スコットランドでの活躍からスペインに渡って1年。さすがにリーガの壁は高く大して活躍することが出来なかった俺は初めての挫折らしい挫折を味わい、失意を覚えながらも古巣マリノスに復帰することになった。
 マスコミが大勢出迎えた成田で俺は無言を貫き、クラブから来ていた迎えの車に乗ってそのまま横浜へと向かう。クラブハウスでの話を終え、チームメイトと久しぶりの再会の挨拶をし、そしてそれからまだ部屋は借りていなかったのでしばらく逗留するみなとみらいのホテルへと向かった。腕時計を見れば成田に着くなり連絡した待ち合わせの時間は既に過ぎている。
 そのホテルのラウンジで、三上はのんびりとした様子で本を読みながらコーヒーを飲んでいた。俺はその席に後ろから近づく。その気配に振り返る三上。かけていた眼鏡をはずしてポケットにしまうと、
「おかえり」
と、三上はニッといつもの笑みを見せた。この前会ってからどれくらい経ったか。今すぐにでも駆け寄って触れたいと思うのに、それが出来なくてもどかしくて、とりあえず俺はああ、と言ってただ頷くことしか出来ない。そしてフロントでチェックインするとポーターは断って自分で荷物を持ったままエレベーターに乗り部屋に向かい、そのままその部屋に三上を招き入れる。ドアが閉まるなり俺は持っていた荷物を放り出した。
「三上」
 その名を呼んで、半ば縋り付くように抱きしめる俺に腕を回し抱き返してくれ、ポンポンと優しく叩いてくれる三上。腕の中で三上はこう言ってくれた。
「一人でよくやってたな」
 ……そう、スコットランドに居た時は調子も良く何の問題もなかった。ただそれがスペインに渡ってからは一転して、どうにも上手くいかず出番もほとんど無く、現地は勿論、日本のメディアにも散々に言われているのは知ってた。俺自身思ったようにプレイ出来ない事は悔しくてたまらないのに、その上あまりにも好き勝手言われて、まるで世間が、世界が敵にさえ思えてた程だ。当然ながら、こうやって戻って来たのだって本意ではないし、内心悔しくてたまらない。
 でも、その三上の言葉はそんな俺の胸を温かくしてくれた。メールや電話で励まして貰ったことは何度だってある。けどやっぱりこうやって会って伝わってくるものは違うし、何より三上は、三上だけは、ただあるがままの俺を受け入れてくれてるのだ。
 そして自分がこうなった今、俺はようやくあの時三上が大宮から水戸を選んだこと、その後チームのスタッフではなく武蔵森のコーチになることを選んだその心境が理解出来た。きっと三上はもっと前から挫折の苦しみも、そこから這い上がることも、そして自分の道を選ぶこともしてきたのだ。それに比べたら俺は何も変わっちゃいない。それこそ、あのトレセンの時、風祭やシゲにその本当の実力を見せつけられてショックを受けたあの時以来の挫折だなんて、本当に随分と甘ったれたままで、よくもここまで来てしまったもんだと我ながら思う。そんな俺が水戸に行くのを止めたり、武蔵森のコーチになることを憤ったりする資格などなかった筈だ。
 でも、三上はそんな俺でも、そのまま受け入れてくれて、送り出してくれて、そして今もこうやって受け止めてくれる。
「ただいま」
 抱きしめる腕に力を込めて俺はようやくそう言った。三上が俺を居場所だと言ってくれたように、俺にとっても三上が俺の居場所なのだ。それに、
「おかえり」
と顔を上げ、優しく微笑んで返事をした三上。間違いなく俺は、今自分に回されているこの手を離さないだろう。もう二度と――。

