いっそ禍々しい程見事な夕陽で赤く染まった夕方の廊下。呼び出された監督室へ向かって歩いていると目の前からは見慣れた色素の薄い髪の持ち主が現れ、俺は声をかける。
「珍しいな、水野。お前がこの時間までいるって」
 三上、と返事をし水野は顔を上げた。今年からマリノスの強化指定選手となった水野は、今ではもう武蔵森よりもマリノスでの時間の方が長く、授業が終われば早々と横浜へ向かうのが常だ。
「うん、ちょっとな」
 水野はそう歯切れの悪い返事を寄越した。それに多少引っかかりはしたものの、俺は訊く。
「向こうはどうなんだよ。プロってやっぱ良いか?」
「俺なんてまだまださ」
 そう言う水野の返事は以前からは考えられないものだったので、俺はついからかいたくなる。
「へぇ、坊ちゃんでも殊勝なこと言えるんだ」
 その俺の言葉にピクリと水野の額が動くのはもう条件反射みたいなものだけど。いつもの苦情はいつもとは違う表情で返された。
「だから、坊ちゃんってのはやめろって。……あのさ、三上。あの話――」
 雰囲気からその続きで何を言おうとしてるか察した俺はそれを遮って、
「だから、何度言われても俺の返事は変わんねーっての」
 そう答えて、またか、とここしばらく繰り返されてるやりとりに俺は溜息を吐く。そんな俺に、
「三上、聞けよ!」
と、怒りながらもどこか悲しげな目で俺の袖を掴んだ水野。俺はその手を、腕時計を見る振りして払いながら言う。
「そろそろ戻れよ、もうこんな時間だぜ?」
 自分ではロクに見ずにそう俺が時計を指させば、水野は横浜までの所用時間を思い出したのか「ああ、またな」と、慌てて玄関口へと向かった。多分気のせいじゃなく、以前より少しだけ逞しく感じるその水野の背中を俺は見送り、自分も監督室へと向かう。

 教室のよりも重い扉にコンコンとノックすると「どうぞ」と部屋の主の返事があった。
「三上です。失礼します」
 そう言って俺は部屋に入る。監督の机の前に立ったものの、俺を呼んだ当人は座って書類に目を通したままで、しばらくしてキリがついたのかようやく顔を上げ俺を見た。
「そういえば、水野が来てたみたいですけど、どうかしたんですか?」
 俺はそう自分から監督に話しかける。すると、
「ああ、頼まれ事をされてな」
と、答えて苦笑する監督。その笑い方から察するに監督はその頼み事とやらを引き受けた様子だ。一体何だろう?と俺が少し首を傾げると、監督はこう言った。
「お前にもう一度10番を、とな。私も同じ考えだったからお前を呼んだ」
 その言葉にああ、と俺は頭を抱えたくなった。代わりに軽く溜息一つ吐いてから俺は答える。
「確かに水野からは何度も言われましたよ。けど、俺は……」
 そう、マリノスの強化指定選手になった水野は選手権には出られない。けれど、だからといって俺は簡単に10番をもう一度着る気にはなれなかった。勿論、絶対に着たくないと言ったら嘘になる。でも、俺は水野がこの学校にやってきた時、気持ちを、覚悟を決めてあのユニフォームを譲った。託した、封印した思いを「最後の冬」だからと簡単に解き放つわけにはいかないのだ。そのことは監督だってよく判ってる筈じゃないか。そう思いを込めて全部は言葉にせず俺は目の前に座る監督を見つめる。その俺の視線を受け止めて、
「お前が覚悟を決めてその背番号を渡したのはよく判っている。だが、だからこそ竜也は、今、お前に背負って欲しいと願っているのだろう。そして、その思いは私も同じだ」
 監督はそう言ったが、それでもやっぱり俺にはこれだけは、大抵のことは監督の言う通りにしてきたけれど、この思いだけは「はい、判りました」と言う訳にはいかなかった。
「俺に水野の代役は務まりませんよ。それもよく判ってるじゃないですか」
 俺はそう言って、わざと視線を合わせずに答えた。「三上」と困ったような声で俺を呼ぶ監督。その声に俺は監督の顔を見る。視線が合うと監督はこう言った。
「ただの代役に10番など渡さんよ、私は。竜也だって、そうだろう。お前だって、よく判るだろう、その気持ちは」
「判ります。けど、俺は――」
 俺がそう答えかけたその先を遮るように言われる。
「名門校が10番なしじゃ格好がつかんだろう」
 そう言った監督はニッと微笑んだ。俺は再度その視線を逸らして俯く。そしてぽつりと呟くように訊いた。
「……俺で、良いんですか?」
「三上」
 今度は強い声で呼ばれ、ハッと俺は顔を上げた。
「お前の他に誰がいる」
 そう言って監督は席を立ち俺の横に立った。俺は監督と向き合う。監督はポンと俺の肩に手を置き俺の瞳をみつめると優しく、でも力強く言う。
「お前が、私の誇る武蔵森の10番だ」
 そう言われて嬉しくない筈がない。俺はずっと誰よりも、ただ貴方に必要とされたかった、認めて貰いたかった。それだけでここまで来たのだから。
「――ありがとうございます」
 俺はそう答えて、深々と一礼する。



