深夜のハイウェイを疾走するスカイラインは首都高を抜けてアクアラインへとスピードを上げた。やがて車は長い海底トンネルに入って、カーステレオのラジオは妙に高いテンションの喋りを止める。代わりにスピーカーから溢れてきたのは激しいノイズの洪水。運転席からさっと伸びてきた手がスイッチを押せば、ノイズはぴたりと止んでスピーカーは沈黙した。
 口を結んだままステアリングを握っている監督。何も言わない助手席の俺。
 一度だけ、追い抜いて行った血液輸送用の救急車のサイレンにドキリとしたが、後はエンジン音と他の車が駆け抜けて行く音が聞こえるだけで。
 俺はただ助手席の窓からコマ送りのような、何処までも続くトンネルの灯りを眺めてた。












   警鐘  〜 期限付きのシンデレラボーイ 4 〜












 就寝前の自由時間。コンピュータ室には珍しい先客が居て、俺はその背中に声をかけた。
「よぉ、坊ちゃん」
「……だから、その坊ちゃんってのいい加減やめろよ三上」
 そう言いながら椅子の座面ごとくるりと振り向いたその顔は予想通り片方の眉だけつり上がっていて、水野は俺の顔を見るなり溜息を吐いた。
「別に良いじゃん、他意はねぇって言ってるだろ。つーか、お前こそいい加減慣れろ」
 そんな俺の軽口にやれやれと肩をすくめることで返事をして水野はPCへと向き直る。俺はその横に並んで水野の見ていた画面を覗き込む。その液晶モニタに映し出されていたのはちょうど俺も見ようと思っていたもので。
「どうなった?CLの結果。今朝見られなくてさ」
 そう俺が訊くと、PCの画面を見つめたまま水野はこう言った。
「聞いたよ。起こしても蹴られたって、いい加減可哀想だよな近藤先輩」
 言いながらその横顔がニヤッと笑ったのが腹立たしいが、事実なので仕方ない。
「……ったく近藤のヤツ、余計なことを」
と、舌打ちするに留める。それに水野がマウスをカチカチとクリックしながら、こう返した。
「それにしても珍しいな。アンタが遅刻ギリギリって」
 それは坊ちゃんの仰る通りで。確かに寝起きは悪いがそれでも遅刻したことは無し。むしろ、いつも早いくらいだ――早めに起こしてくれる同室者のおかげでもあるんだろうが。
「なんか寝つき良くねぇんだよな、最近」
 俺がそうぼやく様に答えると、水野は俺を振り返って眉を顰めて言う。
「そうなのか?体調崩すなよ」
 それに俺はニッと笑って答えた。
「ヘイヘイ、気をつけます。坊ちゃん」
 そう聞いた瞬間、水野は明らかに心配して損したという顔をして、
「……CLの結果くらい自分で見ろな」
と、しかめっ面で言うので、俺は大人しく水野の後ろの席に着いてPCを起動させる。
 CLの結果を確認してからサッカー系のサイトを巡っていると、これまたこの時間には珍しい人物――同室者――がやってきた。
「どうした?」
と、近藤に訊けば、
「電話が入ってる」
 そう教えてくれた。多分寮母さんが部屋に知らせに来たが不在だったので、わざわざ近藤がここまで来てくれたのだろう。
「悪ぃ、サンキュ」
 そう近藤に言った後で、誰からかと聞いておけば良かったのだろうか。その時、俺は深く考えずにロビーへと向かってしまって。
 ――出た電話は実家からのもので、あまり好ましくないものだった。
「何を今更……」
 人の居ないロビーのベンチに座ってそう呟く。天井を見上げて長い長い溜息を吐きながら。
「三上?どうかしたのか?」
 PCを付けっぱなしにしたまま、いつまでも戻ってこない俺が気になってやってきたのだろう、水野がそう訊いてきた。
「別に、ちょっと家族が倒れただけ。何でもねぇよ」
 俺が素っ気無く答え立ち上がってコンピュータ室に戻りかければ、水野は驚いて俺の肩を掴んで引きとめようとした。
「だけってお前!行かなくて良いのかよ。こんな時間に電話が掛かってくるなんてよっぽどだろ?」
「――行かねぇよ」
 そう語気を荒げて、パッと水野の手を払った。
 ……そうだ、来いって言われたって。
「今更どうしろっつーんだよ、あんな親父」
 思わず零れてしまった本音は水野の耳に届いていて、水野は一つ溜息を吐いてからぽつりと呟くようにこう言った。
「俺もそう思ってたよ、ずっと」
「何を――」
と、言い返しかけて俺はハッとする。中学の頃、水野の転入話が持ち上がった時、水野のその思いを利用したのは誰だ?俺じゃないか。
「でも今は違う。だから、俺はここに居る」
 そうは言われても俺とお前は違う、と返そうとしたが何か思いつめたような水野の顔に出来ずにいれば、畳み掛けるように水野に
「どこの病院だって?」
と訊かれて、俺は素直に病院名を答えてしまう。その返答を聞くなり水野は、
「ここで待ってろ。良いな!」
 そう俺の両肩を掴んで言うとロビーを飛び出して行った。
「待ってろって……どうするつもりだよ」
 例え行く気になっても、今からでは電車じゃ俺の地元にはたどり着けない。車でもあれば話は別だが、タクシーではとんでもない金額になる筈だ。
 そんな事を考えてるうちに水野が戻ってきて、俺を外へ連れ出そうとする。
「だから、何なんだよ!水野」
 強く抗議しても聞く耳持たず、良いからとにかく来いと、俺の腕を強く掴む水野に引きずられるようにして出た寮の門の外には何度か見たことのある青のスカイラインが止まっていて、下げられた運転席の窓から出てきた顔に俺はハッと目を見開いた。
「……監督?」
「乗りなさい、三上」
 そう言われても突然のことに呆然と立ち尽くしている俺を、見るなり監督は降りてきて助手席のドアを開けると半ば強引に俺を押し込む。そして、それを見守っていた水野にこう指示した。
「竜也、三上の上着と荷物を持ってきてくれ」
「判った」
 監督の言葉に頷いて水野は寮へと走り出す。程なく戻ってきた水野は俺のいつも着ている私服の上着と財布と携帯の入ったトートバッグ――多分置き場所は近藤に訊いたのだろう――を監督に渡し、受け取った監督はそれを後部座席に乗せてからシートに戻る。
「ありがとう。後で連絡しておくが、とりあえず同室の近藤と寮母さんに説明しておいてくれ」
 エンジンをかけながら監督は水野にそう言った。それに水野は頷きながら返す。
「判った。あと、渋沢にも言っておいた方が良いよな」
「そうだな。すまんが頼む」
「こっちこそ」
 ――監督と水野のそのやりとりは羨ましいくらい、親子のものらしかった。



