「そんなことになってたのか」
結人はそう言った。
駅前のマック。俺は帰り際結人を捕まえて誘った。一馬は遠いのもあって、声を掛けるのをやめたのだが。
そして一通り話した。
両親のこと、国籍のこと、そして韓国へ行くかも知れないこと。
…思えばあんなに親しいのに家のことは何一つ話していなかったのだ。
結人は途中相づちを打つ程度で、何も言わず、ただ聞いてくれた。
そして、すべて話し終えたところで、「なるほどね」と言うと。
「で、どうしたいんだ?英士は」
そう言った。
「まだ決めかねてる」
俺はそう答えた。
「そりゃ、そうだよな。簡単な問題じゃないしな、英士にでも」
結人はそう返す。
「…最後の一言は余分」
俺はそう言って苦笑した。
「だって、英士ってば、どんな局面でも幾つでも攻撃パターン組み立てられて、ホント頭いいーって思うよ」
にーっと笑って結人が言った。
「そんなに言っても何も出ないよ」
俺はそうクールに返す。
「…ちぇっ、バレたか。宿題手伝って貰おうと思ったのに」
結人は頬を膨らませてそう言った。
「別に良いけど、抜け駆けはいけないな」
俺はそう言う。
「一馬がいるときにしろって?…アイツいたらこんな恥ずかしい言い方しねぇっての」
笑う結人。
ふざけているのは、俺に気を遣ってのことだろうというのはよくわかった。
そして途切れた会話。
やがて結人は遠慮がちに訊いてきた。
「…やっぱ、向こうに戻ったら、国籍もそっちになるのか?」
さっきとはうって代わった沈痛な声。
「……多分」
俺はそう答えて目を伏せた。
そうなのだ、それがあるからためらう…。
俺は答えながらそう思った。
「俺は、…多分一馬もだと思うけど行って欲しくない」
結人はそう言った。「でも…」と続ける。
「英士がそっちに行きたいなら、絶対に止めちゃいけないとも思ってる」
「結人…」
俺は机の上で握りしめられた結人の手を見る。
それは微かに震えている。
「英士が、さ、敵国になってもそれはそれで面白いし」
表情と口調は明るくても、何処か引きつっているような気がした。
俺はすまない、と思った。
「…ちゃんと、自分で決めろよ。まぁお前のことだから大丈夫だと思うけど」
優しい口調で結人が言った。
「ああ」
俺は答える。
「どんなことになっても、俺達は絶対に味方だから」
…あんま、頼りにならねぇかもな。試合中ほどには。
そう言って笑う結人。
「だから、ボールからは離れるなよ」
「ボールがある限り、俺達の気持ちはずっと一緒だろ?」
その言葉に頷いた。
「そうだね」
目の前のコーヒーはとっくに冷めてしまっている。
・・・・・
片づけられていく父親の荷物を見て、ああ、いよいよなんだと俺は思った。
そんな俺の様子に気が付いた父親が声を掛けてくる。
「本当は迷っているのか?」
俺は正直に答えた。
そう、俺は父親と共に日本を旅立つと返事をしていたのだ。…どうせ行かなければいけないなら、早い方が良いと思って。
「ああ」
すると父親は俺が持ったままだったサッカーボールに気が付いたらしくこう言った。
「サッカーなら向こうでも出来る。それにこちらに戻って来られないわけでもないだろう」
それはその通りで。
確かにJリーグの選手には韓国籍の選手も結構いる。中にはキャプテンを務めている選手だっている。
それからすれば、行ってもなんら差し支えない。
…とは思う。
「まぁ、まだ日はある。…籍の問題は、言ってきた通り20歳になるまでにゆっくり考えれば良いから」
父親は笑ってそう言った。
それに微笑み返して、自室へと引き取った。
ドアの閉め、鍵も掛け。
一人になった。
窓に映る、自分のシルエットを見つめ、そして部屋の中のものへ視線を移していく。
壁に掛かったロッサのユニフォーム、背番号10番。
