忘れられない恋、忘れられない愛はきっと存在する。
 たとえ決して結ばれることはなくとも、たとえもう触れ合うことはなくとも。










冷静と情熱のあいだ










 いつも通りの講義後の練習を終えて、俺は親しい先輩と久しぶりに外へ食事に行った後、相談したいこともあってそのまま階上の先輩の部屋を訪ねていた。実は1週間後の週末に桐原監督の本の出版パーティー――このJリーグ開幕以来再びのサッカーブームに代表選手を出している名門校の指導者として監督に執筆依頼があったらしい――があり、それにかつての教え子の一人として招かれていた俺は何を着ていくべきか迷っていた。部屋に入るなり出して貰ったコーヒーを飲みながら、俺は向かいに座ってテキストを読んでいる先輩に尋ねる。
「正装って、制服じゃないですよね?さすがに」
 大学の体育会系の部には制服が支給されていて、試合の移動時等にはそれを着ることになっている。こういう時の服装のマナーをネットで検索すると学生は制服と出てきた。とはいえ、さすがにそれは高校までの筈だろう。俺は一応、入学式の時にスーツを作って貰っていたが、あいにくそれ一着しか持っておらず、良いのか悪いのかこれまで冠婚葬祭に出席したこともないので礼服などまだ用意もしていなかった。そんな俺の問いに先輩は軽く笑って答える。
「逆に目立つよ?……普通にスーツで良いと思うけど。結婚式みたいな礼服までいかなくて大丈夫でしょ、大学生だし。まぁ、どうしても礼服って言うなら持ってるから貸すよ。三上って確か俺とサイズそんな変わらないよな?」
 読んでいたテキストから目を上げて、コーヒーを一口飲んだ先輩はのんびりとそう言ってから立ち上がり、クローゼットの扉を開けると礼服を見せてくれた。それに俺も立ち上がって見る。そして、二人並んでみれば確かに体格はほぼ変わらない。
「ああ、でもその前に一緒に行く人達に聞いてみたら良いじゃん」
 先輩は俺にそう言った。それに俺はうーん、と唸って答える。
「まぁ、確かにそうなんですけどねぇ」
 ――本当なら水野に相談すれば良いのだろうが、今回の話で同じく招かれている、どころか実の息子にしてオリンピック代表として色々パフォーマンスを求められている水野は少々ご機嫌斜めだ。まぁ、無理もない話ではある。ただ、それでも大昔のように完全な拒否反応を示さなくなっただけでも少しはマシになったかと俺は思う。
 ……仕方無い。招かれてるだろう同級生の中でも同じ大学進学組に訊くか、と考えて、
「友人に訊いてみます。ただ、それでも礼服だったらお願いします」
と俺が言えば、先輩は微笑んで答えた。ただし、一言だけ付け加えて。
「了解。で、代わりに代返頼んで良いかな」
 それに俺はさすがに呆れながら返す。
「……あの、そんなんで卒業出来るんですか?」
「そこは4年生マジックで何とかなるでしょ」
 比較的真面目なこの人には珍しくヘラッと笑う先輩に俺は溜息を吐きながらも、
「良いですけどね」
 そう笑って答えた。



 迎えた出版パーティの会場は監督が選手時代を過ごした地である横浜のランドマークタワー内のホテルで、大手出版社の主催というのもあってかなり華やかなものだった。パーティが始まり、色々な人物の挨拶があった後、やがて監督のスピーチが始まる。
 久しぶりに見るその姿。きっちりとした礼服姿に、正直に言えば懐かしさと何とも言えない感情が浮かんだ。だけど、監督の立つ演壇から俺の席は随分と離れていて、数多い教え子の中でもまだ若い方だからそれは当然と言えば当然なのだが、もう近くない存在になったのだと改めて思い知らされたような気にもなった。そして、紹介の中、本来ならあの綺麗な奥さんも出席する筈だったのだが、まだ下の子から手を離せないからと欠席されたというのを聞いた。水野から弟の存在は既に聞いていたし、水野自身も可愛がってるのは話を聞くだけでも判る。再婚話で武蔵森の寮からマリノスの寮に移りながらも、父親である監督との関係がなんだかんだ言って少しマシになったのも、弟可愛さがあるんじゃないだあろうかと、俺は思っていた。