 出発してからずっと無言のまま、スカイラインは長い海底トンネルを出て、海ほたるをも通過して今度は長い海上の橋へと進んでいく。そこでようやっと監督が口を開いて俺の名を呼んだ。
「三上」
「……何です?」
 俺は窓の外、東京湾のコンビナートの灯りを見つめながら、監督を見ずに答える。
「余計なことだったか?」
 そう言いながらこちらをちらっと見たようだが、あえて目は合わせないままで俺は素っ気無く答えた。
「そうだと言ったら引き返してくれるんですか?」
「いや、それは出来ないな」
 その返答を聞いて俺は長い溜息を吐いた。
「……水野は何て言ったんですか?」
「親が倒れたと言うのにお前が行かないと言い張っているから、無理にでも連れて行ってくれとな」
 ――多分、水野は何も知らない。知らないけど、俺が監督に弱いのには気付いているんだろう。その訳を知ったら水野はどうするのだろうか。
 そんな事をちらりと考えながらも、俺は自分が実家に戻りたくない訳を話し始めた。
「勝手な親父でしたよ。絵描きだかなんだかよく判んねぇけど、さっぱり売れない癖に好き勝手生きてた。死んだ爺さんの残してくれた資産は親父がほとんど使い果たしちまって。なのに家にもほとんど寄り付かないでふらふらしてて。芸術家ってのはそう言うもんだからって、お袋はいつも笑ってたけど、気持ちもお金も無理してたのくらい子供の俺でも判った。それが今更病気だなんて、笑わせてくれる」
 言いながら本当にクッと暗く嗤ってしまう。
「本当に何処までも勝手な……」
 そこまで言いかけた時、監督は
「私も大差はない」
と、俺の言葉を遮った。
「監督は違います」
 俺はそう言って監督の横顔を見たが、監督は首を横へと振った。
「竜也も私を憎んでたな、私が倒れる前までは」
 ……あの時、水野を焚き付けた苦い思い出。結果、監督は倒れた。その苦さと一緒に唇を噛み締める。
「あの頃私は竜也が判らなかった、そして竜也も私が判らなかった。だが、今は少し判ったような気がする、だから」
 そこで監督は言葉を切ると俺をちらりと見て、こう言った。
「万一のことがあった時、お前に後悔して欲しくない。だから、会いなさい」
 その言葉の優しさに俺は息が詰まりそうになる。



