地方遠征の帰りの特急列車は随分前に停まったまま、ずっと動かない。 乗客の誰かが持っていたラジオから何とか聞き取れるニュースは無惨に寸断されていく交通網を伝えていた。一方で車内アナウンスは一向に流れない。恐らく相当混乱した状況なのだろう。本来なら停車しないのであろう駅に停まったままドアも開かない列車内は、車掌に状況に確認に行ったりする乗客やデッキに電話をしにいく乗客がひっきりなしに入れ替わって落ち着かない。その中にはうちのコーチ陣も含まれている。 「終日見合わせ、次の駅までで運転打ち切りだそうです」 デッキから戻ってきたのであろうコーチの声。 「そうなったか」 すぐ後ろの席で監督がそう答えるのが聞こえる。立ち上がった監督とコーチ達は何やらデッキで今後の相談を始めるようだ。遠征などの移動時は監督やコーチ達と遠い席から先輩が座っていくことになってるので、今回の遠征メンバーでただ二人の一年生の俺と渋沢は自然と監督達のすぐ前の席になる。 俺は車窓を打つ激しい雨を見つめる。まるでこの雨に閉じ込められるような世界。 ……雨は嫌いだ。滑る芝。重くなるボール。張り付く髪とユニフォーム。奪われる体温。訓練されているからそれでパフォーマンスを落とすようなことはさすがにないけれど、それでもやっぱり何となく気分は沈む。 そんなことをぼんやり考えていると、隣から声がかかる。 「次の駅まで、でも着くのは当分かかりそうだな」 やはり同じように聞いていたのか、渋沢が本から目を上げぬままそう言った。それに俺はうーん、と腕と上半身を伸ばして答える。座りっぱなしはさすがにキツい。 「いい加減怠いな」 そう言った俺にふと気がついたように渋沢が顔を上げ、横の俺を見て言った。 「そういえば珍しいな、三上。お前が寝てないなんて」 俺はそれに苦笑して答える。 「落ち着かないじゃん、さすがに。ついでに前、あれだし」 親指で指した前方では先輩達がのんきにワイワイと騒いでいる。恐らくゲームやウノでもやっているのだろう。試合が終わった後の開放感で高揚しているのもあるのだろう。まるで修学旅行のような盛り上がりようだ。 しばらくすると監督とコーチ達が戻ってきて、コーチの一人だけがそのまま前方へと歩いて行く。そしてチームの席の最前列で振り返り、現在の交通状況とやむを得ず次の停車駅の近くで泊まる決定をしたことを発表した。 「やったー」 と、妙にテンションが高くはしゃぐ先輩連中とは正反対に俺は溜息を吐いた。 「……じゃねぇよ。ったく、いい加減早く帰りてぇ」 俺はそう言って、頭に手をやりクシャクシャと掻く。 「そうだなぁ」 もう全部読み終えてしまったのか、決して薄くはない文庫本をパタンと閉じた渋沢もそうぼやいた。それに不意に後ろから聞こえる忍び笑い。渋沢と二人して振り返ると監督が笑っていた。 「いや、なんだ。お前達でもそう思うのか」 監督にそう言われて、渋沢が答えた。 「この天候じゃ仕方無いのは判っていますが、やっぱり早く帰りたいですね」 「まったくだ」 そう渋沢に言った監督がちらりと俺を見た気がしたが、俺はすぐに視線を逸らしてただ窓を打つ雨を見つめる。その勢いはます一方だった。 部の活動には当然ながら予算がある。俺の予想通り、試合後というのもあって宿の部屋は大部屋だった。それはまだ良い。しかし、高等部に上がって藤代が居ないから大丈夫だろうと油断していたらノリの良い奴というのはやっぱりどこにでもいるらしい。FWの先輩が――何で一番にノリが良いのは大概FWなんだろう――枕投げを始めてしまったので眠れず、かといって文句は絶対に言えないので俺は部屋を後にした。いつもならそれくらいは気にせず寝てるのだが、やっぱりこんな状況で俺もどこか落ち着かないのだろう。 階段を下りてロビーへ向かう。人気のないそこには激しい風雨と雷の音が響く。自販機でコーヒーを買ってから俺は窓辺に寄りその様子を眺めていた。 「どうした、眠れないのか。珍しいな」 不意にかけられた監督の声に俺は振り返る。 「疲れすぎでかえって眠れないみたいです。