暦の上ではとっくに秋なのに、しつこく入道雲が残る上空。インハイが終わっても次の大会は待ってはくれない。いい加減残暑なんて言うのは止めて欲しいとさえ思う暑さにも変わらずキツイ練習が終わって。ようやっと一息つけてグラウンド隅の手洗い場で顔を洗って水を飲む俺の耳に、後ろの会話が飛び込んできた。 「俺だってビックリさ、監督の息子なんて」 「でも確か中学の入試の時は受かっておきながら蹴ったんだよな」 「あの噂が流れた時も結局は来なかったじゃん」 「また荒れるぜ、三上……って」 キッと蛇口を閉める音をたたせて、俺が顔を上げて振り返るとその声はぴたりと止んだ。そそくさと立ち去るチームメイトを、タオルで顔を拭いながら他人事のように眺める。そう、密やかに俺だけを取り残して広がる噂。それは幾度か経験のあるもので、記憶の底にあったものを呼び覚ます。 ……あれも今と同じ季節のことだったっけ。上空にうろこ雲の張り出しはじめた放課後の校庭で。リコーダーをはみ出させたランドセルを背負ったまま、鉄棒の上に座ったクラスメイトが足をブラブラさせながら話していた。それに近づこうとして、会話の内容に止まった俺の足。 「なぁ、三上って東京の中学行くらしいよ」 「でも三上んちってさぁ、お父さん……」 「シッ!本人だ」 俺の姿を見るなり、そのまま散っていった連中。小学生の頃の記憶。その時の鉄棒の影をやけにはっきりと覚えている。 ……別に父性を全く感じられない父を持ったことを恥じたりコンプレックスに感じたりした覚え、つもりはなかった。だけど、あの人に付いていきたいと思ったのは多分、そういうことなんだろう。だから、あの時、その息子が父に反発するのに、安心を覚えながらも俺はどうしようもなく羨ましくなっていたんだ。 ――あれから1年。選抜で改めて水野に勝負を挑んだつもりだったが、あっけなく敗北。けれど、その結果を受け入れたら寧ろすっきりして、水野の才能も素直に認めることが出来た。そして、あの時あの人がどうしても呼びたがったのは、それだけ自慢の息子だったってのがよく判ったから。噂が真実で、あの人が望むことならば俺はそれを受け入れようと思う。高等部でレギュラーを勝ち取る為にそれなりの努力はしてきた。今度はちゃんと真正面から勝負を挑もうと思う。それでダメだとしても、別の生き残る方法を探れば良いだけのこと。波紋のように広がる噂とは逆に、俺の気持ちは静まり返る水面のようで。ガタガタ言う周りに揺らぐこともない。その日が来るのはとっくに承知済みだ。 ……そう、俺は、期限付きのシンデレラボーイ。 鐘が鳴る時はやって来たんだ。 それでも、そのぬくもりは 〜期限付きのシンデレラボーイ 2〜 ……昼食を食べた後はどうしてこんなにも眠いもんなんだろうなぁ、とそんなことをぼんやりと思う昼休みももう終わり近く。5限は世界史。資料集を忘れたことを思い出して、欠伸を一つしてから俺は席を立つ。違うクラスのヤツのところへ借りに行ってから、教室に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる監督の姿が見えた。いつも通り挨拶をしてそのまますれ違おうとしたその時。 「三上」 呼ばれて振り返り「はい」と返事をした。 「お前が探していた資料だが、うちにあったから今度取りに来なさい」 監督はニコリともせず無表情にそれだけ言って、踵を返す。その背に、 「ありがとうございます」 と、礼を言いながらも、それくらい持ってきてくれれば良いのに、と心の中で悪態を吐く。でも、それもいつものこと。何のことはない、単なる口実。俺としてもその方が監督の家に行きやすいのは事実だったから、多少の強引さには目を瞑る。…いや、瞑りっぱなしなのかもしれない。そう思いながら、不器用で、強引で、多くを語ってはくれないその背が去っていくのを、俺はただ見つめる。予鈴が響くのをどこか遠くに耳にした――。 その週の土曜は束の間の休息日。久しぶりにたっぷり寝坊してから新宿に出て、ファーストフードで昼飯を食べてから、先輩から頼まれたCDや本を買って、ついでにヨドバシを覗いてはPCなんかのウィンドショッピングを楽しんだ。パシリの側面も大きいけど、街に出るのはかなり良い気分転換にはなるから「すまないが」と頼まれれば、俺は嫌とは言わなかった。