 いつかパーティは歓談に移り、ビュッフェ形式の食事とアルコールなどが用意されていた。その合間に、無理矢理作った笑顔で監督との記念撮影をさせられた水野はそれが済むと本当に、もういいだろう、と言わんばかりでありもしない多忙を口実にして、
「じゃあな」
と、俺にだけ言って途中で帰って行った。苦笑してその背中を見送っていると、声をかけられる。
「やっぱりか」
 振り返ると同じく苦笑を浮かべた渋沢が立っていた。
「……俺は一応言ったぜ?ちゃんと」
 そう俺は答えた。渋沢には高校時代に監督との関係がバレてしまったのもあって一応その後の報告もしてあったが、さすがに水野とのことを話した時には絶句された上、しばらく考え込まれてしまった。それこそ無理もない話だとは思う。ただ、何事にもほとんど動じない渋沢をそこまで動揺させられたと考えると、今となってはちょっと面白かったとさえ思えてしまう。
「お前が言ったから来るには来たんだろう。まぁ、少しは大人になったか」
 微笑んで言うそんな渋沢の言葉に、どうだかなぁ、と言って俺が苦笑していると後ろから明るい声がかかる。それこそ振り返らずとも判る後輩の声。
「渋沢センパイ、三上センパイ」
「なんでいんの?藤代」
 俺がわざとそう言ってやれば口をとがらせる藤代。その手の皿には既にたんまりと食事が盛ってあって相変わらずちゃっかりしてら、と内心で思った。
「俺が呼ばれないワケないでしょ、三上先輩。……あれ?水野帰っちゃったの?」
 キョロキョロとその姿を探している藤代に、俺はまた苦笑して答える羽目になる。
「帰ったよ。いくら昔より関係改善したとはいえ監督がいる、つかパパが主役の場に長居すると思うか?」
 それになんだー、と残念そうに藤代は言う。
「ちぇー、俺、全然話してないのに」
「試合の時にでもすれば?」
 俺がそう答えれば、藤代はうーんと唸って答えた。
「そっちの方が難しいと思うスけどね。当たる時って結構ピリピリしてて、水野。終わった後も自分達が負ければ機嫌悪いし、勝っても納得いかなきゃブツブツ自分に文句言ってるんスよ」
 それを聞いて俺は笑いながらふと、前節当たったばっかだなと思い出して言う。
「ああ、そうか。だから今日、口きいて貰えなかったんじゃねぇの?」
 ニヤニヤと笑って俺がそう言えば、ええー、と藤代は叫んだ。
「それ結構ショックかも」
 割と本気で藤代が悩んだ顔してそう言うのがどうにもおかしくて俺は笑っていたが、ふと藤代の持ってる皿が気になって訊いてみる。
「ところでメシ美味いのか?」
 それに明るい顔に戻った藤代は答える。
「結構イケるッスよ。さすが豪華ホテルッスね」
 確かに藤代が持っている皿の上のものはどれも美味しそうだった。
「そうか。じゃ、俺も取ってくるわ」
 そう言って食事を取ってくれば、自然と知った顔に出会う。近藤や中西、笠井や間宮も来ていた。互いに懐かしいなぁと言いながら適当に席を移動して食事をしながら、中等部や高等部の頃の思い出話や近況報告などをしていた。が、頻繁に食事を取りに行ってる藤代の元々高いテンションが戻って来る度余計に高くなって来て、既に他の連中か先輩に相当飲まされているんじゃないだろうかと俺は少し不安になる。
「センパーイ、間違えてニンジン取っちゃったから代わりに食べてッス!」
 それに俺は容赦なく藤代の頭を叩いて言い返した。
「何で俺?意味判んねぇよ。つか自分で責任取って食え。じゃなきゃ笠井な」 
 俺がそう言えば向かいの席で突然振られた笠井がキョトンとした後、ジロリと俺を見て言い返す。
「は?いや、それこそ意味判らないですし。何で俺なんですか?三上先輩」
 昔と変わらず先輩に対してもわりと容赦のない笠井らしい返答だったが、さすがに同級生のよしみで藤代の面倒を見ることにしたのか、ひょいとニンジンを自分の皿に移すと食べていた。代わりにさりげなく鶏の皮を移していたのがこれまた笠井らしいが、俺は黙っていることにする。
 そして俺も何度か食事を取りに行き、普段はお金がないから豪華な食事や飲み会に誘われた時にしか飲まないアルコール類に手をし、ビールやカクテルを好きなだけ飲む。
 そうしているうちに、ふと同年代の俺達が集まってるこの場に渋沢がいないことに気がつく。……と、見ればどうもずっと先輩連中に捕まっているようでそちらで食事をしているようだった。
 そんな渋沢がそのうちこちらにやってきて、俺と藤代を呼ぶ。
「三上、藤代」
 渋沢の隣には1つ上の別の大学に進んだ先輩の姿があった。他の連中と違って俺や渋沢、藤代、間宮にとってはかつてのチームメイト、キャプテンでもあった先輩になり、会うのは本当に久しぶりで俺と藤代は挨拶する。そう言った面倒事が好きでない間宮はどうも上手いこと逃げたらしく近くに姿は見当たらず、俺は内心羨ましくなる。そうやって気がつけば今度は俺自身も渋沢と共に先輩やOBに挨拶をして回っていた。

