退屈な午前の授業が終わり、俺は伸びをした。 と、その視界の端に、ちらっと廊下を行く笠井の姿を見かけた。 …2年はこっちの校舎に用はほとんどないだろう 何かと思って後を付けてみる。…ちょっとばかり驚かしてやろうという思いもあって。 階段を上り最上階の突き当たりの教室へと入っていく笠井。 下がっているプレートは、 「音楽室」 …成程ね。 ぽーんと軽く響くピアノの音。 俺は気が付かれないようにこっそりと準備室の方から回る。 見ればピアノの前に笠井。 軽く戯れ弾きをし、そして、ホームポジションに置かれる手。 …ピアノにホームポジションなんてないけどさ。つまり構えたってこと。 そして始まった演奏。 鍵盤の上を舞う指。紡がれる音楽。 同じ「キーボード」を叩くにしても、こうも違うとは。PCのキーは軽くて、芸術なんて生みやしないから。 一曲終わった。 俺は柄にもなく拍手などしてみたりして。 すると、驚いて振り返る笠井。立ち上がりかけたのを、ジェスチャで止める。 「…いつからそこに?」 一瞬で表情を立て直して、いつもの冷静な声で訊く。 「全部聞いてた」 あまりに熱心なんで声掛けづらかったぜ、といってやると、微かに笑って返してきた。 「辞めたはずだったんです。でも、頼まれて伴奏やってるうちに」 ほら、再来週合唱コンクールですから、と続けられる。 そういや、そんなものもあったっけ。たしか生徒会主催の恒例行事。 興味はまったくなかったけど。 コイツが弾くとこを見られるならサボるのやめようか。 …なんて考える。 「サッカーなら指をかばえる。それがきっかけ?」 俺は訊いてみた。 それは結構考えられる話。現にいたし、小学校の頃に。坊ちゃんでバイオリンをやりながらサッカーやっていた奴が。 もっとも所詮は坊ちゃんで、どこぞの超が付くようなエリート進学校に行っちまったっけ。ほら、東大への進学率が異常なぐらいの学校へ。そうサッカーなんかあっさり辞めて。 そんなことを思い出した。 「…それだけじゃないですよ、勿論。でなけりゃ、サッカーのためにピアノを辞めることはなかった」 笠井はそう僅かに表情を緩めながら言う。 そういや噂に聞いた話じゃ、コイツには音大付属の話が来ていたとか。 大した奴だよ、まったく。 …なんで、そんな奴が俺を、と思わなくもない。ちょっとばかり特殊な関係になってからも。 「ふん、まぁ二兎追うものは一兎も得ずって言うし?」 俺は至って興味なさそうに言う。勿論、演技。コイツに関して興味ないことなんてないな。 「だから、俺はサッカーだけを選んだんです」 今になってようやく納得。 普段のやけに落ち着いた表情。そう、それこそ藤代とは正反対な。 何かを切り捨てたものの見せる表情だ。そう、僅かに憂いを含んだ、それ。 何事にも動じず、一見至って冷静。あとは試合中にムキになるぐらい。 そんなコイツは最初俺を酷く苛々させて。 だがずっと気になっていて。 いつの間にかこういうことになっていた。 そうなってからは、コイツの冷静さはよそよそしくて嫌だった。 でも、それが何処から来たかわかったんじゃ、俺は嫌いになれないじゃないか。 胸を突くのはどうしようもない、愛おしさ。 だから、俺も強がる。 「俺には最初っからサッカーしかなかったけどな」 …そりゃ、まあそこそこ何でも器用にやれるほうだけど。 誇れる才能って言ったらサッカーぐらい。 数学やパソコンが出来るなんてことは、実は大したことじゃない。 それなのに。 そのサッカーすら実は不安定なものだと気づかされた。 いや、知っていた。だから苦労してきた。 例の水野の編入話は流れたとはいえ、「不安」は消えない。 …と、気が付けば、目の前に笠井の咎めるような顔。そしてポツリと呟かれる言葉。 「どうして、そんなに寂しそうに言うんですか」 ハッ、寂しい?そんなはずはない。だってそれだけが誇りなんじゃないのか。 なんて思ってみたりするけど。 …確かにね。裏を返せば弱みだろ。他に何もないんじゃないか、てのはあるから。 ――相変わらず鋭い奴。 「俺だってもう引き返せないです。…ピアノはあくまで特技…俺にだってサッカーしかないんです」 皆そうでしょうという、笠井の言葉。 渋沢も藤代も…確かに皆そうなのだろう。 それが幸せなのか不幸せなのか、ホントのところはわからないけど。 でも、笠井。寂しそうな顔してるのはお前の方だぜ?お前、顔じゃ笑っちゃいるけど。 …だから俺は笑って言う。 「じゃ、その特技とやら、しっかりと聞かせて貰おうかな」 「え?」 ふと、驚いた表情を見せる笠井。 「…弾いてみろよ、好きな曲」 そう言うと、笠井は目だけで答えて来た。 そして、すっと置かれる手。そして始まる演奏。 その曲はすぐにわかった。俺でも知っている有名なピアノ曲 ――ドビュッシーの月の光 鍵盤の上を軽やかに滑っていく指。 そこから流れ出す、メロディ。 淡く儚い月の光のイメージ。 …ったく、大した選曲センスだぜ。ちょいとばかりセンチになっているからって。 だけど繊細なのは一体どっちだろうな。 俺か?お前か? まあ、どっちだっていいか。 どのみち俺たちにはサッカーしかないんだから。 で、そのサッカーで、繋がったんだから、俺もお前も。 選んだのがサッカーでなけりゃ、出逢わなかったんだし。 ましてや、こんな近い距離にいられなかっただろうな。 …そう、いつでも触れられる距離なんかには。 演奏が終わった。 笠井が振り向くよりもはやく、知らず手は伸び、気がつけば後ろから抱きしめていた。 「三上さん?」 揺れる笠井の声。戸惑いながらもされるがままで。 俺は立ち上がらせて振り返らせ、唇を重ねた。 何度でも、何度でも…。 不意に笠井が鍵盤に後ろ手をつく。 こぼれ出すのは不協和音。 普段ならただ不快なだけがそれが、ちゃんとした音楽に聞こえてしまうのが不思議で、…それさえもが愛おしくて。 ――二人に午後の授業を告げるチャイムは耳にはいっていなかった。 (Fin) |