所属していた地元の少年サッカーチームに、その日珍しい来客があった。厳格な表情をした、父親くらいの年の男性。誰かの親だろうかと、ぼんやり思いながら俺は練習を続ける。と、そこへ。 「亮、ちょっとこっちへ」 そうコーチに呼ばれて、俺はボールを蹴るのを中断してそちらへ行く。どうやら、俺への客のようだったが、あいにく覚えが無い。誰だろうと思いながらも「こんにちは」と会釈をした。 「お話ししていた三上亮です」 コーチがそう紹介してくれた。 「君が三上君か」 彼はそう言うと俺を見た。 「三上亮です」 と、俺は返事をして、お辞儀をした。 ふむ、と彼は頷き、用向きを伝える。 「私は武蔵森中の監督の桐原と言う。君、うちに来ないか?」 彼はそこで一旦言葉を切ると、厳しげな顔を緩めて言った。 「何、心配はいらない。私が責任を持って面倒を見よう」 ……それに俺がなんと答えたかは覚えていない。 期限付きのシンデレラボーイ 彼が言ったとおり、俺は何の心配もする必要がなかった。突然、降って涌いた名門中学への推薦入学の話に「サッカーはあくまでも趣味の範囲で」との方針だった筈の親も、喜んで送り出してくれた。俺としても願っても無い話だった。中学でサッカーをしたいと思っても学区内の中学では話にならず、かといってユースに通う金も無い。私学にしても同様だったから、まさかこんな話が来るとは思ってもみなかったのだ。所属していたチームのコーチが桐原監督と個人的に懇意だったのが幸いした。……なんてことは後で知った事だけど。 出発の日は、親の仕事の都合が付かず、俺は一人で東京へ向かうことになった。荷物は既に送ってある。大き目のスポーツバックを片手に、最寄駅へ向かった。ドラマとかだとこう言う時は必ずと言って良いほど見送りがあるんだよなぁベタだけど、と苦笑しながら駅までの道程を歩く。10数分程で着いたその駅のホームで、俺は見覚えのある姿を見かけた。 「あれ?監督」 それは片手にバックを持ったスーツ姿の桐原監督だった。 「三上君か」 「おはようございます。どうしてこちらに?」 そう挨拶して訊いてみた。だが監督は相変わらず厳格な表情のままで 「こちらに出張だった」 と素っ気なく答えたが、ふと俺の荷物に気が付いて「ああ、今日入寮か…」と思い出したように言う。それに俺が 「はい」 と答えると、監督は表情を緩めて、 「偶然だったが、結果的に迎えに来る形になったな」 と、冗談交じりに言った。 「ありがとうございます」 そう俺が言うと、監督は微笑んだ。初めて見たその笑顔に意外な素顔を見た気がして、俺は少し嬉しかった。 慣れない寮生活にハードな練習。最初はきつくて、追いついていくのにさえ必死だった。それまで無名で、大抜擢に近い俺としては期待を裏切るわけにはいかない。俺は秘かに猛特訓を重ねて、傍目にはトントン拍子で1軍へと駆け上がった。そして、監督から指導を受ける立場になる。監督の要求はハードでシビアなものだった。 「三上、そこは違う。私の言う通りにしろ」 監督から直接指導を受けるのは光栄なことだ。たとえそれが強引であっても俺には従うよりない。俺は黙々と練習に励む。多少の不満など押し殺して。余計なことは考えない。言うとおりにしていれば、監督は俺を上へと引き上げてくれる。 事実、監督の教えに忠実にコツコツとやってきた俺は同学年では渋沢続いて2番目にレギュラーになった。更に、3年になる前に10番を手にする。そして3年で完全に定着する。 ……そう、何の心配もない。日々は流れ、中学最後の夏を迎えようとしていた。 その前にあったテスト前恒例の勉強会、と称する実質ノートの写し合い大会。 近藤の部屋で行われていたそれに、俺は理系のノートを提供しつつ、代わりに国語のノート目当てに参加していた。何人か入れ替わりつつ―何故か英語提供の中西は提供だけして居座って遊んでいる―5人くらいで構成されていた会だが、1時間おきに小休憩を取ってその間はダベっていた。そこで何故か俺は監督との出会いの話をする羽目になってしまった。一通り話し終えると、 「監督自らがスカウトに来たって?」 と、近藤は驚いていた。実は俺も後で「あまりないことだぞ」とコーチから聞かされて驚いたものだ。 