 しかし、マスコミは戻ってきた俺に一々興味を示し、纏わり付く。いい加減鬱陶しいと思っていたそのタイミングで、先輩からの紹介でどうしても断れなかった食事。女子アナだと言う彼女は確かに綺麗で頭も切れるのか話はそれなりに合った。でも俺にとってはそれだけ。せいぜい友人にしかならないだろう。だって、俺にはもうどうやったって離れられない人間がいる。それでも先輩の顔を立てなければいけないし、失礼のないように振る舞って、一応礼儀として最後は家まで送っていった。しかし運悪くそれを写真週刊誌にすっぱ抜かれてしまった。
 その週のオフ、俺は三上の部屋を訪れていた。恐らくは職場からだろう既に話は伝わっていたらしい。どことなく様子の違う三上に俺は言う。
「ただ食事しただけだからな」
 その言葉はどうにも言い訳がましく聞こえるとは思ったが、事実なので他に言い様もなく、俺は唇を噛みしめる。そんな俺とは対照的に至って冷静な三上。
「別に良いと俺は思うけど。美人だし結構良い大学出てるし語学も堪能だっけ」
 授業の準備なのか教科書を見ながらレポート用紙を広げて書き付けている三上は、その手を止めず視線を上げすらせずにそう答えた。
「何だよ、それ」
 俺はそう訊いた。別に良いって、一体三上は何を言いたいんだ。そう考えている俺に三上は書き付けていた手を止めると顔を上げ、こう言った。
「だってお前にはそっちの方が似合ってる」
 笑顔でそう言われたことの意味が、その本心がよく判らない。
「……三上?」
 それは三上なりの嫉妬なのだろうか。それとも三上は本当に俺から離れようとしているのか。俺が失意をこらえて戻ってきたのも、それでも三上が待っていてくれると思えたからなのに。もう二度とその手を離したくないのに。
「きっと俺じゃ、お前に何もしてやれないんだ」
 俺から顔を背けレポート用紙を見つめながら独白するように言う三上に俺は近づいて言った。
「そんなことない!」
 その首に手を回して後ろから抱きついて俺は言葉を続ける。
「頼むからそんなこと言わないでくれ」
 それに身動ぎもしない三上。この腕の中の存在を手放すことなど俺にとっては考えられないのに。どれだけの間そうしていただろう、ようやく三上が自分に回されている腕に手を触れてから俺の名を呼んだ。
「水野」
 その声がいつもより細く聞こえて、俺は腕をほどくと三上の顔をこちらに向かせる。黒い瞳が揺らいで見えるのは気のせいだろうか。俺は強い声ではっきりと言った。
「俺にはお前が必要なんだ」
 そう言いながら俺は思う。今更一人にしないでくれ、と。一人じゃないと思えたから遠い異国で一人でもやれたし、きっとこれからだってやっていけるのに……。だから、
「けど――」
と、三上のその否定から始まる言葉の続きは聞きたくなくて、俺はその唇に自分の唇を重ねてふさいだ。