 同級生や藤代や笠井など後輩と話すのは気が楽だが、やはりOBやら先輩と話すのはどうしても気が張って正直疲れる。ちょっと一息吐きたくてネクタイをほんの少しだけ緩めようとしたその時、
「こんばんは、三上君」
と、不意に声をかけられ俺はネクタイにかけていた手を止めて振り返った。そこに居たのは顔見知りのサッカー雑誌記者。先程まで司会を務めていた彼がこの本の編集者でもあるということは、さっきの紹介で知ったばかりだ。
「この前の記事、評判良かったんだ。協力してくれてありがとう」
 週刊サッカー雑誌で大学特集が組まれた時、親しい先輩とともに俺の記事が載った。もっとも先輩の方が注目選手ではあって、俺はオマケだったのだが。
「俺はただ訊かれるまま答えただけですよ。それよりもやっぱり先輩の存在の方が大きいですから」
 俺はそう言った。するとニコニコ笑って、こう答えられる。
「いやいや、これからは君の番だから。またそのうち取材に行かせてもらうよ。ささ、良かったら」
 そう言って彼は手にしているボトルから俺のグラスに日本酒を注ぐ。すすめられるまま、飲んだ酒。どうもこの雑誌記者は酒豪らしい。グラスが空くのを見逃さずにどんどん注いでくるのを俺はうまく断れず、完全にペースを乱される。既にビールやカクテルも飲んでしまっているからチャンポン状態だ。そして、俺はいつの間にか酷く酔っていることに気がつく。ただよくあるみたいに吐き気がしたり気持ちが悪いわけではない。むしろ気分は良い。だけど何だか酷く眠くて、どうにもフラフラして目が回った。
 ――天井が、世界が回る。いや、世界は最初から回ってるんだっけ。
 そんなことを考えたその時、
「三上」
 そう俺を呼んだのはあまりにも聞き慣れた声。素直になってしまえば酷く懐かしくてたまらないのに、それに返事も出来ず、ただあまりにもよく知っている腕が俺を受け止めたのを感じたその瞬間、俺の意識は飛んだ。