 東京から一度も休憩も取らずに走り続けたどり着いた郷里。父が運び込まれたのは市内で一番大きな総合病院だった。救急車のサイレンが酷く近くに聞こえる時間外出入り口から入れば、すぐに
「亮」
と、俺を呼ぶ声と共に目の前に立っていた母。久しぶりに会った母は少し痩せていたが、気丈さは変わりないようだった。振り返って監督を見ると、監督は頷いて
「行きなさい」
とだけ言った。それに頷き返して母について奥の集中治療室へと進み、ガラス越しに父と数年ぶりの対面をする。そこで俺は既に処置は終わり、後は目覚めるのを待つだけだと告げられた。そして、それにほっとする間もなく、俺は今まで知らなかった事実を母から知らされることになる。
 ――それは、父に持病があったこと。俺が子供の頃にも一度倒れ、その時の後遺症で利き手が思うように動かせなくなっていたこと。そもそも家の跡――今でこそ没落しているがそれでもそれなりの旧家の家業――を継がなかったことに負い目があって、その上絵も描けなくなったとあっては家に居るのも居た堪れず、半ば放浪の旅に出ていたこと。そして、やっぱりどうやっても絵を描くのを諦めきれなかったこと。
 ……俺は何も知らなかった、何も知らない子供だった。
「何で、何で何も言ってくれなかった?」
 窓ガラスの向こうで眠り続ける父に、俺はそう訊いた。
 ……小学生の俺がサッカー選手になりたいと言った時、「趣味にしておいた方が良い」とやけに反対していた理由がようやく判った。そして、監督に見出され武蔵森への推薦が決まった時、今度は「覚悟を決めなさい」と一言だけ言った理由がようやっと判った。父は才能の世界で生きていくことの辛さと、それでも諦めきれず突き動かされる情熱を知っていたからだ。己でも持て余して思う程に。
 ……だけど、その理由を俺は知らされないから、俺のことなどどうでも良いのかと思ってしまっていたんだ。
「黙ってねーで答えろよ。早く起きろよっ!」
 そう怒鳴りドンッとガラスを叩いてしまう俺を母や看護師が羽交い絞めにするが、それでももがく。が、そうしているうちに不意に力が抜けてストンと俺は床に膝をつく。ガラスに残っていた右手も力が入らなくなって、撫でるようにして落ちる。そして、その手と共に零れ落ちたのは父を呼ぶ声。

「――父さん」

 ……本当はずっと心配だった。勝手な人だと憎んでたって、やっぱり自分の親だ。
 中学から地元を出て行くことに何の躊躇いもなかったのは、勿論サッカーをやりたかったからだけど、父を良く言わない周囲に耐えられなかったのも大きかった。
 ……お父さんを悪く言わないで、本当はそんな人じゃない。
 何度そう言い返そうとしただろう。
 俺は幼い頃優しかった父を覚えている。あの漆黒の瞳の中に熱さを秘めた眼差し。俺と一緒に絵を描いてくれたこともあった。だからこそ、あの頃の父であって欲しい、ちゃんとした父親であって欲しいと望んでいたんだろう。せめて「行かないで」と泣いて引き止めたのに振り返って欲しかった。憎しみは愛情の裏返し。本当、その通りだ。でなければ、俺は監督に惹かれたり、好きになったりなどしなかった筈だ。
 視界が涙で滲んで、零れそうになったその時。
「亮」
 そう俺を呼ぶ声が聞こえた気がして、俺は慌てて立ち上がる。バタバタと看護師と医師が病室へ入っていって、まもなく母と俺が呼ばれた。
「もう大丈夫でしょう」
 そう言って微笑み去っていく医師。母がそれに礼を言って頭を下げるのに、俺も一緒に頭を下げた。そして、俺は父のベッドの横に立つ。父が俺の顔を見つめる。
「亮」
 今度は、はっきりと聞こえた。俺はしゃがんでシーツの上の手を取ると一言、ニッと笑って言った。
「――バカヤロウ」
 涙が頬を伝っていくのを片手で拭って、俺は掴んだ手を握り締めた。



「監督」
 ガランと人気の無い広い外来棟のロビーのソファで監督は座ったまま眠っていたようだ。俺の声に目を覚ました監督に、俺は自販機で買ったお茶を差し出した。
「ああ、すまんな。どうだ、容態は?」
 そう訊く監督の横に座って俺は笑顔で答えた。
「さっき目を覚ましました。もう大丈夫だそうです」
「そうか、それは良かった」
 監督が軽く微笑んだ。それに、俺は立ち上がって、
「本当にありがとうございました」
と、監督に向かって深々と頭を下げた。
「構わんよ。……いいから」
 そう言われ、頷いて座った。
「それより、付いていなくて良いのか?」
 監督がお茶を一口飲んでそう訊いてきた。俺はそれに首を振る。
「多分、それは望んでいないと思います」
「そうか」
 監督はそう頷くとポンと俺の肩に手を置いた。