 追い打ちをかけられるとはこの事だろうか。数日後、珍しく親父から呼び出しを受けた俺は渋々ながらも実家へと戻る羽目になった。久しぶりにくぐった実家の玄関。そのまま書斎に呼ばれ、俺は目の前に何冊かの薄いアルバムを差し出された。開けば、どれも振り袖姿の女性の写真。所謂見合い写真かと気がついて俺は確認する。
「見合い?」
 そう俺が言えばふっと親父は溜息を吐いて答えた。
「色々あってな、断り切れなかった。とりあえず写真だけでも見てくれと言われてる」
 俺もいい加減いい年になった。親父が断り切れなかった事情は判らないでもないし、マスコミが騒いだのもあるから周りが世話を焼きたがるのも判る。だけど――。
「俺は結婚するつもりはないよ」
 はっきりと俺はそう答えた。そして苦笑して続ける。
「虎治と違って、親父と母さんが揉めてるの見ちゃってるからな。結婚イコール幸せって簡単には考えられない」
 今度はそれを聞いた親父が苦笑する番だった。そう、今言葉にしたこと、それも理由の一つではあった。だけど本当はもっと大きな理由がある。誰よりも側に居て欲しい人間とそれだけはどうやっても出来ないのだ。
「何も結婚だけが幸せじゃないって俺は思うけど」
 俺がそう続けるのに親父が溜息を吐いた。
「……本当は大切な人がいるんだろう」
 そう言ってこちらを覗うような視線を向ける親父。俺はまた苦笑して答える羽目になる。
「判っていてわざわざ言わせる気?らしくないな」
 海外のチームに所属している間、オフに帰国しても俺は実家にはほとんど帰ったためしがなかった。あまりにも帰らず、かと言って部屋を借りたりホテルにいる様子のない俺を心配した母さんに居場所を訊かれた時、俺は三上の家に転がり込んでることを正直に伝えていた。だから、親父も多分判っていただろうし、本当はもっと前から気がついていたような気がする。
「結局、私にはどうしてやることも出来なかった。お前なら幸せに出来るのか?」
 そう言う親父の声は珍しく遠慮がちで、どこか遠い目をしている。親父にも色々思うところはある筈だろうから、それはそうだろう。そんな親父の目をまっすぐと見て、俺ははっきりとした口調で返事をする。
「幸せかどうかは相手が感じることだと思う。ただ俺は一緒に居るのが幸せだから。勿論相手もそうであって欲しいとは思うけど」
 そう言って改めて俺は思う。
 ――そう、俺が三上に望むのはそれだけ。本当にたったそれだけなんだ。
 そして、目の前に居る親父にその話をしようと思ったのは、親父の遠慮がちな声がどこか悔やんでいるようにも聞こえたからだろう。意を決して、俺はそれを伝えることにする。その名前もだして。
「親父が三上に何も出来なかったとは思わないよ、俺は。だって、三上は親父から貰ったネクタイピン、ずっと付けてるだろ?俺は外せって言ったことあるけど、三上から過去も思い出も消すことは出来ない、大切な自分の一部分だから付けているって言われた」
 ……あれは武蔵森のコーチになることを知った日のことだったか。気がついてしまったそのネクタイピンの裏の親父の名前。問い詰めた俺に貰ったのだと三上は答え、憤る俺に心底困った顔で
「俺の過去、全部欲しいの?」
と、三上は言った。そして、過去があるから今があるのだと言った三上はまっすぐと今と未来しか見ていなかった。だから俺はそれを受け入れることにしたのだ。そう思い切るのにはほんの少し時間はかかったけれど――。
 俺が告げたことに親父は何度目かの溜息を吐いて、両肘をデスクに突いて手を組むと、こう訊いてきた。
「聞いたのか?すべて」
 その言葉はいつになく重く響いた。改めてそう言われてしまえば、やっぱり二人の間には深い、俺が立ち入れない何かがあったのだと嫌でも思い知らされる。だけど、今の俺には関係のない話だ。恐らく今の三上にとっても、本人の言葉を信じ抜くのならもう過去の思い出でしかない筈だから。そう考えながら、親父の問いに俺は答える。
「全部は知らない。別に知らなくったって良い。本人が話したいと言うのなら別だけど。知らなくったって俺は今の三上が好きだし、今の三上しかいらない」
 そう、今ならばすべてを打ち明けられても、気持ちは揺るがないという自信があった。過去は過去なのだ。親父が良く知る三上は、俺の側に居てくれて俺を支えてくれる三上とは違う三上だ。だから俺は明るい声で言った。
「貴方の愛した三上と俺の愛してる三上は同じであって同じじゃない。そう思いますよ、お父さん」
 俺はそう言いきってから親父に微笑んだ。本当に何年ぶりだろう。お父さんと呼んだのも、親父に向かって心から微笑んだのも。あえて親父の返事は待たず、俺は部屋を後にする。
 子供の頃はあまりにも色々と押しつけられて反発もした。いっそ、いなくなってしまえば良いのにとさえ思った幼すぎた自分。でも、あれも不器用な親父なりに俺を思ってのことだと大人になった今ならば思える。ただそう思えば、もう普通の親孝行、孫を見せたりすることは出来ないことが、ほんの少しだけ申し訳ない気もしたが、それはもう虎治に任せることにしよう。こんな俺でもせめて出来るのはそれでも幸せだと言い切れる人生を送ることかと、俺は思った。



 ・・・・・



 竜也が部屋を後にする間際に口にした言葉に我知らず、
「そうだろうな」
と、返すように私は一人呟いていた。そして、ふと思い出してデスクの引き出しを開けて二枚の写真を手にする。
 一枚はもう何年も昔の、選手権の時に撮られた写真。背番号10のユニフォーム姿の三上がゴールに喜んで笑っている。選手としてどこまでも私の命ずるままに動き、一時は竜也に10番を譲ってもそれはまったく揺るがず、私の作るチームの中で欠かせない存在だった。それ以外でもあの頃の三上はひたすら従順で、ひたむきな愛情を私に捧げてくれた。
 そして、もう一枚はごく最近に撮られたサッカー部全員の集合写真。片腕として常に傍らに寄り添い支えてくれる三上。高校まであれほど従順だった三上は、今はもう一人のコーチとして、選手とチームのことを一番に考え、その為であれば私に対してでも厳しくはっきりと意見するようにさえなった。その聡さと冷静さは、欠かせないものとなっている。竜也の言う通りだ。
 ――確かに同じであって、同じではない。
「本当に大きく育ったな」
 ……竜也も、三上も。二人とももう大人だ。とっくに、私が居なくとも平気で、二人とも自分の道を進んでいる。むしろ二人を完全には手放せないでいるのは自分の方なのかもしれない。
「幸せならばそれで良いんだ、二人とも」
 それを喜ばしくも、やはりどこか寂しいと思ってしまうのが親心とかつて愛した者への気持ちだろうかと、二枚の写真を仕舞いながら私は考える。パタンと引き出しが閉まる音が書斎に響いた。