「……ここは」
 気がついた時、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ天井。グラグラとする頭に、目だけで周りを見るが、それだけでも判る馬鹿みたいに豪華な部屋。時計の針は終電には間に合うが、それでもアパートに帰るには遅過ぎる時間を指していた。その時、パタンとどこかでドアが閉まる音がする。その音の響き方でこの部屋が相当広いことが判った。
「気がついたか」
 それは気を失う前に耳にしたのと同じ懐かしい声。そして近づいてきてすぐ脇に立った姿も懐かしくて。ただ、気を失う前に見たのとは違って、上着を脱ぎネクタイも外して袖口を少し捲りながら濡れたタオルを手にした監督を見て、俺は自分の頭に乗せられている同じ物に気がつく。手をやればそれは既に温くなっていた。
「監督、俺どうして」
 俺がそう言えば、監督は俺の頭にあった濡れタオルを自分の持っていたものと交換しながらこう答えた。
「彼が詫びてたよ、飲ませすぎてしまったと。一応さっきドクターに診て貰ったが、急性アルコール中毒ではないそうだから、心配はいらない。ついでにこの部屋も経費で落とすそうだから、本当に何も心配はいらない」
 それは不幸中の幸いだったと言えるだろう。いや、自身の不注意だったとも言えるが。だが、それにしても――。
「でも、どうして監督が」
 そう、主役である筈の監督がこんな酔っ払いの面倒を見ることになったのだろう。俺はそう思って訊く。それに笑って答える監督。
「あの場に居た人間で、一番暇なのが私だったからだ。渋沢ももう戻ったよ」
 その言葉に、家に帰らずとも良いのか、と訊きたくなったが、多分あの綺麗で聡明そうな奥さんのことだろう。ほぼ一人暮らしに近い状態である俺に、むしろ付き添ってやれと言ってくれたんじゃないかと俺は考えた。
 そして、そんなことを考えながらも、まだどこか頭がクラクラして無性に喉が渇く。上半身を起こし、そのままベッドを降りて立ち上がろうと思ったのだが、目眩のような感覚に襲われて出来ず、せっかく起こしていた上半身ごと俺はベッドへと吸い込まれていく。それに気がついた監督が、手にしていたペットボトルの水を口に含むと、俺に口移しで与える。でもそれでは足りない渇き。もうペットボトルごと貰おうとしたが、監督はそうさせてくれず、何度か繰り返される口移し。気をつけていたつもりなのに、あっ、と声をあげてしまったら、口移しはそのまま口づけへと変わっていた。まるでそうすることが自然かのように、するりと差し入れられた舌を、いけないと判っていながらどうしても俺は拒めず、そのまま受け入れそっと目を閉じた。それはあまりにも懐かしい感触。それも最初の頃のような優しさで俺の内に触れて、俺は溶けていくような感覚を覚える。

 ――もう、こんなことをしてはいけない。二人とも別の人が側にいるじゃないか。
 冷静が、理性がそう囁いて何とか押しとどめようとする。その一方でどうしようもないほどの情熱が、感情が、想いを溢れさせ、いつしか濁流となって俺はそのままそれに飲み込まれる。でもきっとそこにあるのは過去への思い出。懐かしさだけ。

「監督」
 唇が離れ目を開いた俺がそう呼ぶと監督は苦笑して、俺に言った。
「お前の今の監督は違うだろう?三上」
 確かに、今「監督」は大学のサッカー部の方になる。
「でも、俺にとっては――」
 言いかけたのを再び軽く唇を重ねられて遮られる。そして、監督は微笑むと言った。
「あんなにずっと一緒に居たのに一度も名を呼ばれたことがなかったから、聞いてみたいだけだ」
 俺は少し考えて言う。
「桐原、さん?」
 そう俺が呼ぶと監督は苦笑して答えた。
「総一郎とは呼んでくれないか」
 そう呼ぶことも一瞬考えなかった訳じゃない、だけど。
「だって、さすがにそれはちょっと違う気がする」
 そう、多分それは違う人がそう呼んでるし、俺には重すぎる。
「……立てるか?」
 そう言って監督は俺に手を差し出す。その手を取りゆっくりと立ち上がる。支えられるようにして窓辺へと導かれる。
「うわ」
 高層階から見下ろす横浜の夜景。眩い程の光、その一粒一粒がキラキラ輝いて、まさに地上の星だ。こんなのは初めて見た。
「三上」
 耳元で囁くように名を呼ばれ、後ろから抱きすくめられる。窓ガラスに映る俺と監督。これは夢なんじゃないだろうか。そう思いながらも、痛いほど強く抱きしめられる感覚は現実のもの。だけど、やっぱりこれは夢なんだ。たった一夜限り、最後の最後に俺に与えられた、終わった過去を懐かしむ為だけの泡沫の夢。

