「ではまた来週。試験の時間に」
 そんな講師の言葉に「えーっ」と言う声と溜息が重なる階段教室。そうして講義は終わり、三上は人の波に乗ってゆっくりと廊下へ出る。一コマ空けて午後からの講義に備え、昼食を済ませておこうと思い、三上がそのまま校舎を出て食堂を目指して中庭を歩いていると、ちょうど目の前に見慣れた姿が現れた。
「渋沢!」
 呼ばれて振り返った渋沢は三上の顔を見て微笑む。練習帰りらしいジャージ姿に三上は僅かに首を傾げる。
「今日はもう良いのか?」
「試験近いし、何とか休みをもぎ取ってきた」
「そいつはご苦労さん」
 苦笑して答えた渋沢に三上はニッと笑った。そしてふと思って訊く。
「昼、食べてきたのか?」
「いや、急いで出て来たからまだだ」
 軽く首を振って答えた渋沢に「そっか」と頷いた三上はこう続けた。
「俺もこれからだし、たまには一緒にどうだ?」
 珍しい三上からの誘いに渋沢は少し驚いたが、喜んで受けることにする。
「そうしよう」
「空いてれば良いけどな。そろそろ混み始めるし」
 腕時計を見て改めて時間を確認し、少し早足で歩き始めた三上に続いて歩きながら、渋沢は三上に会ったら頼もうとしていたことを思い出す。
「ああそうだ、三上」
「何?」
 歩調を緩め隣に並んだところで、三上は渋沢を見る。それに渋沢は話を切り出した。
「欠席した分のノート見せて貰いたいんだ」
 それにニヤリと三上は笑う。
「いくらでもどうぞ。どれだけでもお貸ししますよー」
 慇懃無礼な物言いに、ニヤニヤと笑ったその表情だけで何が言いたいか、直接の言葉はなくとも十分察することが出来る。一つ軽い溜息を吐いてから微笑むと渋沢は言う。
「判ってる、タダじゃないってな。……今からの昼飯で良いか?」
「良いぜ。交渉成立」
 笑顔で返事をした三上は、上機嫌で口笛を吹き出した。そんな様子に、聡い三上のことだ。もしかしたらこれを見越して、自分を昼食に誘ったのかもしれないと渋沢は思わずには居られなかったが、元々何らかの礼はするつもりであったし、何より三上が楽しそうなら良いかと、自分もこっそり笑うのだった。

