいつもみたくニッと笑って
「紅茶ね。そんな上品なモン俺は飲まねーから、あったかな…」
と、などと呟きながらもごそごそと棚の中を探してくれた。三上が飲まないということは恐らく近藤先輩のものだろう。あった、と黄色い箱を取り出して、ティーバックを取り出す。2つ並べられたマグカップの片方にそれを、もう片方にインスタントコーヒーを入れて、ポットのお湯を注ぐ。
「どうも」
と言いながら受け取って、そして、普通一緒に出てくるものの姿を探した。が、見つからず。
「あのさ、砂糖…」
 そう俺が三上を見れば、
「本当に坊ちゃんだな。ほらよ」
 苦笑とともにファーストフードのマークが付いたシュガースティックを放られる。それの封を切って入れてかき混ぜる。香りがあまりしないのが惜しいが、それでも口にすれば身体は温まって頭がすっきりする。
「まぁ、でも中途入学にしちゃしっかりついてきてるじゃん」
 俺のノートを覗き込みながら三上が言った。
「これでも一応中学でトップだったさ。まぁ、あと、親父に何言われるか判んないし」
「そりゃそうだ」
 ニヤッと笑う三上。
「お前こそ、こんなに勉強家だとは思わなかったよ」
 俺がそう言えば三上は苦笑して言った。
「そりゃ、俺だって特待生だからさ」
「え?」
 俺は驚いてしまった。だが、三上はそれに、コキッと肩を鳴らしながら答えた。
「じゃなきゃ、お金持ちでもない田舎の人間がこんなハイソな全寮制の学校に来れるわけないじゃん」
 むしろ、何を言うんだとばかりのその口調。
「特待って言ってもサッカーだろ?」
 俺はてっきりそうだと思っていたのだが。訊いてみれば、
「推薦した人間の手前もあるだろうが」
と、三上は苦笑しながらそう答えた。
「ふーん、そんなもんか」
 そう答えながら、義理堅いんだなと思っていると、三上は瞬間悪戯めいた表情を見せてこう言った。
「お前の親父絡みだよ」
「…え?」
 思いがけない言葉に一瞬耳を疑った。
「少年サッカーのコーチと監督が知り合いだった縁でな。ま、元々勉強も嫌いじゃないけど」
 それを聞いて、俺は苦笑した。 
「なんだ。俺と同じってわけか」
「まぁ、そういうことだな」
 三上も笑ってそう返す。しかし、そういうことだと、何だか俺の為に彼の時間を割くのは申し訳ないような気もしてきてしまって。
「悪いな、付き合せて」
 そう謝ると三上は怪訝な顔をした。そして、
「別に悪くねぇよ。つか、お前さ…」
と三上が言いかけたその時、コンコンとドアをノックする音がして、
「笠井ですけど」
 どーぞ、と三上が答えると笠井が入ってきた。
「失礼しますよ、三上先輩。水野、まだ終わらない?」
 頷く三上。俺も答える。
「ああ、あともう少しなんだ。悪い」
 そう俺が言うと、三上はふと気がついたらしく、
「ひょっとして近藤が困ってるのか?」
 そう笠井に訊いた。それに笠井は頷いて、
「遅くなりそうならうちの部屋で寝かせて貰う、って伝えるように言われたんですけど」
と言った。
「そうか悪いな。じゃあ、キリの良い所で終わるよ。近藤にもそう言っといて。ありがとな、笠井」
 三上がそう言えば笠井は、はい、と返事をして丁寧に頭を下げて、それから俺を見ると、頑張って、と言ってドアを閉めた。

 消灯5分前には何とか終えることが出来て。勉強道具を片付けている俺の横でシャーペンを弄んでいた三上が、ふと俺の名を呼んだ。
「水野」
「何?」
 俺は顔を上げ三上を見る。だが、三上は俺の顔を見ないまま、掌のシャーペンを眺めながら、
「お前さ、自分が思ってるほどとっつきにくいヤツじゃないぜ」
 そう言った。眉間に皺が寄っている、その表情は冗談の欠片もない、真顔。
「急に何だよ」
 俺が、照れ隠しもあってそう言い返せば、
「笠井も気にして来てくれたみたいじゃん」
 そう言い終わってから、ようやく三上は俺を見た。その顔に頷く。
「…ああ」
 恐らく、三上は気がついていたのだろう、俺がこの学校にまだ馴染んでいなくて浮いていることに。チームメイトとさえ、まだしっくりとはきていないことに。
 思わず唇を噛み締めてた俺に、不意に三上は優しい表情と声でこう言った。
「もうちょっと自分から近づいてみれば?坊ちゃん。」
 たしかに、今のままでは上水に風祭の来る前と変わらない。三上の言葉は本当にその通りだ。もう少し自分から声をかけたり、輪に入っていけば良いんだろう。
 でも、素直には頷けなくて困っていると、三上はまた俺から顔を背けると、いつもの口調でこう言った。
「まぁ、焦ることはないけどな。…ああ、そのノートは持ってけ。試験後に返してくれりゃ良いから」
「ありがとう」
 それはノートと、俺を思いやってくれたことへの感謝の気持ちから出た言葉だった。
 …ただ、俺も大概素直じゃないけど、アンタだって本当は酷く優しい癖にそれを隠してるじゃん、とも内心思ったけれど。
「どーいたしまして」
 三上はニッと笑いながら軽い口調でそう返すと、また自分のテキストに目を落とす。それに、
「おやすみ。お前も程々にしとけよ」
 俺がそう言ってやると、
「判ったよ。おやすみ、水野」
と言って、苦笑した三上の顔はどこかくすぐったげで、俺はそれに思わず魅入られ、名残惜しくも部屋を出た。しばらくすると近藤先輩とすれ違い、声をかけられる。…実はまだあまり親しくはない先輩だ。
「お疲れさん」
「すみません、遅くまでありがとうございました」
 俺はそう言って深々と頭を下げた。
「いいって、いいって。それより頑張れよ。俺も頑張ろう」
 ポンッと肩を叩いて笑顔で去っていった近藤先輩につられるように、俺も自然と笑みが浮かぶ。何だか清々しいような気分だった。



 …そうだな、明日は三上のアドバイス通り藤代たちと一緒にお昼をとってみようか。群れるのはあまり好きじゃないけど、たまには仲間とワイワイってのも良いかもしれない。 そう思いながら床につくも何故か妙に三上が気になって寝付けない、消灯後。
 隣の笠井を起こさぬよう、こっそりベッドを抜け出して、机の上のノートを開いてカーテン越しの月明かりの下、パラパラとめくって見た。

 ――そこには秘められた繊細な心も一緒に書き留められていて、
 俺は今、それを知りたくなり始めてる。



(FIN)
2007.01.22UP