 ・・・・・



 思いついた方法はそれしかなくて、俺は親友に久しぶりにメールではなく電話をかけることにする。回線はすぐに繋がった。
「なんや、珍しいなタツボン」
 電話に出たシゲは驚いたような声でそう言った。確かにメールでのやりとりはわりと頻繁にあったが、電話は待ち合わせの時くらいにしかかけていなかった。
「悪い、シゲ。頼みがあるんだけど、完全オフレコで」
 その俺の言葉に恐らくシゲがニヤニヤしているのであろうことは電話の回線越しでも容易に想像がついた。そしてシゲはその通りの声でこう言った。
「それは場合によっちゃ高うつくで、タツボン」
 恐らく騒がれた女子アナのことを言いたいんだろう。だが俺はそれに冷静な声で答える。
「普通の相手だったら騒がれた程度で俺がこそこそすると思う?」
 実際その通りだったら俺は多分なるべく人の居ない時間を選んで百貨店なりティファニーなりに行っているだろう。それこそセオリー通りと言ってしまえばその通りなんだが。
 そんな俺の言葉にしばらくシゲが真面目に考えているのか間があった。
「……つまり、普通と違うなんぎな相手選んでしもうたんやな、自分は。まぁ、大体の見当はついとるけど」
 そう言われて俺は三上との関係を打ち明けた覚えは無いんだがと思ってみたが、シゲがアウェイでこちらに来た時、俺は改めて三上を紹介して一緒に食事をしたことがあったのを思い出す。もっとも昔一度中学時代に対戦しているのもある。それこそシゲなんか派手で目立つし、三上も武蔵森の中で目立った存在だったから一応顔はお互い覚えてはいたみたいだが。そして、その時シゲには普通に高等部で親しくして貰っていた先輩と言ったが、よくよく考えてみたら俺が他人をシゲに紹介したのは後にも先にもそれだけ。その辺りのカンの良いシゲならば察しがついてもおかしくはない。
「仕方ないだろ。こればっかは自分の気持ちに嘘はつけないし、ついてもどうにもならない」
 そう俺が言うのに、しばらく間がありそれを訝しく思った時にはシゲが笑い出す声が聞こえた。そして、シゲは言った。
「なんや、えらい素直になったもんやな。よっしゃ、その素直さに免じてなんとかしたるわ。そっちにも店あって繋がりある百貨店言うたら大丸か高島屋になると思うわ。それでもええんやったら、また連絡するわ」
 それならば何とかなりそうだ。俺はシゲに礼を言う。
「助かる」
「構へんよ、珍しいタツボンの頼みやから。また今度会うた時にでもおごってくれればええわ」
 いかにもシゲらしい返事だった。その時は三上を連れて行こうか、などと考えながら、
「そうだな、そうさせて貰うよ。ありがとう。じゃあ、また」
と俺はそう言って笑って返事をし、電話を切る。それからすぐにシゲは動いてくれたのか、先方から電話があったのは翌日のことだった。