 先程とは打って変わって激しい口づけに蹂躙され、何もかも奪い取られるような感覚にいつか激しく息があがって、俺は支えられていなければ立っていることすら出来なくなる。気がつけば俺はベッドに押し倒されていた。上等なベッドのスプリングはそんな俺を受け止めても軋むことはなく、ただフワフワと浮かんだ様な気分になる。いや、フワフワとした気分になるのはきっとそれだけじゃないんだろう。器用にボタンを外されて、脱がされていく服。そうしている間もあちこちに落とされる唇に翻弄されて、零れる嬌声は止まらず広い部屋へと響く。知らず俺はどこが良いのか口にしていた。
「少し変わったな」
 監督は少し目を細め微笑みながらそう言い、俺が口にした箇所に触れる。そして、んっ、と声を上げ続ける俺にこう言った。
「前はどこまでも従順だったのにな」
 そう言いながらも監督は俺が欲しいと言う場所に触れ続けてくれる。優しさと激しさの両方をもって。それに俺はただ喘がされ続ける。
「その方が、良い?」
 喘ぎながらそう訊いて、確かに変わったと俺は自分でも思った。前はそんな風に訊くこともなくただ与えられる熱に酔って、すべてを委ねるだけで。監督と教え子という時も従順だったが、こうしてる時はもっと従順だったのだろう。
「いや、どんなでもお前はお前だ」
 俺の問いに監督はそう答えた。そう言われることでさえ、変わった気がする。俺が俺でしかないということは、もう誰の身代わりでも寂しさを埋める存在でもないと言うことだろう。
 監督は俺の首筋に顔を埋めた。そして首筋に唇を触れさせた後、俺の耳元で、
「本当は愛してたんだ」
 そう、そっと囁いた。それにどうしようもない想いが俺の中から溢れてきて、少し視界が滲んだ。
「俺も。ずっと、貴方だけだった」
 それは終わってから、いや、終わったから口に出せる言葉。隠し通さなければいけなかった頃は、言ってしまえば壊れてしまいそうで。あるいは言ってしまって、返ってくる答えがもし違ってたら怖くて、俺はずっと言えずにいたし、恐らくは監督も同じだったのだろう。
 息も出来ぬほどきつく抱きしめられた。そして、より深く激しく求められる。俺はその身体の重みも想いも全部受け止め、どこまでも受け入れて激しく喘ぎながら、いつになく自分からも求めるように振る舞った。
 ――これで本当に最後ならば、全部欲しい。貴方のすべてを俺に焼き付けて。過去に、思い出にする為に。
「桐原、さん」
 意識が飛ぶ寸前、ギリギリのところまで来ていた俺は、必死の想いでそう監督の名を呼ぶ。それに監督が目を見開いた後、今まで見たこともないくらい優しく微笑んだのを見て、俺は瞼が熱くなって涙が一筋伝っていくのを感じながら完全に意識を手放した。

 しばらくして意識を取り戻す。どうしてもシャワーを浴びるという俺に、あれだけ飲んだから不安だと監督が言い張るので二人で浴びることになった。それも豪華ホテルだけあってとんでもなく広いバスルームだから出来ることだろう。と言っても、男二人が入ればその広さもさすがに窮屈になってしまう。自然と触れ合ってしまう肌。
「三上」
 そう呼ばれ、温めのシャワーの中で重ねられる唇。何度だって繰り返されてるうちに、さすがに俺は笑って言った。
「ふやける」
「そうだな」
 そう言って監督も笑った。シャワーを切って備え付けの上等そうなシャンプーや石鹸を使って洗う。そうしてるうちにふと思い出して俺は言う。
「そう言えば、背中流したことってない。監督の家に行った時だけじゃなくて、遠征の時とか普通にしてても一緒に風呂とか、その機会ありそうだったのに」
 時間の関係かコーチが俺達選手と一緒に風呂に入ることはあったが、監督だけは一回もそうしたことはなかった筈だ。俺がそう言うと、監督は苦笑して答える。
「選手達が私を苦手にしてるのは知ってるよ」
 それに俺は知らず寂しげな顔をしたんだろう。……だって、本当は誤解されやすいだけの人だって俺はよく知っているから。そんな俺に微笑むと監督は言った。
「三上、お前だけは別だったがな」
 さりげない過去形が不意に辛く思えて。熱くなる瞼を誤魔化したくて俺はシャワーのコックをひねってお湯を出す。