「大物じゃーん。三上って」 他人の部屋にもかかわらず、ベッドの上に寝転がってジャンプを読んでいた中西が、視線すら上げぬまま口笛を吹いてわざと軽そうな口調で言った。が、ふと気がついたのか、顔を上げてこちらを向いて口を開く。 「でもさー、他に渋沢くらいじゃね?わざわざ監督が出向いたのって。三上、小学生の頃はそんな有名でもなかったのに」 その中西の言葉に、 「まるでシンデレラ・ボーイだな」 近藤が真顔でそう言った。 「伊達に10番付けてる訳じゃねぇよ」 と、そう答え。……ったく、こんなにからかわれるんなら話すんじゃなかったと俺が軽く後悔していると部屋のドアがノックされ、渋沢が顔を見せる。 「三上、監督が呼んでる」 渋沢に呼ばれて部屋を出る、その前に。 「お気に入りじゃん」 と言った中西のその言葉に「るせぇ」と文字通り一蹴してから出る。それを見ていた渋沢がくすりと笑って 「楽しそうだな」 と言った。そう、確かに楽しい……だけど。 「勉強会だって、一応。まぁ、中西は嫌味ったらしくノート提供だけして遊んでるけどな」 俺はそう返し「じゃ、行って来る」と監督室へ向かった。 ドアをノックして声を掛ける。 「失礼します」 いくら待てど返事がないので、俺はしばらくドアの前で立ち尽くす。だが、部屋の灯りは点いている。何度かノックするとようやっと応答があったので、俺はドアを開けた。 「ああ、すまんな三上」 応接用のレザーソファに沈み込むように深く腰をかけてそう言う監督の顔色は酷く冴えないもので。つい、「あの……」と先に話しかけてしまった。だが、それに 「何だ」 と、そう言うのさえ気だるそうな監督。それに差し出がましいと判っていても、 「お顔の色が優れないようですが」 と言ってしまう俺。 だが、その俺の言葉に監督は表情をムッとさせると、 「お前は心配せずとも良い」 そうきっぱり言う。 ……実のところ、似たようなやりとりは既にこの一週間位続いていた。だが、素直に「いいえ、心配です」とは言えない。恐らく素直でないのは二人とも同じだ。監督にしてもやせ我慢してるに違いないのだ。だが、それが判っていても、俺は彼の言葉には従うしかないのだ。 「それより、何か、お話が?」 俺は話を変えた。それにまた監督は難しい顔をして「実はな……」と話そうとする。が、そこへバタバタと事務員さんがやってきてノックの返事と同時にガラリとドアを開けて、電話だと告げた。 「監督、外線入ってます」 呼ばれて監督が席を立った。 「すまん、またにしよう」 俺は一人取り残され呆然とする。……変だなとは思った。いつもなら電話くらい、後回しにするのに。違和感は、嫌な予感に変わって、しばらくこっそりうろついていた職員室の辺りで俺は聞いてしまう、その「控えに回ってもらう」という監督の言葉を。 「竜也が10番だ」 その言葉を耳にして。 ――裏切られた。そうは思ったものの。 判ってたんだ、本当ははじめから。 俺は控えの為に呼ばれたことくらい。 あいつの為の予備パーツにすぎないことくらい。 だからって、こんなのはあんまりだ。あんまりじゃないか! ……その心からの叫びは声にならない、出来ない。 あの日、監督にスカウトされた日。練習が終わって帰る前に、もう一度挨拶しておこうと思ってその姿を探していた時、コーチと桐原監督の声が聞こえた来たのだ。俺は思わず立ち聞きしてしまう。 「なかなか良い子ですな。負けん気も強そうで、根性がありそうだ」 監督がそう言った。それに対して、コーチは訊ねた。 「……でも、桐原さん。失礼ですが、確か同じ年くらいのお子さんがいらっしゃいませんでした?」 その子が入るのでしたら、亮は……と言い淀んだコーチに、 「ああ、竜也は一つ下ですし。実はつい先日家内と家を出て行ってしまって、素直にうちにくるかどうか。いやはや、お恥ずかしい」 そう苦笑して否定しながらも、やはりどこか照れくさそうで、自慢の息子なのが伝わってきた。入ってくるのを望んでいるのも。 ――水野「竜也」。 忘れもしないその名前。何の因果か対戦した春の予選で見た本人は、やっぱりどこか似ていて。