ついでに、部屋で枕投げが始まってしまったので退散してきました」 そう俺が答えるのを自販機のボタンを押しながら聞く監督。ガシャンという音とともに転がり落ちてくるペットボトルを拾い上げた監督は俺を見るとこう言った。 「私の部屋に来るか?」 俺はそれを聞いてじろりと監督を横目で見る。 「……どう言い訳するんですか」 と答えてから、別に監督の部屋に行ったからといって、それ自体はどうこう言われることじゃないかと思ったのは後のこと。それより先に返ってきた答えは 「何とかなるだろ。まぁ、実際うっかりここで朝まで眠られるよりは迷惑をかけないと思うが?」 と言う言葉と、おいでと差し出された手。俺は一瞬迷いながらも結局取ってしまい、そのまま階段を階上へと上がっていく。 和室大部屋の部員達とは違って監督やコーチは洋室らしい。監督はツインを一人で使っている。几帳面な監督には珍しく、机の上にはメモやら予算表などの書類が散乱していた。恐らく急なアクシデントに監督やコーチはこの時間まで慌ただしく動いていたのだろう。監督は俺を部屋に招き入れてもしばらく何か書いていた。その横で俺は勝手にペットボトルのお茶をさっきまでコーヒーが入っていた紙コップに貰って飲んで、空になった紙コップをゴミ箱に放る。そして使われてない方のベッドにゴロリと横になった。スプリングの具合は嫌いじゃないものだ。そこでゴロゴロしながら俺は監督の背中を見つめる。作業を終えたらしい監督は、立ち上がって俺にはまったく構わず備え付けの浴衣を持つとユニットバスへと向かった。シャワーの音を耳にしながら、少しうとうとしていると、いつかその音は止んでいて、すぐ側に監督の姿があった。ゆっくりと縮まるその距離。 「三上」 耳元で囁くように名を呼ばれると同時に唇を寄せられて、ゾクリと背筋を駆け上がっていく何か。どこまでも気持ち良いけれど、どこまでもダメになってしまうような感覚。唇を重ねられ、入れられた舌が俺の口腔内を蹂躙して舌を強く吸われる。思わず零れる声は自分でも甘いものだと判る。上がっていく呼吸。離された唇が今度は耳と首を吸い、舌が這うのに俺は「あっ」と声を上げる。それを聞いて、監督の手がバッと俺の浴衣を脱がせる。 「なんかさ段々乱暴になってくよね、アンタ。前はもっと丁寧だったのに」 露わになった肌の弱いところにつっと這わされる指。それにたまらず、「んっ」と声を上げ続けながら俺はそう言った。そう言いながら、どうしてこういう時だけ言葉遣いが変わってしまうんだろうかと俺が考えていると、監督はその手を止めずに答える。 「仕方無いだろう、こっちだって余裕がないんだ」 それは普段ならいっそ嬉しくさえ思う言葉なのに、俺は別の意味で余裕がない。 「なぁ、俺、もうさすがに疲れてるんだけど本当に最後まですんの?」 上目遣いでその瞳を覗き込むようにそう訊いて、それが余計に煽るのだと、言ってから気がついても遅かった。案の定返ってきたのは、 「どうせ移動中の車内でいつも寝てるじゃないか。今日は珍しく起きてたみたいだが、明日もそうすれば良い。後は帰るだけだ」 という言葉と、更に俺をまさぐる手。それに翻弄されて喘ぎながらも俺は言葉だけでも抵抗を試みてみる。 「何それ勝手。強引」 そう俺が言ったところで、ますます強引になるだけで。おまけに返ってきた答えは、 「だが、それが良いんだろ?」 と言ってニッと微笑まれる。そうだ、強引な方が強く求められている気さえしてしまって、俺はいつだって流される。抗えない。何処までも、何もかも。それに付け入るのは大人の狡さだ。 「狡い」 俺はそう耳元でそっと囁いた。すると不意に抱きすくめられる。それこそ息も出来ないくらいきつく抱きしめられて。そして監督は言った。 「判ってる」 と、一言だけ。……そう、俺だって判っていてされるがままになってる。勝手さも強引さも狡さも優しさも、貴方のすべてが俺を捕らえたまま離さない。いっそ、ずっと本当に離さないでいてくれたら良いのに。そうは思ってもそれは叶わぬ願い。それでもただ一時でもその夢に酔っていたくて俺はすべてを委ねる。 