 自分達のように早めに食事を済ませたい者で、そろそろ席が埋まりそうな気配のする食堂に着いて、二人は先に席を取った。
「買ってくるよ。何が良い?」
 渋沢がそう訊けば三上は「そうだなぁ」と、とっくに覚えてしまったメニューを脳裏に浮かべながら少し考える。そんな三上に渋沢は微笑んで言った。
「どれだけ頼んでも良いし、一番高いものでも良いぞ?」
「それ、俺のノートにそれだけの価値があるってことなのか、お前の財布に余裕がありまくるってことなのか、どっちなんだよ」
 じろりと見る三上の視線に渋沢は苦笑するよりない。
「前者だって」
「そうかぁ?」
 納得し切れないと言う表情を浮かべながらも、メニューを考えていた三上は結論を出して、渋沢に告げる。
「カツ丼とうどんとサラダ」
 それを聞いて渋沢は思ったままを口にする。
「判った。バランス的にもまあまあだが、それだけ食べるってことは今日も練習あるのか?」
 その渋沢の言葉に「お前はお母さんか」とツッコミを入れながらも三上は苦笑して答える。
「一応はな。でも軽めだから夜に勉強会したいなら付き合えるぜ」
「それは助かる。じゃあ買ってくる」
 そう言って食券を買いに向かう渋沢に「ああ」と返事をした三上は、今のうちにと思ってお茶と水を取りに行った。その水を三上が飲んでいると、二人前のカツ丼とうどんとサラダを持って渋沢は戻ってきた。
「お前、よく食うよな」
 食べ始めてからしばらくして、丼に手をつけはじめた渋沢を見て三上は他人事のようにそう言い出す。当人もうどんの最後の一本を啜ってるから似たようなものだが、そんな三上に渋沢は軽く笑って答えた。
「午後休む分、午前中短い時間でフルにやってきたから」
「ホント、よく続くと思うぜ」
 呆れ声で言う三上を渋沢は不思議そうに見返した。
「お前だって大差ないだろ?」
「俺が?」
 思わずキョトンとする三上。Jリーガーと大学生という二足の草鞋な渋沢と自分がどう大差がないのだと考えていると、渋沢は感心した声で言う。
「体育学科だったらもっと楽出来るところを、こうして講義も受けながら練習してるんだし」
「そりゃ自分で決めたことだから」
 楽をしようと思えば出来た。サッカー部特待で入れる大学は幾らでもあったのだ。でも自分は大学では勉強もちゃんとしたいと思って、あえてこの道を選んだ。それが難しい道だと判っていても、選んだのは自分。だから頑張れるのだと、三上は思う。そんな三上に渋沢は優しく微笑んだ。
「だから俺と同じだって言ってる」
「かもな」
 そう言って微笑み返した三上は、それにしても渋沢が同じT波大だったなんてことはまったくの想定外だったが、と内心で笑いながら丼へと手を伸ばす。そして一口食べながら思い出したように渋沢に訊いた。
「そういや、勉強会はうちで良いのか? 狭いけど」
「お前のノート貸して貰うんだし、俺は車でいつでも帰れるから」
 それもそうかと納得した三上はポケットを探り始める。
「じゃあ、鍵渡しとくわ。多分俺のが遅いから」
 テーブルに置かれたそれを受け取りながら渋沢は礼を言った。
「ありがとう。夕飯でも用意しておこうか?」
 その言葉に三上は瞬きを繰り返す。そして、次の瞬間吹き出した。口に何も含んでいなかったのは幸いだっただろう。
「お前、それじゃ本当にお母さんみたいだぜ? でもまあ正直、何か買っといてくれるだけでも助かる。ああ、それまで奢れとは言わないから」
 笑いながら三上が言うのに、渋沢は苦笑して「判った」と返事をした。
「そうだ。何ならその鍵ずっと持ってて良いぜ。合鍵あるから」
「え?」
 驚いた顔を見せる渋沢に構わず、自分の中で決めてしまった三上はこう言葉を続ける。
「お前忙しいんだし、これからは時間ある時に俺の部屋でノート写してけば良い。俺が居なくてもメールしといて貰えれば良いし、ノートは全部カラーボックスに入ってるから。武蔵森の頃と同じで」
 言われて懐かしい思いがするも、それ以上に突然示された好意に渋沢は少々戸惑う。
「それは、ありがとう。だが、良いのか?」
「お互い様だろ?」
 三上はそう言って笑った。しかし、すぐには納得する様子を見せない渋沢に、ニッと笑って妥協案を提案する。
「そんなに気になるんだったらこうして奢ってくれれば良いぜ」
「そうしよう」
 そこでようやく渋沢は微笑む。確かにそれなら借りは返せる。だが、本当は一緒に食事を出来ることで得をするのは自分の方なんだがな、と思いつつも渋沢はあえてそれを黙っていた。

 そんな二人が食事を終えておかわりしたお茶を飲んでいると、三上を呼ぶ声がした。
「おーい、三上」
 それに振り返った三上はペコッと軽く頭を下げる。
「サッカー部の先輩。じゃ、俺行くわ」
 渋沢に笑って告げた三上は自分と渋沢のトレイを持って席を立った。
「ああ、ありがとう」
「また夜な」
 三上はそう言って微笑むと、トレイを返却口に返して先輩の元へと向かい、一緒に食堂を出て行った。それを見守りながら渋沢は一人呟く。 
「信じられてるってことか」
 素直に嬉しいと思っておこうと渋沢は考える。そして、夕飯は三上が好きそうなもの、それこそ寿司でも買っといてやろうかと思いながら、ふっと微笑み、手の中の鍵を大切なもののように握りしめる渋沢だった。



 
Key to my heart

(Fin)
2013.04.06 UP