 目が覚めた時、部屋はもう既に明るかった。夜景を見たまま閉じなかったカーテンからは明るい光が差し込んでいる。時計を見ればまだ一般的なホテルのチェックアウト時間でも余裕で間に合う筈の時間だ。そして、ふと隣を見れば珍しくまだ監督が寝ていた。いつもなら監督の方が先に起きていて、きっと寝起きの悪い俺はいつだって監督を困らせていたんだろうと俺は思う。その記憶は残念ながら俺にはないのだけど。俺はそれを思い浮かべて微笑みながら、起こさない気をつけながらそっとその頬に触れ、口づける。そして、最後になるであろうその寝顔を瞼に焼き付ける。
 これまた備え付けで着ていたバスローブを脱ぎ、床に脱ぎ散らかされた二人分の服を拾って自分の分を身に着けていく。ボトムを履いてシャツを羽織り、夕べ監督が外したのだろう椅子の背に置かれていた俺のネクタイと同じ場所に監督の服を掛けると、部屋に備え付けられているポットとインスタントコーヒー見つけてカップに淹れる。それを持って俺は窓辺から横浜の街を見下ろす。夜景では正確には掴めてなかった高さを下の豆粒のような景色から改めて感じた。こんなとこにいるのは本当に夢のようだ。
 そしてコーヒーを飲み干した後カップを机に置くと、監督の眠るベッドに腰掛ける。多分、これまでとは逆。監督はこうして俺を眺めていたのだろうと思って、本当に、最後の最後に今まで出来なかったことをしているのだと改めて思った。
「……三上?」
「おはようございます」
 起き上がった監督は既に服を着て、すっきりとした表情の俺を見て珍しいものを見たと言う顔を隠さずそのまま、
「珍しいな」
と言う。それに俺は短く答えた。いつか敬語はとれたままで。
「今日が最後だから」
 そう言う俺の頬に監督は手を伸ばして触れながら微笑んで答えた。
「そうだな」
 ベッドから降りた監督はバスローブから俺が拾っておいた服に着替えながら、ふと一緒にあった俺のネクタイに付いているもの気がついたようだ。それはあの日貰ったネクタイピン。
「持っていてくれたんだな」
 監督がそう言うのに、
「大切な過去。思い出だから」
と、俺は微笑んで答えた。……そう。多分俺は一生外すことがないだろう。それくらい大切な過去の思い出。監督と出会わなければ今の俺はなかったのだから。
 着替え終わった俺と監督は部屋を後にする。荷物は元々ないし、気がつけばもう時間は昼に近い。そのドアを開ける前、どちらからともなく唇を重ねた。触れるだけの口づけ。もうそれすらも叶わないから――。
 そして、しばらくしてから離れるとドアを開け、夢のような時間を過ごしたホテルを後にした。