ただでさえ雨でキツかった試合の後、長時間車内に閉じ込められて疲れていたのに、さらに疲れるようなことをして、鉛を吸ったように重い身体を引きずって何とかシャワーを浴び身体中に残る残滓を洗いながして戻ると、部屋のカーテンの隙間からうっすらと光を取り戻す空が見える。時刻はもう4時近くになる。 バタンとベッドに俺は倒れ込む。身体中から力が抜けていく感覚。あっという間に眠りに落ちるかと思ったのに、何故だかそれが惜しくて俺はうとうとと微睡む。ふわふわとした意識の中で、いつか温かさを感じる。……いっそこのまま、永遠に眠ってしまえたら良いのにと、そんなことさえ思える感覚。 微睡み、いつか遠くなっていた意識を現実に引き戻そうとするのは何事か話す声だった。 「渋沢か、早いな」 その監督の声を俺は半覚醒の状態で耳にする。 「俺はいつもこの時間に起きていますが。ただ約一名姿の見当たらない者がいたので、気になってちょっと見回ってきたのですが、ここに居たら判るはずありませんね」 そう言う渋沢の声に俺の意識はゆっくりと鮮明になろうとしている。 「一体、貴方は三上をどうなさりたいのですか?」 多分、今、渋沢は俺を見ているのだろう。何となく視線のようなもの、気配を感じながらも、しかし、随分と含みのある質問だなと、俺はまだ少し眠ったまま思う。 「来年、水野……息子さん、来るんですよね」 そう言う言葉は、渋沢にしては珍しく歯切れの悪い物言いだった。 「話が早いな」 監督がそう答えるのを聞きながら、ぼんやりとした意識の中で俺もそう思う。決定事項なのを知っているのは本人と監督とコーチ、そして監督から聞いた俺くらいのものだと思っていた。 「コーチ達に訊かれましたから、どんな子なのかと」 渋沢がそう答えるのを聞き、そして監督が多分俺を見ながら言っているのであろう言葉を聞く。 「どうもしない。竜也は竜也だし、三上は三上だ。二人が揃えば攻撃のバリエーションも増える。良い戦力になるだろう」 ……そう、それが監督の理想ならば俺はそれで良いと思った。今は水野に対しての敵対心もない。実際一緒にやれるならそれはそれで面白いだろうとさえ思える。例えそれが俺から10番を奪うことになっても、だ。監督が望むのなら、必要としてくれるなら俺は何だって良い。 ただ、渋沢はそんな俺の気持ちは知る筈もないから、監督に問いただす。 「中学の時、あの時は監督が倒れたから俺は何も言いませんでしたけど、三上がどんな思いをしたのか貴方は判っているんですか?」 元々監督に対してでもはっきり物を言える渋沢ではあるが、それはいつになくきつい口調だった。ただ、そうやって渋沢が俺のことを心配してくれるのはありがたかったが、監督を責めるような言葉はこれ以上耳にしたくなかった。――だって俺は何もかも承知してここに居るんだ。 そう考えているうちに俺は完全に意識を取り戻す。それでも残っている疲れと眠気を何とか振り払って俺は口を開いた。 「……監督、答えなくて良い」 「三上」 監督と渋沢が同時に俺を呼び振り返った。 「――俺を勝手に可哀想な子にしないでくれる?渋沢」 ベッドに寝たまま、ワザと色っぽいと思われるであろう表情を作って俺は渋沢を見上げる。それに一瞬たじろぐ渋沢。 「三上、やめなさい」 すぐに監督の窘める声が飛んできたが、睡眠を妨害してくれた渋沢をからかいたくなって、俺はふざけて「はーい」と返事をする。その声音に驚く渋沢と、溜息を吐く監督。 ……せっかくここで眠れると思ったのにな。この展開だと、部屋に戻れと言われるだろうな。そう思って起き上がり、立ち上がろうとして、俺は腰から下に力が入らないことに気がついた。試合と移動から始まった疲労が更に重なって今になって全部まとめてきたのだろう。とはいえ、さすがにヤバイと思って何とか力を入れてみるも叶わず、俺は笑ってさてどう誤魔化そうと考えていると、不意に軽くなる身体。軽々と俺を抱き上げて、渋沢は言った。 「とにかく、三上は元の部屋へ戻しますよ」 横抱きにされて俺は驚く。いや、それくらいの力があるのは不思議ではないけど。