 真冬の国立。晴れ渡ったその空に審判の長い笛が響き渡った。
 背番号10をつけて、俺はそのピッチを駆け抜ける。














 そして、終わりの時は告げられた 〜 期限付きのシンデレラボーイ 5〜














 卒業式の後、クラスメイト達と別れの挨拶や新しい連絡先の交換などしてからコートを羽織り教室を出て歩いていると、廊下で監督と顔を合わせる。式の後なので監督はいつもとは違うきっちりとした礼服姿のままで、手にはトレンチコートを持っていた。
「三上、ちょっと良いか」
 そう言われるのに「はい」と俺は返事をして、監督の後ろをついて歩いて行く。
 式が終わってもどこの教室でもまだちらほら人が残っていた。
 卒業は終わりじゃない。むしろ次への新しい始まり。自分のクラスにも結構居たが教室に残っているのは二次試験に向けて最後の追い込みをしている国公立組が中心だろう。誰もが自分の未来をかけてそのことだけに集中している。
 本来なら自分もその一人の筈だったが、選手権の前にJ2のクラブと複数の大学のサッカー部から話があり、俺は大学のサッカー部を選んだ。サッカー選手にはなりたいが先のことを考えると大学も出ておきたい、それも出来れば親に負担をかけず、とそう監督に伝えれば、監督は俺に一番良い大学を選んでくれた。おかげで推薦で受かり、学業成績の面からも奨学金が出て学費の心配はほとんどしないで良くなった。俺は監督に感謝する。
 ――そう、色々あったけど監督には感謝することばかりだ。俺はその、背中を見て歩きながらそう思う。
 卒業式の後の特有の空気の残る学校内を、まるで二人名残惜しむように歩いて、やがてたどり着いたのはいつか来た裏庭だった。ほとんど人の来ることのないこの裏庭。そんな場所なのに季節になれば誰にも知られずとも咲き誇る1本の桜の木。それを俺もこの人も知っている。でもまだその季節までは少しあって、暦の上では春でもまだまだ寒い。寒の戻りなのか先月よりも冷たい風が俺と、監督のトレンチの裾をパタパタと揺らしていく。俺は思わずコートの襟をかき合わせた。
「明日にはもう寮を出るそうだな」
 桜の木の枝を蕾を探すように見上げながら監督がそう言った。
「はい」
 俺はそう答える。元より持ち込んでいた私物は少ない。昨日のうちにほとんどの物を段ボールに詰め、宅配便で大学のサッカー部の寮として借り上げられてるアパートへと送った。あとはとりあえずの着替え等を旅行用のボストンバッグに入れて、そのまま電車で都内の新しい寮へと向かうだけだった。そのことを伝えると、監督は俺を見て少し顔色を曇らせて訊いてきた。
「実家には帰らなくて良かったのか?」
 俺はそれに首を横に振って、それから笑って答える。
「俺に立ち止まってる時間はありませんよ」
 言葉通り、努力しなければ高みには届かない俺には時間が惜しい。だけど、本当はそれだけじゃない。今、立ち止まったらきっと振り返ってしまう。振り返ったら先へ進めなくなってしまう。だけど、そんな事は決して言えない。だから、笑った。それを監督がどう思ったかは判らないが、
「そうか」
とだけ監督は言った。
 そこで俺は、この日が来たら言おうと決めていたことを口にする。選手権が終わった時からずっと決めていた、その言葉。
「――貴方は帰るべきです。家族のところへ」
 俺はまっすぐと監督の瞳を見つめて、そう言った。強い風が吹いて髪を揺らし、俺の視界を奪う。
 少しだけ間があった。監督もじっと俺を見つめてきたが、やがて空を見上げるとぽつりと呟くように答えた。
「……そうだな」
 その返事は予測出来ていた。監督と水野との関係。更に監督の機嫌が良い時に、水野が真逆の反応を示してる辺りで、なんとなくは想像できていた。近くに居れば余計にそれは判ってしまう。……そう、ずっと一緒には居られない。そんなことはとっくに判っていた。ただ、自分から終わらせることは出来なかった。こうやって卒業してここを出てかなければいけなくなる、繋がりが切れる、今日までは。
「今まで本当にありがとうございました。お世話になりました」
 俺は意識してにっこりと微笑んでから、それ以上表情を見せないように、深々と頭を下げてそう言った。けれど下を向いてしまえば今度は重力のまま目から何かが零れていきそうで。慌てて俺は頭を上げると、くるりと背を向けた。
 最後にもう一度顔を見たかった。そうは思ったけれど、多分視界が滲んで見られないし、最後に見せるのがこんな顔なのは格好つかない。見られたくない。
 だけど、そんな俺の気持ちなどお構いなしに監督は俺の名を呼ぶ。
「三上!」
 ――振り返ってはいけない。振り向いたらきっと挫ける。
 だけど、俺の決意など無視して監督は、すぐ側へと寄ってきた。肩をグイと掴まれ、強引に振り向かされる。
「これを」
 そう言ってスッと外したネクタイピンとカフスボタンを監督は俺の手に握らせた。それを俺が確かめる間もなく、痛いほどに抱きしめられる。強引な口づけ。頬を何かが伝って、そのまま監督のペースに流されそうになるのを押し止めて俺はドンと監督を突き放した。余韻を残さぬように、未練も残さぬように。それに驚いたように目を見開き俺を見る監督。
「みか――」
「サヨナラ、監督」
 それだけ言って俺は全速力で走り出す。
 ……さようなら。俺の、俺だけの……。