 ・・・・・



 差し出された名刺の一番上に書かれている有名デパート名とその部署名に俺は驚く。
「外商部?」
 俺が思わずそう言うと水野が答えた。
「シゲに手を回して貰ったんだよ。マスコミに嗅ぎつけられたらマズイから」
 藤村はJリーガー時代に水野に紹介して貰ったが、確かに、デパートと取引のある藤村屋の跡取りならば外商部を紹介することくらいわけないだろう。だけど、これは一体何なんだ。
「左手出して」
 水野がそう言うままに差し出した左手の薬指に、ずらっと並んだシンプルなサイズ確認用のものと思われる指輪を持った外商部員が、その中から一つ選んではめてから訊いた。
「きつくないですか?」
 指の付け根ではいっそ回ってしまいそうなほどなのだが、それを取ろうとすると関節に引っかかってしまい、
「取るのが難しいですね」
と答えながら、俺はしばらく格闘して何とかその指輪を外す。そんな俺を見て、外商部員はもう一つ上のサイズを差し出した。それをはめてみる。少し回ってしまうのは仕方ないが、はめたり取ったりするのには問題がなかった。
「じゃあ、このサイズで」
「はい。出来上がりは3週間程度かかりますが」
 その日にちを聞いた水野はそのままメモも取らず覚えたようだ。では、これで、と部屋を後にする外商部員を見送った後、キッチンで俺はコーヒーと紅茶を淹れる。そしてリビングに戻ると紅茶の入ったカップを水野に差し出しながら訊いた。
「なぁ、俺、指輪つける趣味ないんだけど。どういうつもりだよ」
 隣に座りコーヒーを飲む俺に水野は笑ってこう言った。
「判ってる。出来たら全部話す」
 いや、本当は俺も判ってるんだ。今のが何だったのか、水野が何をしたいのかくらい判る。きっと水野は形にしたいのだ。でも良いのだろうか?それで、俺で、本当に良いのだろうか。水野が示そうとしてくれているものは幸せな筈なのに、何故か俺は不安でたまらなくなる。

 外商部員が出来上がると言っていた日の深夜、水野は横浜から車を飛ばして来ていた。
 差し出された白いシンプルな箱に入っていたのはV字のデザインのプラチナの指輪が二つ並んでいる。
「苦しい思いもさせるかもしれない。だけど、ずっと俺の側に居て欲しいんだ。ずっと、いつまでも」
 それを差し出しながら水野はいつになく真剣な声でそう言い頭を下げる。でもそれは同時に切実な響きを持っていて、いつか初めに俺を必要と言ったあの日を思い出す。
「水野」
 俺は目の前の水野を見つめ、それから指輪を見る。
「答えをくれないか?三上」
 答えるのは俺の方なのか。俺は戸惑いを隠せず、水野に訊き返した。
「……俺で良いのか?」
 マリノスに復帰した海外でも活躍した代表選手が、マスコミに騒がれた美人女子アナよりも俺を選ぶ。世間からは決して認められることのない、絶対に隠し通さなければいけない関係――それこそ昔、監督との関係を隠し通さなければいけなかった頃よりも厳しい状況だろう――。そして何より、一介の高校の非常勤教師兼コーチでしかない俺に水野を幸せにすることが出来るのだろうか。確かに水野は俺を必要としてくれる。だけど、それで良いんだろうか。俺は不安だった。だが、そんな俺の不安など一掃するような口調で、
「俺が訊いてるのに。こんな俺でも良いかって」
 水野は不服そうにそう言った。俺はそれにようやくちゃんと返事をする。
「良いに決まってる。じゃなきゃ、今までだってずっと一緒になんて居ないぜ、俺は」
 今更そう強がって笑ってみようとして完全に失敗した。気づけば歪んでる視界。自分の声が少しくぐもって聞こえた。
「ありがとう、三上」
 その言葉と共に俺を抱きしめる水野。その腕に俺は身を委ねてから強く抱き返し、その名を呼ぶ。
「水野」
 その声に水野は微笑んだまま身体を離し、指輪を持つと裏を見せた。そこにはそれぞれの名前とイニシャルが刻まれている。先に自分の名前が刻まれている方を持った水野はそれを俺の左の薬指にはめた。
 俺はその手を天井に向かってかざす。蛍光灯の光を反射してキラリと輝くそれ。
「でもさ、さすがに付けてるわけにはいかないぜ、お互いに」
 俺がふと思ってそう言えば水野は笑った。
「判ってるって。だからほら」
 そう言って水野は何やらもう一つの箱を差し出す。そこには指輪と同じ色で光るチェーンが2つあった。その一つを貰って、はめたばかりの指輪を俺はそのチェーンに通す。そしてそれを首にかける。水野も同じようにして、そしてもう一度俺を抱きしめるとこう言った。
「俺は多分もう何処にも行かない。だからずっと一緒に居てくれ。それだけで良いんだ」
 その腕の中で俺は微笑んで答える。
「ずっと側に居る」
 ……本当はこの世に永遠なんてないのを知っている。けれど、俺は最後まで水野の側にいるだろうと思った。それが水野の望みであり、自分自身の望みである限り。



