冷房の効いた校舎を出ると、そこには入道雲が張り付いて久しい青空が広がっていた。日頃から炎天下のグランウンドに立っていて、他人よりは多少は慣れてるとはいえ、やはりとても残暑とは言えない、耐え難い程の激しい熱気から早く逃れたくて、私は少し足を早めてサッカー部の寮、松葉寮へと向かう。 「こんにちは」 私がそう管理人室の窓口で声をかけると「あら、監督さん」と、寮母の彼女が振り返った。監督として、こうやって定期的に寮生の様子を訊きに来てはいるのだが、生憎この時期はどうしても忙しく、今日は正確な時間は伝えられないままの訪問になってしまった。 「すみません、今大丈夫ですか」 私がそう訊くと、彼女は笑顔で答える。 「はい、さっき片付け終わって一息つこうとしていたところですよ。ささ、どうぞ」 ええ、と促されるまま部屋に入り私は椅子に腰掛けた。しばらくして麦茶の入った二つのグラスと寮の管理日誌が机に置かれる。 「ああ、ありがとうございます。今日も暑いですね」 私がそう言うと、机を挟んで向かいの椅子に座った彼女は、「ええ、もう本当に」と、うんざりしたような表情を浮かべて答え、それから笑って続ける。 「ただ、洗濯物が早く乾くのだけは助かってますけどね」 「まったくです」 そう私も笑って答え、しばし受け取った日誌に目を通すことに集中する。すると、いつからか、玄関ホールに少し高く響く若い声がガヤガヤと広がって、私は日誌から目を上げる。そこには私服姿でそれぞれの旅行バッグを抱える見慣れた顔ぶれの寮生達が大勢いて、何やら楽しげに談笑しながら下駄箱へと向かい、一人また一人と帰っていく。それを窓ガラス越しに私は見守って言う。 「皆、楽しそうですな」 「ここの子達は普段から楽しそうですよ。寮母としては嬉しい限りです。でもやっぱり家に、親御さん達の元に帰れるのは嬉しいんでしょうね。いつもより楽しそうです」 そう話しているうちに、久しぶりの家路へと急ぐ慌ただしい帰宅ラッシュは去ったのか残っている者は数えるほど。その、顔ぶれを見て自宅が近い者ばかりだと思いついたが、たった一人だけ違う者がいた。帰って行く者を最後まで見送ってから下駄箱とは逆の電話の方へと向かうのは――三上。 もう見慣れた漆黒のやや長めの髪。同じ色を湛えた瞳は時に不敵に、時に物憂げに年齢にそぐわない光を帯びる。 チームメイトなど同年代の者にはいつも斜に構えたような物言いで傲岸不遜な態度を取りながらも、大人に対しては年齢に似合わないほどの礼節をもって接する。それを単に擦れてるという言葉で片付けることは私への態度、媚びずおもねらない従順さから難しい。……どこかアンバランスなのだ。 自分でここへ呼び寄せておきながら、不思議な子だとガラス越しに眺めながら思う。同じ大人びた者でも、既に自分の意見を持っている渋沢の方が、何故そう育ったかという点を除いてまだ理解しやすかった。 その三上が受話器を置くと、しばらく立ち尽くしていた。そして、やがて天井を見上げるとふっと溜息を吐いて、首を横に振った。その姿がやけに気になって、私は「ちょっと失礼」と管理人室を出る。 「三上?」 そう呼びかけると、三上は驚いたように振り返った。その瞳は揺れて表情もどことなく曇っているように見える。 「どうかしたの?」 彼女も気になったのだろう、そう言って優しく三上に尋ねる。それに笑顔で笑って答える三上。 「いえ、大したことじゃないです。――あの、寮母さん」 「何?」 「事情があって、帰省出来なくなりました。俺、残って居ても大丈夫ですか?」 三上はそう明るく言った。だが、それがわざと気丈に振る舞っているのは嫌でも判ってしまう。 「残るのは心配ないわ。大丈夫よ。ただ、どうしましょう、今からだと食事が準備出来ないわねぇ」 寮母の彼女は少し考え込むようにそう答える。それに三上は手を横に振って「良いです」と言う。そして、電話をかける為肩から下ろしていたカバンをかけ直さずに持ち手を持って、 「俺、自分で何とかしますから。余計な心配かけてすみません」 と言って、私達に一礼するとくるりと背中を向けて去ろうとする。その背中はやっぱりどこか寂しげで。 「待て三上」 思わずそう呼び止めた私に、え?と足を止め振り返る三上。 「うちに来ないか。勿論、お前が嫌でなければだが」 「――良いんですか?」 三上は少し驚いたように訊き返す。私はそれに片方の口の端を上げて答える。 「一人住まいであまり片付いてないがな。だから遠慮はいらない」 それでも当然ながら遠慮する気持ちがあったのだろう。しばらく考えてから三上は答える。 「……ありがとうございます。そうさせて貰います」 三上はそう言って一礼した。その肩にポンと手を置いて私が微笑むと、三上は少しはにかんだように笑った。 それから三上が休みをこの家で過ごすようになってから、何度目だろう。