でも、片手のメモに目を落として最後に残ったものには頭を掻く。 「ったく、渋沢のヤツ……お茶の種類なんてわかんねぇっての」 一口にお茶、と言っても緑茶だけでも産地や銘柄は色々ある――たしか、あの人もそれなりにこだわっていたと思う――。そこへ老舗和菓子屋の息子とくれば、相当良いものを飲んでることだろう。仕方ないので、百貨店でそれなりに良いものを店員に見繕って貰って、ついでに手土産も一緒に買ってから監督の家へとむかった。 ここを曲がってから3つ向こうの角を、もう一度曲がれば目的地、という所でバッタリと出会った人物に、思わず声が出てしまった。それは向こうも同じだったみたいで。 「水野」 「三上」 お互いを呼ぶ声が重なった。さてどうしようかなと、俺が言葉を探していると、 「何してんの?こんなとこで」 と、珍しく水野の方から話しかけてきた。それに答えて、逆に訊ねる。 「野暮用。お前こそ」 「俺は親父のとこに――」 眉を顰めながら水野はそう答えかけて、途中で言葉を呑んだ。気まずげな顔。俺はそれに気がつかない振りをして「そう。じゃあな」と軽く言って立ち去ろうとする。しかし、その俺の背に再度水野の声がかかった。 「あのさ、三上……」 「何だよ」 振り返って問えば、やっぱり気まずげな顔のままで、 「やっぱ良いや」 と、水野は口を閉ざした。それに俺はニッと笑みを浮かべて言う。 「あんま意地はるなよ、坊ちゃん。監督はあれで楽しみにしてるぜ」 「……え?三上?」 水野の訝しげな表情をその場に残して、俺は彼が来たであろう方向へ歩いていった。チャイムを押して、玄関が開くのを待つ。そのガラス戸がガラガラと立てる音とともに飛び出してきたのは勿論この家の主。 「竜也、さっきは……。ああ、三上」 ムスッとした顔をしていた監督は、俺を見た瞬間驚いた顔に変わって、そして、気まずそうに眉を顰めた。その表情はついさっき見たものと良く似ていて。俺はやっぱ親子だなぁと妙に関心してしまう。 「息子さんなら帰ったみたいですよ。さっき会いました」 俺が明るい声でそう言ってみせ、「お口にあえば良いですけど」と買ってきた手土産を渡すと監督はそれに救われたような顔を一瞬見せて、頷き言った。 「そうか、すまんな。まぁ、あがりなさい」 その言葉に靴を脱いであがり、通された部屋で出して貰った資料を見る。それは丁寧に整理され、参考にすべきところにはちゃんと付箋がついていたので、その好意をありがたく受け取ってしばし集中する事にする。 ふと喉の渇きを覚え、コーヒーでも淹れようかと台所の方へいけば、監督は蕎麦を打っていた。その横で俺は勝手しったるなんとやらでコーヒーメーカーをセットする。黙々と作業する監督を横目に、淹れ終わったコーヒーをこれまた勝手に食器棚から出したカップに注いで部屋へ戻った。監督自身はコーヒー党ではないのに、さりげなく上等な豆を置いてくれていて、おかげで俺は普段寮で飲んでいるインスタントとは比べ物にならない香りと味にありつける。全く変なところで気をきかせるんだよな、と苦笑しつつ美味しいコーヒーを飲みながら再び資料に目を落とす。 全て読み終わって、腕時計を見れば結構な時間になっていた。寮の夕食は断ってないのでそれまでに帰ろうと挨拶しに俺はもう一度台所の方へ行く。すると監督は蕎麦を湯掻いていて。 「蕎麦、食べていかないか?寮には連絡しておいた」 いかないか?も何も、それはほぼ命令じゃないかと、内心苦笑しながらも 「はい。遠慮なくいただきます」 と、俺は返事をし、テーブルについた。ほどなく目の前に置かれるざるそば。さすが、趣味にしているだけあってその味はかなり美味い。それを食べながら、ふと見遣った居間の窓の向こう。手入れの行き届いた庭。部屋もきっちりと片付いている。とても一人住まいとは思えないその様子。だけど、それが余計に寂しくも感じられる。いや、寂しいんだ。だから、些細なことで俺を呼ぶんだろう。そんなことを思いながらも食べ終わって、ぼんやりとそば茶――香ばしくて美味しい――を飲んでいると。 「また噂が流れているようだな」 そんな風に監督は切り出した。 「知ってます。息子さんが来る話は」 俺はそう返事をした。監督は眉を顰めながら話を続ける。 