扉を開けるとカランカランとベルが鳴る。昼下がりの喫茶店はやはり少し混んでいた。
「いらっしゃいませ。奥の方へどうぞ」
 見知ったマスターが私の姿を見るなり微笑んでそう案内してくれ、奥の一段下がったところにある席に着いた。テーブルに水とおしぼりが置かれ、メニューを差し出される。それを受け取らずに私は注文した。
「緑茶……いや、コーヒーを」
 ここは珍しくメニューに日本茶がある店で、結婚する前からほぼ常連のように来ているのだが、今日は何だか気分が違った。その私のオーダーにマスターは一瞬おやっと言う表情を見せたが、次の瞬間にはにっこりと微笑んで、はい、と言うと戻って行った。口数は多くなく、かといって暗くもないそのマスターもこの店を気に入っている理由の一つだ。
「お待たせしました」
 程なく出されたコーヒーを、香りが広がっていくのも楽しみながら味わう。酸味が控えめでありながら濃過ぎない私の好みの味だ。それに満足して、ほっと一息吐いた。
 年季が入って落ち着いた感じの店内にはゆったりとしたクラシックが流れている。何と言う曲だったかと思い出そうとしていたその時、声を掛けられた。
「珍しいわね、貴方がコーヒーなんて」
 聞き慣れた声に振り返ると真理子が立っていた。
「ごめんなさい、総一郎さん。待たせてしまったかしら」
 向かいの席に腰掛けた彼女はそう言ったが、約束していた時間までは10分もあった。
「いや、私が早く来ただけだ。……何にする?」
「じゃあ紅茶を」
 私の問いに真理子がそう答えたのに一つ頷くと、再度水を持って来てくれたマスターに注文した。ふと見れば、真理子はまだバッグを手に持ったままだった。私の方の席は長椅子になっておりスペースがあるが彼女の方は一人掛けだ。置き場は無さそうだったので私は手を差し出した。
「バッグ、こちらに置こう」
「あら、ありがとう」
 そう言ってバッグを私に渡した真理子がクスリと笑う。
「どうした、真理子」
 受け取ってバッグを脇に置いてから訝しげに彼女を見れば、真理子は笑顔のまま答えた。
「どうした、は貴方よ。いつからそんなに親切になったの」
「……そうかね?」
 クスクス笑う真理子に憮然としながらも、そうかもしれないとは思う。聡明な彼女にはお見通しだ。結婚する前から、していた時も、そして別れた今もそれは変わらない。