 日曜の横浜の街は観光客やカップルで人が多い。
 ホテルから降りるエレベーターの中で、このみなとみらいから中華街まで足を伸ばしてそこで食事にしないかと言われ、俺は、はい、と返事をして頷いた。そして、ホテルを出てから俺と監督は並んで歩く。そう、並んで歩くことなど今まで一度もなかった。ずっとこの人の背中を見て、半歩後ろを歩くだけだった。だけど、今の俺はもう並んで歩くことが出来る。一体どう見える二人なんだろうとふと考えるが、この街に溢れる恋人達には自分達の世界しか映っていないからきっと気にすることはないんだろう。
 歩きながらすぐ近くに変わった橋があるのに気がつき、俺はそちらに目をやる。部屋からも少し見下ろせたがこれは一体、何の橋なのだろう。そんな俺の視線に気づいたらしい。
「汽車道だよ」
 監督がそう言った。
「汽車道?これが?」
 歌詞などで出てくるから聞いたことはある。だが、どうして汽車道なのか。一見ただ変わった橋のように見えていたが近づいて、ほら、と監督に指されたそこにはレールがあった。
「昔はここを汽車が走ってたんだ。港に荷物や人を運ぶ為の汽車がな」
 監督はそう説明してくれた。
「やっぱり詳しい」
 そんな俺の言葉に監督は笑って答える。
「ここをホームタウンとするチームの選手だったんだから、当然だろう。ただ、随分変わったな、この街は。この橋は変わらないが」
 今はもうこの街にその頃の面影などほとんどなく、ただそれでもこの橋だけはそのまま残されているのだろう。そう、ここだけまるで時が止まっているかのように。それは今の俺と監督のようで、止まった時の中を二人歩いている気がした。

 中華街までは少し距離があったが、まだ指揮を執ってる監督や選手の俺には大した距離ではなかった。ただ、門をくぐって中に入ると不思議な雰囲気と少し迷いそうな感じがあった。そして、ある建物の前で監督が足を止めた。それに俺が首を傾げると、監督は
「ここが関帝廟」
と、教えてくれた。見遣れば何かで見た覚えのある関羽の像が黒光りしている。
「お前、三国志は好きか?」
 不意に監督がそう俺に訊いてきた。
「俺、理系ですよ?一応世界史はやったし、ゲームもやったことあるけど皆ほど蜀好きじゃないかな。まぁ、関羽や孔明に興味が無いわけじゃないけど。むしろ、魏の方が興味が」
 俺が苦笑しながらもそう答えると監督は笑った。
「なるほど、お前らしいな」
 ……そう、きっと監督は俺が何を好むか知っていたのだ。俺がまた監督の好みを知っていたように。
 監督に案内されるまま、中華街の中のレストランに入っていく。色々な店、それこそ大衆向けっぽいところから滅茶苦茶高級そうなところまであるなかで、ほどほどに高級そうな良い感じの店だった。監督はメニューを俺に寄越しながら、言った。
「何でも頼んで良いぞ」
「本当に?」
 俺は思わずそう訊き返していた。
「考えたら、お前のわがままは今まできいたことがなかったからな」
 確かに一度だって言った覚えはなかった。そんな事を考えながら、俺がメニューをじっと眺めていると、
「早くしないと勝手に一番高いもの頼むぞ。いい加減、腹が減ったことだしな」
 そう言って監督はニッと悪戯っぽく笑った。
「え?それは言ってること違うし。俺だって腹減ってる」
 俺がそう抗議すると監督は珍しく声を立てて笑う。迷ったあげく俺が食べたいものと監督が勧めてくれたものと監督の食べたいものを全部注文し、最初は二人していくらなんでも量が多いんじゃないかと思っていながらも、朝を食べ損ねていたのもあったのか結局のところすべて平らげてしまい、空になった皿を見て俺と監督は二人で笑った。