悔しいことに監督が俺に教えてくれたものを、すべて習得していた。そして、それ以上に天賦の才があって。 …所詮、血には勝てないってのか、素質も絆も。 その事にどうしようもない憤りを感じて、気がつけばどこからか名簿を手に入れていた。 そう、全部壊れてしまえば良い、俺を邪魔する「家族の絆」なんて。手段は選ばない――。 だが、それが結果的にあんなことを引き起こそうとは思ってもみなかった。 「監督が倒れたそうだ」 俺は、その言葉に動揺を隠しきれなかった。 「しっかりしろ」 と言われて、渋沢に頼まれた通りコーチに連絡を取った後、事の重大さに気がついて、俺は罪悪感に駆られていた。監督が倒れた、俺が起こした余計なトラブルをきっかけに。 ……こんなはずじゃなかったんだ。そうは思ってももう遅い。 「俺のせいだ…」 そう嘆く俺に、敢えて顔を向けないでくれて、 「お前のせいじゃないよ」 と、渋沢は言ったが、渋沢は俺が何をしたか知らないからそう言えるのだ。いや、知っていても、病気は病気だというだろう。だが、現実は。俺がきっかけを作ったのに間違いないのだ。 このままでは監督に申し訳がつかなかった。たとえ、息子の代役だったとしても俺をここまで育ててくれたのは監督だ。それは事実だ。 「馬鹿だ俺は……」 裏切ったのは俺の方だったんだ。そして、これは多分俺への罰だ。 恩を仇で返した、俺への。 才能が足りないのならその分、練習すれば良い。ただそれだけの事だったのに。 少なくともこんなやり方はすべきではなかった。 ……だけど、ここまでの感情に駆り立てたのは貴方のやり方とも思えて、俺はどうしたら良いのかわからなくなる。 幸いにも監督の病気は大したことなく、念の為の検査と静養の為にしばらく入院することになった。それを聞いて俺はようやっと落ち着くことが出来た。思い立って、見舞いに行くと告げると、コーチから資料を渡すように頼まれる。 「差し出がましいとは思うのですが、ゆっくり静養された方が」 と、俺が言うとコーチは苦笑した。 「監督が欲しいと仰っててね」 ……まったくもって、あの人らしい。 そんなんだから倒れるんだと思いながらも、俺は病院へと向かった。 診察を終えて静まり返った病院の、リノリウムに足音が響く廊下。ナースステーションで教えて貰った番号を探し当て、ベッドを確認して部屋に入る。 「失礼します」 カーテンを開けると、監督は読んでいた新聞から顔を上げた。 「三上か」 「お加減はいかがですか?コーチからこれを預かってきました」 コーチから頼まれたファイルを渡す。 「わざわざすまんな。もうすぐ退院だ」 監督はそれだけ言うと、また資料に目を戻す。しばし、沈黙。カーテンの揺れる音だけが響いた。俺は少し躊躇って、それでも意を決して話すことにする。 「監督、俺が……」 だが、俺が言いかけるのを遮るように、監督は 「竜也なら来んよ」 そう言った。そして、ファイルをパタンと閉じると俺を見て言う。 「お前は何も考えずとも、私についてくれば良い」 「……」 その言葉に半ば困惑している俺に監督は苦笑して言い直した。 「何も心配しないで良いと言ったのだ」 それを聞いて、……ああ、多分この人は肝心な時に言葉が足りないから、家族と上手くいかなかったんだと思いながらも、 「はい」 と、返事をすると、監督は独白した。 「実の子を放っておいて他人の子の面倒ばかりみて、その癖自分の都合を押し付けた報いかな」 天を仰ぐように、溜息混じりに天井を見て話す監督の横顔は寂しいものだった。でも、すぐに表情を改め、いつもの厳しい顔になると言った。 「だが、今更戻れぬ。あの子はあの子の道を選んだ。そして、私にはお前がいる」 まるで自身に言い聞かすようなその強い響き。 「……ついてきてくれるな?」 そう、俺をまっすぐに見据えて問う彼に。 「はい、監督」 と、俺は答えうやうやしく一礼した。 ……全て、貴方の仰せのままに。 きっといつかは貴方の息子も戻ってくる。 それでも貴方が望むのなら、俺は貴方に付いていこう。 俺を見出してくれた、貴方に感謝をしているから。 ――その日までのシンデレラボーイ。 12時の鐘はまだ鳴ってない。 |
2006.05.27UP |