   過去と今 〜期限付きのシンデレラボーイ 3〜












「竜也のことかしら、お話って」
 上品な仕草でさりげなく、カップのふちに付いた口紅を拭いながら真理子はそう言った。
「ああ。話ついでに夕飯でも一緒にと思ったんだがな」
「ごめんなさい、今日は妹達との約束があって。これからショッピングで、夕食はあのお店なの」
 真理子が言ったのは結婚前、交際していた頃に彼女に教えて貰って二人でよく行ったフランス料理店だった。もう久しく行っていない。最後に行ったのは竜也がまだ小学校に上がったばかりの頃だったか。彼女の母のところに竜也を預けて行ったのだが、その為に竜也が拗ねたのを今でもはっきりと覚えている。
 真理子も同じことを思い出したのだろうか。
「竜也は元気?」
 そう私に訊いてきた。私はああ、と頷いて答える。
「しっかりやってくれている。チームにも学校にも溶け込んだようだ」
「そう、それなら良かった。本当にあの時はどうしようか不安だったんだけど。たまに帰ってきてもあの子、私には明るく振舞うだけだったから」
 あの時、とはトレセンでの風祭君の事故のことだろう。彼が辞めた武蔵森に自分が入ったと、そのことで竜也が一見何事も無さそうに見えて実は不安定だったのは私でも感じ取れた。だが、時間のみが解決出来ることだろうと、私はそばで見守ることにしていた。
 部でも「監督の息子」と言うことで最初は色眼鏡で見られたようだが、馴染んでしまえば固い絆で結ばれるのがチームと言うものだ。そして、その絆が傷も少しずつ癒したようだった。勿論、風祭君がドイツで回復しつつあると近況を知らせてきたのもあっただろうが。
「少しショックを引きずっていた時期もあったようだが、もうすっかり大丈夫だ。何よりプレイを見ていてよく判る」
 その私の言葉に真理子はほっとしたように微笑んだ。その微笑みに、
「それでだ、マリノスから強化指定選手として受け入れると言われててな。真理子の保護者としての意見も聞いておきたくてな」
 そう私が言えば、真理子は大きな目を更に開いたがすぐに微笑んで、
「勿論、私は竜也が良ければそれで良いわ」
と、にっこりと笑いながらそう答えた。
「そうか、私も竜也次第とは先方に言ってあるんだが。竜也も前向きに考えているようだし、話を進めることにしよう」
 それを聞いて真理子は呟くように言った。
「貴方、何だか変わったわね」
「え?」
 私は訊き返す。真理子はぽつりと言った。
「前だったらわざわざ竜也にも私にも確認しなかった」
 ――私には反論のしようがない言葉だった。
「いつだったか竜也がね、女の人でも出来たんじゃないかってこっそり教えてくれたけど、違うみたいね」
 そう悪戯っぽく真理子は言った。出来の悪い冗談だと思いたかった。だから眉を顰めて、
「何の冗談かね。私は、真理子お前を……」
と、そこまで言いかけてその先の言葉は飲み込んでしまう。正しくは飲み込んだのではない、出せなかったのだ、私の中の何かが遮って。
「私だって、貴方が嫌いになったから家を出た訳じゃないわ」
 顔を伏せた真理子が語るのに耳を傾ける。切なげにも聞こえる声音。
「……ただ、貴方と一緒に居ることに疲れてしまっていた。それだけよ」
「すまない。私はそれにすら気がつかなかった。お前が居なくなってから私は色んなことに気がつかされたんだ」
 初めは何故だという憤り、しかし、日が経つにつれそれは後悔へと変わった。だから、
「寂しいのね」
 真理子がそう言うのに、ああ、と正直に頷く。それを聞いた真理子は顔を上げるとこう言った。
「だからこそ、寂しさと恋しさを間違えてはダメよ」
「真理子」
 彼女は微笑を浮かべている。母性を感じさせる優しい笑み。
「そろそろ行かなきゃ。ごめんなさい、また今度ゆっくりお話ししましょう」
 気がついたように腕時計を覗き込んでから真理子はそう言った。
「ああ」
 頷きバッグを渡した私に、立ち上がりかけた真理子が思い出したように言った。
「三上くんによろしく」
「真理子、何故その名を」
 驚く私に真理子は片目を瞑って、
「竜也がよくしてくれる先輩だって教えてくれて、うちにも一度来てくれたわ。彼、竜也のこと判ってくれてるみたいだから、ひょっとしたらと思ってて。多分貴方のことも良く判ってるわ。だから、大事にしてあげなきゃダメよ」
 そう言ってニッコリと微笑むと彼女は去っていった。その後姿を見送りながら私は思い知らされる。……結局のところ、いつまで経っても敵わないのだ彼女には。その美しく聡明なところに惹かれた。彼女が支えだった。だが、それを良い事に私は甘えすぎ、彼女を家庭へと閉じ込め、いつしか追い詰めることになってしまった。
 彼女が結婚前に使ってた古い旅行鞄を掴むようにして飛び出て行って、その後を追って一緒に竜也も出て行ってしまったあの日。あの時と変わらないふんわりとした残り香の上等の香水、細く白いうなじ。あんなに近くにあったのに、今は届かない。彼女は自分で生きる道を選んで、いきいきとしている。それは彼女の耳の、見慣れぬ真珠のイヤリングが物語っている。
 せめて、あの頃彼女にもっと優しい労いの言葉が言えたのなら。気の利いたプレゼントの一つでも贈れたのなら、もっと彼女自身の為に日々を送らせていたのなら二人の道は違ったのかもしれない。もう一度やり直したい、そう幾度思ったことだろう。なのに、
「待ってくれ」
 その一言が言えない。今も、別れたあの時でさえ言えなかったその言葉。
 いつになったら素直に言えるのだろうか。言えたのなら変われるのだろうか、私は。