 出会わなければ、ここに居る事はなく。
 出会わなければ、才能に、愛に、苦悩することはなく。
 出会わなければ、それらの喜びを知ることもなく。
 貴方に出会ったから、今の俺がある。
 ――貴方は俺の全てだった。

 誰よりも愛していた。貴方の為ならばこの身すべて差し出せた。
 だけど、だから、さようなら……。

 仰げば尊し、我が師の恩。
 式で歌ったばかりのそのメロディが、溢れ出るような想いと共に、街を走り抜ける俺の頭の中で繰り返される。

 勢いにまかせてどこをどう走ったのだろうか。よく覚えてはいないが、習性のなせるわざか、気がついたら自主ランニングでよく来る川岸にたどり着いていた。その土手を駆け下りて水面のすぐ近くに寄る。走っているうちについ握りしめられていた拳を開く。
「馬鹿みてぇ」
 そう呟いた俺の手の中で、キラリと光るシルバーのネクタイピン。曇りのない上品な輝きを見せるそれはプラチナなのかもしれない。あの家で、月産自動車に入ったときの初任給で背広を仕立てた時に一緒に買った、などと聞いたのが遠い昔のことにさえ思える。裏返して見ればご丁寧に「S.Kirihara」と名入れされていた。
 もう、終わったのだからどうでも良い。思い出の品なんかいらない。そう思って川に投げ捨てようと振りかぶって、何度繰り返してもやっぱり途中で止まってしまう腕。まるでピッチャーの真似事。だけど、結局捨てられなかった。……捨てられるわけがなかった、俺の過去は。俺はそのネクタイピンを自分のネクタイの内側、見えない方にそっと付けた。