「まだ、ちゃんと返事は貰ってないが、今度は事実になるだろう」 ただ、さっきの水野に様子からして、恐らく今の段階で噂になったことで、水野が抗議に来たってところだろうと俺は見当をつける。 「それでだ。もし、お前が望むのなら地元の方の学校への紹介を書いてもいいんだが」 その言葉とともに、監督が湯のみを置くカタンという音がやけに耳についた。真意を探ろうと表情を窺おうとして、視線を逸らされる。俺は溜息を吐いて天井を見上げ、ぽつりと言った。 「……俺にはもう、行くとこなんてないですよ」 サッカーで生きていきたいと決めて出てきた地元に、今更どうやって戻れば良いのか。判っているくせに。それでも出て行けということか。上げていた顔を戻して、テーブルの向こうを見遣れば。 「すまん」 俺の言葉に監督はそう詫びたが、俺が詫びて欲しかったのはそんなことじゃなかった。 「狡いですよ、そんな言い方」 あくまでも俺の意思を尊重するという言い方。でも、その狡さこそが大人の世界なんだろう。自嘲交じりにそう言った。 「三上、私は」 その言葉を遮るように俺は続ける。 「判ってるんだ!監督が望むままに、俺はやってくしかないんだって」 それは自分への苛立ち。全て承知してた筈なのにそれ以上を望んでしまう自分が情けなかった。所詮は駒、所詮は代役。判っていて、それでもほんの僅かでも俺だけに向けた優しさを感じてしまうから、俺はいつの間にかいい気になってたんだ。俯いて握り締めた拳が、痛い。 「そんなつもりではない!」 急に口調を荒げた監督に驚いて顔を上げると、そこには心底困った顔があって。溜息混じりに彼は言った。 「……どうしてやるのがお前の為になるかと考えてな」 「監督」 俺が呼べば彼はやや寂しげに微笑んだ。 「お前が居てくれたおかげで随分救われた。……私はあの頃から寂しかったのだ、妻と息子が出て行って。いや、家を出て行っただけでなくて、自分が教えた筈のサッカーでさえ反発されるようになっていた」 それは良く知っている。いや、何度か戦った俺の方が監督以上に知っているかもしれない。俺の知っている水野のプレイは、組織的なものを望む監督のものとはかなりかけ離れている。もっとも、今の水野のプレイは選抜を通して成長したようだが。 でも、俺にはそんな水野の気持ちも判らなくもない。多分水野は「指導者」としてじゃなくて「父親」として求めていて、もっと甘えたかったんだろう。もっと褒めて欲しかったんだろう。もっと話を聞いて判って貰いたかったんだろう、きっと、今の俺みたいに。だけど、目の前のこの人は監督としては優秀でも、人間としては酷く不器用で。 「……言葉が」 「ん?」 「貴方の言葉は肝心なところで少なくなるんだ」 俺がそう言うと監督は俺を見つめて問うた。 「私の言葉が、足りない?」 その言葉に頷いて俺は言った。 「もっとちゃんと話を聞いて、話をすれば良かったんだ。俺だけじゃない、家族だって――」 成り立たなかったコミュニケーション。肝心なところでそれが幾度も繰り返されれば誰だって疲れてしまうだろう。その結果の別離。だけど、本当は繋がっている。血の繋がり、絆なんて簡単には断ち切れやしないんだから。たとえ真実憎んでいたとしたって。それを俺は知っている、それでも……。 「それでも、俺は貴方について行くと決めたから。俺なりに生き残ってみせます。それしか俺には出来ないから」 そう決めていたじゃないか、あの時から。俺はその覚悟を思い出す。 「済まない」 監督は再度詫びた。それに俺は首を振る。 「謝らないでください。俺は貴方のおかげでここまで来れたんです。感謝してるんです。――だから、今更、他校へなんて行けません」 控えに回ったとしても、実力さえあれば出番は回ってくるだろう。あるいはコンバートだって構わない。それくらいプロだって当たり前にあることなのだから。それだけの価値があると認めさせれば良い。 ……そう、出て行けと言われるくらいなら、控えに回ったほうが何倍もマシだ。少しでも貴方のそばに居られる方が遥かに良い。だから、他校へなんて、本当は思ってなくても、言葉にして欲しくなかったんだ。でも、その思いは口には出来なくて、視界が滲むのも隠して俺は俯くしかない。沈黙が部屋を覆った。 それからどれくらい経った時だろう。 「三上」 と、俺を呼ぶ声と共に監督の手が伸びてきた。意外に大きなその掌が、俺の頭に乗せられる。