幾ら何でも所謂お姫様抱っこ状態は恥ずかしい。 「ちょ、渋沢?下ろせよ!」 渋沢にそう言うがまったくもって耳を貸して貰えず、何故かこの状態で監督と目を合わせるのは気不味く思えて、俺はそのまま部屋を後にすることになった。だからその後監督が何を思ったかは判らない。 ・・・・・ 「青二才が」 渋沢が三上を連れて部屋を出るなり、そう口にして思わずバシッと新聞を放り投げていた桐原は、自分が言った言葉のおかしさに気がついてクッと嗤う。それは当然だろう。いくら大人びてるとはいえ相手は15・6歳の少年なのだ。そう、三上と同じ年。三上相手は当然だが、渋沢相手にしても、私は一体何をやっているのか。そして投げつけた方向にある鏡に映る自分を見つめる。自分にはもうああやって軽々と三上を抱き上げることは出来ないのだろう。 ……恐らく渋沢はすべてを見抜いた。私が三上に対して抱いている本当の気持ちさえも。 だが、それを三上に伝えれど、それ以上他言するようなことは決してあるまい。 それに安心すると同時に怖れに似た思いを抱いた桐原は思わず呟く。 「まったく、大した子達だよ」 ――三上。 横になったベッドにはまだそのぬくもりが残されているような気がした。 ・・・・・ 横抱きにされたまま階段を下りきって、ロビーに戻った。 「いい加減下ろせよ、渋沢」 そう俺が言い続けると、何度目かでようやく手を離された。重力のままボスッとソファの上に落ちる俺の身体。そのまま吸い込まれ横になったままソファに沈む。 「おい!下ろせって言ったけど、そりゃないだろ」 俺がそう抗議しても渋沢は表情を変えなかった。俺は何とか上半身だけ起こし、ソファに座り直した。その目の前に立ちはだかる渋沢はいっそ試合の時よりも威圧感を感じる。 「俺が何も気がつかないとでも思ったか」 胸元に伸びてきた手が俺の浴衣の襟元を掴んだ。元々緩めに来ていたせいで多少露わになっている肌。そこに上から降ってくる視線。じっと見られてる箇所に珍しく痕が残っていることに俺は気がついた。 「まったく、誰かに見られたらどう誤魔化すつもりだったんだ」 そう言いながら渋沢は掴んでいた浴衣をきっちりと着せ直してくる。それで確認するというよりは、着せ直したかったのかと思い至る。渋沢らしいと思って苦笑し、 「別にこれくらいなら蚊に刺されたって言えば、見えなくもないだろう」 と、俺はそうあまりにもありふれた言い訳をする。 ただ、やっぱり渋沢相手にはもう何も隠すことは出来ないようで。 「……いつからだ?」 静かに、でも、はっきりとした口調で訊く渋沢。答える義務なんて無い筈。そう思って口を固く結ぶ。だけどまっすぐこちらを見据える視線が、どこまでもまっすぐ過ぎて胸に突き刺さる。 「答えろ三上」 そう訊かれて俺は思う。それはこの関係のことだろうか、それとも想いを抱いた時からだろうか。でもどちらにしたって同じなのかもしれない。意を決して俺は渋沢に強い口調で答えた。 「――最初からだよ!悪いか」 それに訝しげな顔をする渋沢。 「……最初?」 不思議そうな顔で渋沢は問い返す。それに俺はクッと息を詰まらせながら言う。 「武蔵森に入った時から、母親と一緒に家を出た水野の身代わりに呼び寄せられた時からだよ。俺の人生はそれで変わったんだ。だからあの人の為なら何でもする。身代わりだろうが、道具だろうが、寂しさを埋める人形でもなんだって良いんだ!」 一気にそう言ったら、息が上がって苦しくなった。いや、違う。苦しいのは息じゃない、胸だ。その事実を当人に言うのと他人に言うのはまるで違う。嫌でも突きつけられる真実。 「……三上。お前、まさか気がついてないのか?」 その言葉に何を、と問うように俺は渋沢を見る。言葉を選ぶかのように少し考えてから渋沢は言った。 「監督はちゃんとお前を愛してるよ」 「――何でそんなこと、お前が判るんだよ!」 俺は渋沢に問いただす。すると渋沢は俺から視線を逸らしこう言った。 「部屋の扉、鍵がかかってなかったんだ。最初ノックした時気がつかれなかったからちょっと覗いて見たら監督はお前の髪を梳いてた。