 1月の終わり。暖房の効いた教室から出て一段と冷えた廊下を歩いていると向こうから監督が歩いて来るのが見えた。会釈をしてすれ違う。それは何度も繰り返されてもう日常の一部になっている。だが今日は違って、すれ違ったその時、急に名を呼ばれた。
「三上」
 先生もコーチも付けない、その呼び方は一体何年ぶりになるのだろう。不意に懐かしさが胸に込み上げるが、それでも振り向かずに俺はその場に立ち止まる。監督も半歩後ろで立ち止まっているのが気配で判る。お互い振り向かないままで、監督が俺に訊いた。
「お前は今、幸せなのか?」
 その問いに俺は静かに、でもはっきりと答えた。
「はい」
 そう答えながら俺はそっと目を閉じる。この人と一緒に居た時はあれだけ悩み苦しみ傷ついたこともあったのに、不思議なほど思い浮かぶのは楽しい出来事だけ。それは今のここでの日常と水野と居る日々が充実しているからだろう。
「ならば良いんだ。――中等部のことは任せた、三上監督」
 その言葉に俺は閉じていた目を見開いた。……今、何と言った。確かに、教師としての定年が近づいている監督は、定年後も監督は続けるがこれからは総監督としての役目を中心にして、実際に指揮を執るのは高等部だけに専念すると既に発表されていた。しかし、その空席になった中等部の監督はまだ指名されていなかった筈だ。
 そんな俺の戸惑いなど構わず監督は続けた。
「他のコーチからは既に了承されている。コーチ陣の中では若い方だが、ライセンスも持っているし、若いからこそいずれ去る私の後継者として早くから実戦で経験を積ませたいと言ったら皆納得したし、全員でお前を支えると言っていた」
 そう言った監督が振り向く気配を感じる。だが俺はそのままそこから動けずにいる。そんな俺の背に向かって監督は続ける。
「それからこれは個人的なことだが、竜也のことも頼む。あれにはお前が必要なようだ」
 俺はそのまま振り向かずに答えた。
「俺にも彼が必要ですから」
 それを監督に言うのは不思議な感じだった。かつて愛した人の息子を今俺は愛している。そう、愛しているのだ。ひょっとしたらこの人を愛した以上に。
「お前に何もしてやれなかった私が言うのもなんだが、幸せになってくれ」
 監督はそう言った。その声に込められた思いが届いて、俺はそこでようやく振り向く。そして監督と向き合った。目と目が合う。俺をどこか懐かしげに見るその視線。俺はゆっくりと首を横に振ってから答える。
「いいえ、貴方は俺を幸せにしてくれましたよ。貴方に出会わなければ今の俺はありませんから」
 心からの笑顔で俺はそう言った。出会わなければ今はなかった。それは間違いのないのだ。そんな俺の言葉を聞いた監督はふっと微笑んだ。そしてそれから、表情をいつもの厳しいものに戻すと、
「正式な発表は午後のミーティングでする。よろしく頼む」
と言った。それに俺も表情を改め返事をする。
「はい、ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします、桐原監督」
 そう言って深く一礼した俺に監督は頷くと去って行った。そして、俺はふとあることに気がつく。

 ……初めて出会ったあの日、まだ幼かった俺はまったく同じ言葉を口にした。とうの昔に忘れていたのにそれを今、はっきりと思い出した。

 俺は視線を落とし監督から貰ったネクタイピンを眺め、それからそのネクタイを緩めてYシャツのボタンを一つ外して、首から隠すように下げている水野から貰った指輪を見つめ、それからそっと握りしめた。
 そして思うのだ。本当に、どこまでも俺の運命は不思議過ぎると。
「この俺が、監督か」 
 口にしてみても、まだ実感が涌かない。
 こんな未来が待っていたなんて、最初にここに来た時、中等部に入学した時には想像したことすらなかった。でも、悪くない。
 帰って水野に話したら、どんな顔をするだろうか。それを思い浮かべて俺はふっと笑う。窓ガラスに映ったその自分の顔は幸福以外の何物でもない。



 あの日差し出された貴方の手を取った、あの時から俺の人生が変わった。
 ――だから、今の俺がある。
 そして、俺はこの限りある人生を、この運命を最後まで生き抜いてみせる。






フィナーレ
〜期限付きのシンデレラボーイ Final〜
2011.10.10 UP