外泊や外出が出来る日に帰省の話が出ることはあるようだが、あまりにもドタキャンをされることが多く、三上は帰ることをすっかり諦めてしまったようだ。そして、代わりにここで過ごしている。もうすっかりこの家の構造を覚えて、今も私の蔵書を読みあさっている。その本が持ち出されたであろう本棚に、ずっと置かれたままの写真立て。あれは三上がここに来て二回目の日の事だったか。本を借りても良いかと訊かれ、好きなのを選ぶように言うと、本棚に並ぶ背表紙のタイトルを見比べていた三上の視線がふと止まった。その先にあったのは私と真理子と竜也の三人の写真。 「別れた妻と息子だ」 じっと写真を見つめる三上の背中に私はそう声をかけた。 「え?」 と、振り返った三上は、少し戸惑ったような顔でこちらを見つめる。 「やっぱり可笑しいな、いつまでも飾っておくのは」 そう苦笑しながら言って私が写真立てを伏せようとしたその時、すっと横から三上が手を伸ばして私の手を止めた。そして柔らかく微笑んで三上は言う。 「別に変じゃないです。良い表情ですから」 その三上の言葉に私は何だか救われたような気がした。 ……思えば、あの時から三上はすべてを知っていて受け入れようとしていたのだろうか――。 三上がここに来ることが増えて、大概の事には慣れた。好き嫌いはほとんど言わないし、忙しい家で育っただけあるのか、言わずとも後片付けはちゃんと出来るし、同年代の者達の前ではああいう態度でも、元々はきちんと躾けられているのだろう。ただし、一つだけ難点があった。それは寝起きの悪さだ。一応、遠征時の部屋割りなどの関係でコーチや寮母から話には聞いていたもののいざ自分がその場面に出くわすと辟易とさせられる。しかも当人の三上は覚えていないときたから性質が悪い。 その三上が夕食の後、読みあさっていた蔵書を片手にソファでうたた寝をし始めた。まずい、と思って私は起こしにかかる。放っておけばこのまま朝までソファで眠ってしまうだろう。いくら三人掛けでもしっかりとした休息をとるには狭い。 「三上、起きないか」 そう言って軽く肩を叩く。そうしてその姿を見下ろしながら改めて気がついた。 初めて会った時より随分伸びた背。けれどまだ成長途中で筋肉が追いついてない幾分か細い線。アンバランスな身体。そう、その身も心もアンバランス。その若さ故の不安定さに、不意に眩しさと愛しさを感じる。 ……こうして側に置いておきたいと思ったのは、もう、竜也の代わりというだけではないのかもしれない。 そう思ったその瞬間、私の胸に込み上げた衝動は何だったのだろうか。それを確かめる間もなくただ突き動かされるまま、私は眠っている三上の髪に触れる。少しずつ大人になっていく外見の中でそれだけは出会った時から変わらぬ漆黒の長めの髪、伏せられた長い睫。サラッとした感触の髪を撫で、頬へ手を伸ばす。そして、柔らかな唇に触れた。唇を重ねると、三上は身動ぎし、ゆっくりと目を開く。 「三上、お前起きて――」 その、私の言葉を遮るように自分の唇に人差し指を当て、さらに私へと伸ばされた手が頬を撫でるように触れ、自分の唇に当てていた指を私の唇に押し当てる。そして、うっとりという表現が合うような幾分潤んだ目で微笑むと両手を更に伸ばして私の首に腕を絡め、唇を重ねられる。 「監督」 呼ばれたその声の熱っぽさに、完全に理性は飛んだ。再度重ねた唇から舌を入れれば、最初は戸惑いつつも受け入れ、拙いながらも応えるようになる。恐らくは初めての筈。なのにすっかり酔って甘い吐息を聞かせるその姿は、とてもそうとは思えない。この色気は何なのだ。逆に酔わされているのは私の方か――。 狭いソファの上で、シャツのボタンを外し脱がせ、その首元に唇を落とせば「んっ」とくすぐったそうな声を上げる。身体中に触れて首、胸、脇腹、背中、脚の付け根と過剰な反応を見せる箇所、そして下腹部を攻め立てればあっという間に快楽に溺れ乱れていく。どこまでも従順に私の思うがままに染まる身体。 その身体を深く開いていこうとすれば、苦痛を伴うのか時に呻くが、苦しいのかと問えば首を横に振って「そのまま」と言う。必死にどこまでも受け入れようとするその姿が余計に煽られる。 「三上」 声を抑えようとして手の甲を口に当てているのをどけて、私の腕を握らせる。閉じようとしているのだろうがどうしても抑えきれず薄く開く口から零れる嬌声は、やはりまだどこか幼く響いて一瞬後ろめたくもなるが、すぐにそれさえもゾクリとした快感へと変わる。必要以上には焦らさず、焦らず、無理に追い立てないように昇りつめさせて、昇りつめる。そして――。 「監督……」 私を呼び、ソファの上にぱたりと力尽きて落ちた三上の腕。閉じられた長い睫の下から、つと一筋零れ落ちる涙。私は下着を履いてシャツを羽織ると邪魔にならぬよう腰掛け、まだ熱の残る熱いその手を取り甲にそっと口づけた。 