 中華街から少し歩けば山下公園に辿りついた。群れる鳩に餌をやるカップル。空から聞こえるカモメの鳴き声。海の向こうの船からは時折警笛が届く。そんな様子に、
「ここだけは本当に変わらないな」
と、ちょうど空いたベンチに座って監督はそう言った。自販機で買ったお茶を監督に渡し、俺は少し間を空けて隣に座ると自分の缶コーヒーのプルタブを開け、口にする。
 午後の陽だまりの中、こうしているのも考えられなかった。日射しの下、二人で並んで立っていたことは何度だってある。でもそれは大抵ピッチを睨んでピリピリとした雰囲気の中でのこと。こんな風に外でのんびりと過ごす日が来るとは思っても見なかった。でも、これも最初で最後だ。昨日の急な外泊から遅くなってもいけないので、俺は早めに帰ることにする。
 それでもやっぱりどこか名残惜しくて二人でゆっくりと歩いて関内ではなく桜木町へと戻る。その途中にあるアディダスショップに大きくかけられた水野の写真広告。その姿はマリノスのユニフォームではなく代表のユニフォームを纏ったものだ。
「大きいな」
 監督がそれをどこか遠い目をして眺めながらそう言った。大きいと言ったのは多分そのサイズじゃない。きっと自分の手から離れ大きくなった息子を思っているのだろう。そして、俺にとってもこうして見る水野の姿は酷く大きく見えて、思わず呟く。
「俺には手が届かない」
 そんな存在が俺を必要としているのは、どうしてなんだろう。時折不思議になるが、水野の切実さに俺は応えてやりたくなるし、いつか俺自身も水野を必要としていた。
「そうかな。お前はまだこれから伸びるだろう。それと、あの子にはお前が手放せないようだが」
 監督が写真広告を見上げたままでそう言う。その横顔に俺は思わず呟いていた。
「知っていて……」
 俺の方を見ずに監督は言う。一体この人はその事実をどう受け止めているのだろう。
「昨日のお前と竜也のやりとりを見て気づいた。ただ私にはどうこういう資格はあるまい」
 
 そして終わるのだ。この夢のような時間も、この人との関係も完全に。
 ただ出会った頃のように戻るのだ、かつての監督と教え子に。
 そうは思ってみても、出会った時から多分俺はずっとこの人に惹かれていた。
 ……でも、もうすべては終わった。すべては過去。

 駅の改札前で別れを告げる。
「さようなら、桐原監督。どうかお元気で」
 今度は笑顔で言えた。卒業式のあの日にちゃんと出来ず、ずっと心残りだった別れの挨拶。そう、すべてやり直したのだ。今日一日であの頃出来なかったことを全部やり直して、だからもう一度別れもやり直して。
「さようなら、三上。身体には気をつけて」
 はい、と返事をして深々と頭を下げる。そして、上げると笑顔でそのまま改札へと向かった。俺はもう監督に個人的なことでは会わない。そう決めた。だから決して振り向かない。
 かつての教え子に毎年届いている年賀状。ずっと俺だけ手書きだったみたいだが、多分来年届く年賀状は家族の写真入りだろうと、そんなことを思ってふっと笑う。きっと、それで良いんだ――。



 電車を乗り継いで戻ったアパートの部屋の前で。水野が立ったままヘッドホンで音楽を聴きながら文庫本を読んでいた。いつからここに居たのだろう。練習帰りと判るバッグがコンクリートの通路に置かれているのを見て、ずっと待っていてくれたのだと俺は気がつく。近づく俺の気配にこちらを向いた水野。
「水野」
 そう呼んだ自分の声に、後ろめたさは不思議な程、まったくと言ってなかった。逆に完全に吹っ切れたような気分で、まっすぐ水野と向き合える。水野はヘッドホンを外すと俺に言った。
「渋沢から聞いたんだ。心配で来たけど、大丈夫みたいだな」
 ああ、と返事をして鍵を開け部屋に入る。続いて入ってきた水野の後ろでパタンとドアが閉まる音がすると同時に、俺は振り返って水野の胸に飛び込んだ。
「……三上?」
 驚きながらも俺を受け止め、背に腕を回し抱きしめてくれる水野。
「今日、泊まれんの?」
 そう訊いた俺に水野は再度驚いたように言う。
「珍しいな、お前から言うなんて」
 驚いていても嬉しそうにそう言われ「泊まっていくよ」という返事が返ってきた時、俺は心底嬉しかった。俺の居場所はもう水野以外考えられなかった。

 ――どんなに懐かしんでみても、過去はやっぱりもう過去でしかない。
 今もこれからも俺はずっと、お前と一緒に生きていきたい。





 
〜期限付きのシンデレラボーイ EXTRA 3〜
2011.09.27 UP