 未練も残さぬと決めたなら、いつか思い出に出来るだろう。今、すぐには無理でも。
 だから、今だけは許して欲しい。貴方を想って泣くことを。
 
 幾度となく頬を伝っていく涙。その瞳で見えるのはぐちゃぐちゃになって色だけの世界。
 春先の強い風がどこの学校からか鐘の音を拾って、この空へ流していく。



 ・・・・・



 ――あれから、どれだけの月日が経ったのだろう。新生活の為に仕立てたばかりのスーツを着た俺は懐かしい母校の校舎を見上げる。大学の時、教育実習で来たことがあるがあの時は俺の他にも同じ教科の実習生がいて、クジに負けてしまった俺は女子部に回されたので、ここに立つのは高校を卒業して以来だ。3月の強い風がネクタイを揺らそうとするのを、何年経っても輝きを変えないプラチナのピンが留め、スーツの裾だけがはためく。
 そんな俺の背中にかけられる声。
「久しぶりだな」
 振り向かずとも誰と判るその声。聞き慣れたその声。もっと揺らぐかと思った感情は、ただ懐かしさのみをこの身に伝える。
「監督」
 振り向いたそこには、記憶とほとんど違わぬ姿の桐原総一郎が立っていた。服装も相変わらずのYシャツとスラックスにジャンパー。そういえば老け顔はある一定の年齢で時が止まるんだっけなどと、どうでも良いことを俺は思い出した。いや、思い出す余裕が今の俺にはあるんだろう。
「これから理事長室か」
 そう訊かれて、俺は答える。
「ええ。その後、職員室で挨拶させていただきます。サッカー部の方々とはその後で」
 新米教師兼コーチの1日目は挨拶回りだった。もっともあれから10年以上経っててても6年いた母校だけにほとんど勝手知ったるなんとやらではあるけど。
「しかし、またお前と一緒にやれるとは思ってもみなかったな」
 監督は俺の横に立つとそう、しみじみと言った。
「俺もですよ」
 俺が在学してた当時のコーチ達は幾人か他校の監督として引き抜かれたりしたそうで、ちょうどJのチームの退団が決まってセカンドライフをどうしようか考えてた俺は、その話を渋沢から聞いて母校に問い合わせた。指導者のライセンスは選手時代に講習受けに行って取れていたし、大学時代に数学の教職課程を取っていたこともあって、定年を過ぎても勤めていたが体力的に限界になったと言う恩師の代わりに数学の非常勤講師、兼コーチという職にありつけることになった。面接は理事長とのみだったが、その際に上位のライセンスも取りに行かせてくれるとまで言って貰え、俺としてはこれ以上ない就職先だった。コーチの引き抜きがなければ俺は多分そのまま所属先だったJのチームで勧められたままスタッフに回っていただろう。
「大学、Jリーグの経験もあるお前には期待してる、『三上コーチ』」
 そう監督はニッと笑って言った。
「監督――」
「私の片腕としてその経験を生かして欲しい。お前なら優秀な指導者になれるだろう。いつかは私の跡を継ぐような、な」
 そう言ってほんの少しだけ遠い目をした監督。その理由は引き抜かれたコーチか、それとも水野か。けれど、水野が武蔵森の監督になることはまずないだろう。今や日本を代表するMFだ。あの顔だけに女性にも人気があって、引退しても解説やらマスコミ各局が放っておかないだろうし、指導者になるにしてもトップリーグからだろう。だけど、だ。だからと言って俺に監督の跡が継げるんだろうか。
「……俺で良いんですか?」
 そう思わず訊いてしまったが、それはいつか言った言葉だと口にしてから気がつく。果たして彼は覚えているだろうか。
「お前の他に誰がいる」
 そう言って微笑んだ監督。差し出された片手を俺は強く握り返す。



 深く触れあったことはすべて終わった過去。その記憶その想いはただひっそりと俺の胸の奥にしまいこまれて、もう二度と激しく触れあうことはないけれど。
 ――今度は誰の代わりでもなく、ただ俺は俺として、貴方を支える。



2011.07.08 UP