しばらくして気がついた三上は少しふらつきながらも立ち上がり、 「シャワー借ります」 と言って、落ちていたシャツを羽織りそう言った。その様子はとても初めての事の後とは思えない程酷く落ち着いていて、私はハッとする。 汗が体温を奪い、急激に冷めてく頭、取り戻した理性が私に事の重大さを伝えてくる。 ――もし万一他人に知られるような事があれば私も三上もすべてが終わる。それもいとも容易く。 「すまない、三上」 ソファに深く腰掛け直した私が思わずそう口にすれば、 「……え?」 と、三上が訊き返す。その表情は戸惑いと怒りがない交ぜになっている。その顔に、 「すまないことをした」 再度そう詫びる私。だが三上は返事の代わりに手近にあった物を乱暴に放って寄越す。ガタンッと派手な音を立てて私の脇に落ちる本。 「――俺を勝手に被害者に仕立てあげんなよっ」 普段、大人に接する時の丁寧な言葉遣いとは程遠い口調で、そう言って怒る姿が不意に竜也と重なって私は今更ながら愕然とする。……そうだ、まだ子供なのだ。それも実の息子とたった1つしか違わない。だが、そんな私の内心の混乱には全く構わず三上は続ける。 「何、アンタ、そんなに犯罪者になりたいワケ?」 その、これまで決して私に向けられたことがない口調と、こちらを横目でジロリと見つめる剣呑な目つきが妙に艶めいていて、また私は狼狽える。私は彼を「大人」にしてしまったのか。手元に置いておけなかった息子と入れ替わるようにして目の前に現れ、手に入れた原石。大切に大切に育てる上げる筈だったこの子を――。しかし、三上は容赦しなかった。 「仮にアンタが犯罪者になったとこで、余計に傷つくのは俺の方じゃないか!だって、そうだろ?俺だってこうなることを望んだんだ。抵抗する素振り、一つでも見せましたか?」 そう訊かれて私はなるべく冷静に聞こえるように努力して「いや」と答える。 「なら、良いじゃないですか。貴方がどんなつもりだったかなんて俺は知らない。ただ俺は貴方に、アンタに必要とされれば何だってする。何だって出来る」 三上が激しい口調でそう言う、その言葉は愛を告げるものによく似ている。 「何故」 私がようやっと言えた言葉はそれだけだった。――何故、私なのだ。その容姿ならば普通の少年らしい恋の手順は軽々と踏んで行けたのにと思う。 だが、そう思って私もハッとする。――何故、私は彼を、と考える。 ……そう、手に入れたかったのはその才能だけの筈だったのに、いつしかまた、私もこの少年にここまで惹かれていたのだと今になって気が付く。それが決して許されるものではないことは判っているが、もう遅い。こうなった以上もう取り返しなどつかない。 私の問いに三上は俯く。そして、今し方とはまるで違ってどこか心細そうに俯いたまま答えた。その表情は漆黒の髪が隠す。 「あの日貴方に呼ばれて、幼い夢は夢のままで終わる筈だった俺の人生が変わった。今の俺は貴方無しではありえないんだ。もう貴方が、アンタが俺の全てなんだ」 そう愛を語るのと同じ言葉を紡ぐ三上の肩は震えている。私は立ち上がりその肩にそっと触れる。三上はその手を一度は乱暴に払ったが、構わずもう一度触れれば三上はもう拒まなかった。そのまま伸ばし抱き寄せた肩は、さっきまであんなにも熱かったのにもう冷えている。 「判った。判ったからもう何も言うな、三上」 私には強く抱きしめてやることしか出来ない。 「だったら!……だったら俺の気持ちを無視しないで」 ――俺を見て。 そう叫ぶ声が聞こえた気がした。だから私は本心を答える。 「お前のことは好きだ、三上。ただ、お前を愛してるなどと言う資格が私にあるかどうかは判らない」 ……三上を呼び寄せたきっかけは間違いなく竜也の代わりだった。そして、その役割を負わせている、その上寂しさを埋める存在としている、その事実は覆しようがない。 「それでもお前には側に居て欲しい」 それが大人の我が儘、狡さだとは十分承知していながら、私はそう三上に願うように言った。 「それで良いんだ、俺はアンタの側に居たい。本当にもう、それだけなんだ……」 三上はそう答え、私の胸に顔を埋めた。その胸元が冷たく濡れる。 深く引きずり込まれていくこの想いは、もう引き返せない。 決して許されることではないとは判っている。――判っていても、もう何もかも遅い。 ならば、せめて許される時間の限りはこの子を離すまい。 三上の身体をきつく抱きしめたまま、私は心の中でそう強く誓う。 しばらくそうしたままでいると、力が入り過ぎて苦しかったのか腕の中の三上が身動ぎし、私を見上げた。その目元に浮かんだままの涙を指で拭う。それでも零れ続ける涙をそのままに微かな笑みを浮かべた三上。私は両手で頬を包んで優しく口づける。そのぬくもりに胸が温かくなるこの感情――。 |
それは愛によく似て 〜期限付きのシンデレラボーイ EXTRA 1〜 2011.07.15UP |