それも酷く優しげな顔でな。俺はあんな表情の監督は見たことがない」 では、微睡む意識の中感じたあの温かさは夢でなく、本物だったというのか。 「まさか。……だって、俺は身代わりの筈じゃ」 俺は思わず呟いた。そうじゃないとは監督も言ってくれる。けれどやっぱり完全には否定しきれない筈だ。現に、俺は本来なら水野が負っていたであろう役目を負わされている。身体を重ねることだって、男ならばそうやってしか埋められない寂しさがある。 必要だって言ってくれる、必要として貰える、それだけで良いと思ってた。 それ以上は望んでない。望んじゃいけない。だって俺は……。けど、本当は俺は――。 「お前の願望じゃない、事実だと思うけどな俺は」 混乱し続ける俺をソファに沈め横にさせると、自分の羽織を脱いで俺の肩にかける渋沢。 「今から部屋に戻れば先輩達に気づかれる。ここで寝てろ。誰か起きてきて何か言われたら俺が適当に言っておくから」 優しくそう言った渋沢は届いたばかりであろう新聞をマガジンラックから引き抜くと、俺の向かいのソファに座って読み始める。 「何で――」 止めない、咎めない、怒らない。他にも言いたいこと、訊きたいことがいっぱいありすぎてそれから先は言葉にならない。 「俺は友人として心配なだけだ、三上」 新聞に目を落としたまま渋沢は答えた。 「決して誰にも言わないよ、俺は。ただ――」 そこで渋沢は新聞から顔を上げて、俺を見た。その視線を受け止めて見返す。 「ただ?」 そう俺が訊くと、渋沢は優しく微笑んで言った。 「苦しい時、それが監督にも言えないようなことだったら、俺に言え。一人で抱え込むんじゃないぞ」 それは紛れもない俺を心配してくれる友人の言葉。 「……あんま優しいこと言うなよ渋沢、俺泣いちゃうじゃん」 そう言いながら俺は顔を背けた。既に涙でぼやけている視界。俺だって、あのぬくもりに愛されてると思いたくなる。だけど、そう思ったらあの人の何もかもが欲しくなる。あの人は俺のすべて。でもあの人は俺のすべてではないし、そうなってはいけない。それが俺のあの人への想い。 ・・・・・ しばらくして三上の寝息が規則正しいリズムを刻むようになる。それに渋沢はほっとする。起床時間まではあまりないが、少しは休むことが出来るだろう。 「決して許されることはない二人、か……」 モラルや道徳を持ち出して正しさだけを振りかざして、咎め立てることは簡単だ。だけどそれは何も解決しない。ただ三上を追い詰めるだけだろう。 お互いへの本当の気持ちは二人には素直には認められないのだろう。 本気であればあるほど、それが切れる時が辛くなる。そして、二人が結ばれることは多分永遠にない。それを知っていて強く惹かれ合っているのはさっきの様子を見ていて判った。 このとんでもない醜聞は、明らかになればきっと当人達だけでもなく部も学校も、監督の実の息子である水野も、関係する者すべてが傷つく。本当に誰もが傷つくだけ。ならば己一人の胸の内に潜めて、三上がこれ以上傷つくことないよう庇ってやるのがせめて俺にできる事か。そう渋沢は考えて、いつもの正義感からつい、監督の部屋から三上を連れ出してしまったことを少しだけ悔やむ。あのままあそこで寝かしてやった方が良かったのか、と思えた。ただ、それだと三上はいつまでも自分を人形だと思い込み続けていただろう。でも、決して結ばれることがないのなら、いっそその方が楽なのか。多分それに正解はない。 いつも通りお茶を飲もうかと思ったが、何故かその気になれず飲み慣れないコーヒー、それも三上の好きな砂糖も入れないブラックコーヒーを買って口にする。 「苦いな」 渋沢が言ったそれはコーヒーのことだけではなかった。 ――恋が甘いなどと一体誰が言ったのだろう。 苦しい道を選んでしまった三上が、ただ一時でも幸せであって欲しいと友人として切に願いながら、あれほど激しかった風雨が嘘のような美しい夜明けの陽が窓から差し込んでいるのを見つめる渋沢だった。 |
〜期限付きのシンデレラボーイ EXTRA 2〜 2011.08.04 UP |