 店を出て、薄い雲が陽を遮って少し暗い街を歩く。向こうから小さな男の子が風船を片手に母親の手にひかれて歩いてきた。その親子とすれ違ったその時、男の子が何かに躓いたようで、転びかけたのを何とか支える。はずみで風船は高く飛んでいってしまった。
「大丈夫かい?」
 私が訊けば、コクリと頷いたその子。まだ幼稚園くらいだろう。
「すみません、ありがとうございます」
 母親がそう詫び、礼を言った。その母親の顔が、顔立ちは全く違うのに眼差しが真理子のものに似ていて内心はっとさせられる。
「いえ」
 私はイメージを打ち消すように軽く首を横に振って答えた。
「ママー……」
 風船が無くなっていることに気がついた男の子は不安そうな顔をし、母親を呼びながらぴったりとくっついた。
「ほら、おじちゃんにありがとうしなきゃ。怪我しないで済んだのよ。……本当にありがとうございました」
 そんな母親の声に、その子は私を見ると
「ありがと」
と言ってぺこっと頭を下げた。
「気をつけて歩くんだよ」
 そう言って私は男の子の頭を撫でて微笑むと、踵を返し家路へと急ぐ。あの年頃の時の竜也はどうだったかと、そんなことを思い出して、失ったものの大きさを改めて感じさせられる。気付けば私は携帯電話を手にしていた。3コール目で繋がった電話。
「……三上か?」
「三上ですよ、監督。というより当たり前じゃないですか、俺の携帯なんですから」
 三上が回線の向こうで苦笑している姿は容易に想像出来て、ムスッとしながらも私は続ける。
「すまん。――それより出て来れないか?」
「え?……一体どうしたんですか、そんな、急に」
 三上が戸惑うのは無理も無い。今まで出て来て欲しい時は前日には伝えていて例外は無かったのだから。無論、寮だからというのもあったが。だがそれでも、どうしても今、誰かにそばに居て欲しかった。いや誰かではない、三上だ。今の私でも判ってくれる、許してくれる、受け入れてくれるのは。だが、
「……来てくれ」
 搾り出すようにしてようやく言えたのはそんな言葉だった。
「何かあったんですか?」
 切羽詰ったものを感じたのだろう、三上は訝しげにそう問いかける。
「――来て欲しいんだ」
 ただ、来て欲しい。その思いだけが逸り、それ以上は言えなかった。しばらく続いた沈黙がやけに長く感じて、
「……判りました」
 根負けしたと言った感じで、溜息と共に三上がそう言った。恐らく半ば呆れているだろう。だが、それでも構わなかった。




「具合が悪いんじゃないんですね」
 部屋へ入り、ソファに座った私の顔を見るなり三上はそう言った。それに頷いて答えた。
「ああ」
「良かった、また胃でも悪くしたかと思いました」
 ほっとした表情で三上がそう言う。余計な心配をかけてしまったと私は詫びる。何分前科がある。
「すまない」
 私がそう言えば、上着をハンガーにかけていた三上は僅かに首を傾げ私に訊いてきた。
「どうしたんですか?何かあったんですか?」
「……いや、ちょっとな」
 三上には言えなかった、別れた妻と息子への未練など。こうして来てくれただけでも感謝しなければいけないのだろう。だが、三上は、私が言葉を濁したことを別の意味に取ったようだ。
「――俺じゃ、役には立ちませんか」
 顔を伏せてそう言った三上は、こう続ける。
「俺は、水野にはなれません。けれど、俺だからこそ出来ることがあるんじゃないかと思って貴方のそばにいるんです」
 そう言い終わると顔をあげて、真っ直ぐと私を見つめてくる。
「三上」
 立ち上がり、三上の肩へと手を伸ばした。
「監督?」
 私を呼ぶ、その黒い瞳が揺れている。それを見て強引に抱き寄せ私は言った。
「すまない、そばについていてくれ。それだけで良いんだ」
 何故彼には素直にそう言えたのだろうか。理由はよく判らないが。
「……はい」
 私に身体を預けた三上が腕の中でそう返事をした。その声は穏やかで、優しく響いて聞こえた。



 私が風呂から上がると、三上は居間のソファの上でそのまま眠ってしまっていた。付けっぱなしのコンポを止め開いたまま落ちていた文庫本を拾って、三上のその黒い髪を手で梳く。抵抗無くすっと指通りする柔らかな髪。
「ここまでしてくれるお前に、私は一体何をしてやれるのだろう」
 問えば、きっと三上は何を言うのだと笑うだろう。
 その愛おしさを言葉で伝えることは容易ではない。三上もはっきりとは口にしたことがない。だが、感じるものがある。それを信じることはいけないことだろうか。
 三上は、今の私でも受け入れてくれる。けれど、一方で変わってやり直したいと、真理子を求める気持ちがあり、竜也を求める気持ちがある。それでも良いのだと三上は言うのだろう。そこまで判っていながら、こうしている。何と狡い大人なのだろう。
 眠っている三上が身動ぎした。
「お父さん」
 そんな寝言にハッとした。そう言えば三上は長く帰省していないと聞く。事情があるとは聞いているが、それは私には他人事ではなく思われ、胸が痛んだ。
 ……そう。失ったものを取り戻したいが、それでも今は、今はこの子を抱きしめていたい。それが私の正直な想いだ。大切にしてやれる方法もよく判らない、そんな私を許して欲しい。不器用で、強引で、わがままなことは重々承知しているのだ。
 寝室から布団を運び、三上に掛けてやりながらそっと囁いた。出来るだけ優しく。
「――すまんな。ゆっくりお休み」
 三上の口元が僅かに上がって、微笑んだような気がした。


2007.02.14 UP