「少し休憩をするが、構わないな?」
 まもなく海ほたるというところで、監督がそう言ったので俺は頷いた。
 缶コーヒー片手に手すりに肘をついて俺は海を眺める。ボゥーという船の警笛が遠くに聞こえて、足元からの波の音に少し冷たい強い潮風。横に立っていた監督の手に、強く肩を抱き寄せられる。
「俺は何も知らない子供でした」
 そう呟くように俺は言った。監督の手が俺の髪をすっと優しく撫で、監督はこう答えた。
「親にとってはいつまでたっても子供は子供だ、たとえ大人になってもな。余計な心配をかけたくなかったのだろう。私もそうだった。だから……判って欲しい」
 それは許しを請うような声音で、俺は静かに頷く。
「はい」 
「お前も疲れただろう、帰りは少し眠った方が良い。今日は休めば良いから」
 今日と言われて、すっかり日付が変わっているどころか、もう夜明けが近いことに気がつく。
「監督は?」
 俺はふと気がついて訊いた。それに監督はしばらく考えるような顔つきをして、それからふっと表情を緩めて答える。
「そうだな。有休はあるし、まぁ、スケジュール的にも何とか休めるだろう」
 その答えに俺は驚いた。
「まさか、それも確認せずに連れてきてくれたんですか?」
 俺の問いに監督は口をへの字にして返す。
「それくらいしかお前にしてやれないからな、私には。……三上?」
 俺は監督に抱きついた。それに戸惑っていた監督も、俺の背中に手を回すと強く抱き返してくれた。



 目を開けると、見慣れぬ木目の天井。半身を起こしてぼんやりとした頭のままで、昨晩のことを思い出す。あれから車で少し眠ってしまった俺は、寮には帰らずそのまま監督の家で休まされた。いや、寮に帰ると言い張ったが、眠れない日が続いていたせいか結局睡魔には勝てなかったのが正しいところか。多分、客間に布団を敷く間もなかったのだろう、俺は監督の寝室へ寝かされていた。
「三上、起きたのか」
 着流し姿の監督が顔を出した。
「おはようございます」
 俺は見上げながらそう言った。 
「もう早くはないがね」
 そう答えて監督は苦笑した。言われて時計をよくよく見ればもう昼の3時近くだ。今から学校に行ったところで、授業時間は残ってないだろう。
「俺、すっかり眠ってたんですね」
 そう俺が言えば、監督は微笑んで返す。
「無理もない。……何か食べるか?」
「はい。いただきます」
 監督の言葉にそう返事をして、俺は布団を上げてから着替えて――いつ着替えさせられたのだろうか、覚えていない――台所へと向かった。監督は俺におにぎりとみそ汁と煮物を出してくれ、俺はそれをありがたく頂いた。
「そうだ。今朝、竜也が電話してきてお前のことを心配してた」
 俺が食べている向かいでお茶を啜っていた監督が、思い出したようにそう言った。
「素直じゃないし不器用で強引だけど本当は優しいんですよね、水野は。貴方に似て」
 そう俺が返すと、監督は怒ってるような照れ笑いを見せた。それに俺は笑いながらも胸が痛む。
 ……あと少し、あと少しだけ。今以上これ以上この人には望めない。いや、望んではいけない。頭の中でサイレンのように響くその思い。
 食べ終わった後、俺が片付けているうちに席を立った監督は、いつものYシャツに着替えていた。その姿にどこへと問えば学校にと答えられる。
「私は顔だけ出してくるが、お前は門限までここにいてもいいから。ゆっくり休んでなさい」
 それを聞いて、俺は急に置いていかれるような感覚に襲われた。
 ……そう、これ以上は駄目だと判っていながら、あと少しだけ許して欲しいと願っている。そうだ、どのみち俺にはあと少ししか時間は残されていないのだから。もはや高校生活は残り時間の方が短い。
 そう思ったら知らず、監督のシャツを掴んでいた。
「三上?」
 困ったような監督の顔に、俺は掴んでいた手を離して笑顔を作った。
 ――行かないで。
 その思いは言葉には出来なかった。いつかの父のように振り向いて貰えなかったら怖いから。そして、それほどまでに惹かれてしまったことに気がついてしまったから。ならば、子供のような駄々で困らせたくはなかった。
「三上」
 そう呼ぶ声と共に降ってきた口付けに、俺は驚きながらも目を閉じ受け止めた。
「……すぐに帰ってくるから待ってなさい」
 そう言って微笑むと監督は家を出て行った。俺は頷いてそれを見送る。

 見送った後、そっと唇に触れた。そこにはまだぬくもりが残っているような気がして、俺はいつまでもそこに立って、ただ監督の帰りを待っていた。




2007.08.18 UP