そして、その手はゆっくりと、しかし、力強く俺を引き寄せた。それに抗う術など持たず、俺はそのまま身体を預ける。 「私には竜也が必要だ。だが、お前も必要だ」 すぐ傍で囁くその声はいつもより柔らかくて。 「決して代わりなどではない」 その言葉に堪えきれず、零れた滴がシャツを濡らした。思えば、その言葉を俺はずっと待っていたのだろう。たとえ本当は代わりであったとしても、俺を必要としてくれる、その言葉があればきっとこれからもやっていける。そんな気がした、だから――。 「水野にもちゃんと言ってやってください」 俺がそう言うと監督はハッと息を飲んだ。 「三上……」 眉を顰め俺を見る監督に俺は微笑んでみせた。 「息子さんも貴方の言葉を待ってます」 貴方の為にそれを望む、俺に出来るのはそんなことだけだ。貴方が俺の為を思ってくれるのならば、俺もその分は返したい。 その想いは彼にも伝わったようだ。 「そうか……そうだな」 あんなにしつこかった入道雲もいつの間にか消えて、うろこ雲にとって変わる夕暮れ時。風も少し涼しすぎるくらいで。不器用に俺の髪を撫でる掌が、酷く温かく感じられた。 満開の桜の色が青い空に鮮やかな4月の初め。 新入生が入ってきて、俺もまた先輩と呼ばれる立場になった。後輩の中には勿論、水野竜也の名もある。入学式の後、見つけた色素の薄い髪の後姿に俺は呼びかけた。 「よう、坊ちゃん」 「坊ちゃんはないだろ」 そう苦情を言いながらも振り返った水野の真新しい制服姿は様になっていて、新入生らしさをあまり感じさせない。というより、それは態度のせいかもしれないが。 「お前さぁ、俺一応センパイだぜ?」 俺がそう呆れ声で言ってやると 「……坊ちゃんはやめて下さい、三上亮先輩」 にっこりとして、慇懃無礼を絵に描いたような答えを水野は寄越した。 「てめ、フルネームかよ。つーか、やっぱ似合わねぇな」 苦笑交じりにそう言ってやれば水野は、 「だろ?」 などと、これがまたニッと不敵に笑ってきたので、俺は 「……全くだ」 と呟き、やれやれと軽く肩をすくめる。その時、校舎から出てくる監督の姿が見えた。今日はいつものジャンパーではなく上下ともスーツで、多分入学式には職員として出ていても、気持ちは父兄として臨んでいたのだろう。そんな感じのコーディネート。それを見てつい、俺は軽口を叩いてしまう。 「おっ、パパにも挨拶してやれよ」 その軽口に水野はカチンときたようだが、 「大きなお世話」 などと言いながらも、ちゃんと父親の方へ向かって歩いていった。それに気がついて、水野を見つめる監督の口元が心持ち緩んでいるのを見て、多少の羨ましさはあれど、俺の選んだ道は間違ってなかったと思った。ほら、こうして見る二人は本当によく似てるじゃないか、その外見も。それに知らず口の端が上がるのを自覚して、二人に背を向けて歩き始めたところで、後ろから「三上!」と水野に呼ばれる。 「何?」 と、振り向くと水野は親指で後ろを指した。 「呼んでるぜ」 そう言う表情は照れくさげでも、どこか晴れやかだ。俺が指されたほうを見れば、監督も俺を見て頷いた。 「少し、歩かんかね」 そう言われ裏庭の方へ向かって歩く監督の背を追う。あまり人の来ないここにもひっそりと桜は咲いていて、二人それを眺めながら、ゆっくりと歩いていく。沈黙もこの桜の散る中では気にならず、むしろ風情さえ感じさせた。 ふと監督が立ち止まって、俺を振り返って言った。 「コンバートの件、受け入れてくれるな」 それが俺の為だと信じているからだろう、はっきりとした口調だった。無論、俺もそれを信じ、望んでいた。 「はい」 と、きっぱりと返事をして、頭を下げたところで気がついた監督の肩についた桜。それを払おうとして伸ばした手は、払ったところで不意に掴まれ、はらはらと花びらは舞っていく。 「三上」 温かくて力強い掌。そのぬくもりは多分今は俺が独り占めしてるんだろう。俺はこの人にそれ以上のことを望みようがない。だから、監督が 「すまんな。お前には無理を言う」 と、そう言うのに、 「……それで良いんです」 俺はそう答えて微笑んだ。 ――季節は春。柔らかい日差しと、花の香りの中。 何かが変わって、始まったのを俺は感じながら、儚くも美しく舞い散る桜を、ただ眺めている。 |
2006.12.03UP |