そして机に置いてあった週刊のサッカー雑誌。
表紙は日本代表選手。
「だけど…」
こぼれる呟き。
――そう、向こうに行ってしまえば。
「日本代表にはなれないよね」
そう口にしていた。
だが、
それは一馬と結人と交わした約束を裏切ることになる。
…かといって、自分に流れる韓国の血を捨て去ることは出来るはずもない。
ソウルの街。
一度しか行ったことないのに、そこにどうしようもない郷愁を覚えたのも本当のこと。
コリアタウンも好きだ。
韓国の食べ物が好きなのも事実。
でもこの東京も好きなのだ。
側に結人がいて、一馬がいる日々。
…まだ思い出にはしたくない。
そうは思っても言い出せない。
今、行かずとも、いずれ母親と共に海を渡ることになるのだろうから。
――だが。
本当に行かない、となれば両親と離れて、ただ一人で暮らしていくことになるのだろうか。
でも、それは出来ないことでもない。
ふと浮かんだその考えは、いつまで経っても離れることはなかった。
すべての荷物を詰め、
住み慣れた家を後にして、
成田エクスプレスに乗り込んでも――。
・・・・・
航空券を受け取ろうとして、差し出した手を途中で止めた。
そんな俺を父親は訝しげに見た。
俺はその父親を真っ直ぐに見つめた。そして、
「ごめん、父さん。やっぱり行けない」
そう言った。
「日本代表になる、そう約束してるんだ」
それは父親から受け継いだ韓国籍を破棄することを意味する。
…父親はどんな気持ちでそれを聞いているのだろう。そう思うと心が痛まないわけがなかった。
――だが。
俺にはどうしても…。
脳裏をよぎるのは、いつかの空。…三人で見た。
あの空より深い青のユニフォーム。
それはこの国の代表しか着られないから。
…だから。
「そうか…」
父親はそう言うと一つ溜息をつき、そして踵を返した。
「父さん!」
俺はその背中に呼びかける。立ち止まった父親。
振り返らずにこう言われる。
「…韓国籍ではなく日本国籍を選ぶか、英士」
低く、厳しい声。
生半可な気持ちで答えることは許されない。そう言う訊き方だった。
「――はい」
俺はそうはっきりと返事をした。…どういうことか覚悟の上だ。
そして沈黙。
それは酷く長い時間のように感じられた。が、やがて父親はこう言った。
「…お前の気持ちはわかった、英士。ただ、どちらの国籍であろうとお前は私の子だ。それだけは忘れるな」
それだけ言うと父親は真っ直ぐに出発ロビーの方へ向かった。
掛ける声を俺はもう持っていなかった。
エスカレーターに乗ったその姿は、もう見えなくなる。
「父さん…」
そっと呟いた。
悪いとは思った。
だが、どうしても3人であの群青色のユニフォームを着たかった。
もう一つの祖国を捨てたって…。
結人、一馬と一緒にピッチの上に立っていたかった。
…振り返らなかった父親。
泣いていたのかもしれない。
泣きたかった。
そして、
無性に結人と一馬の二人に会いたいと思った。
――心から。
・・・・・
空色の飛行機が雲の彼方へと消えるのを見送って、俺は空港を歩き出した。
頬を伝った何かを、そっと拭った。
泣いたとは言えない。
これから待つのは泣く以上に辛い日々だろうから。
それも仕方がない。
――痛みを伴わずに手に入れられる夢なんて、ありゃしないのだろうから。
…唯一の救いは、共に夢を見る友人がいることだろうか。
と、思ったそのとき。
「英士!!」
聞こえるはずのない声が聞こえた。…思い浮かべていた友人達の声。
俺はゆっくりと振り返った。
「結人、一馬…」
向こうから走ってきたのは、二人。息を切らせて駆け寄ってくる。
「ばかやろう、お前、何も言わずに…」
泣きそうな顔で、殴りかからんばかりの一馬。
「一馬!…ごめん、英士。おばさんに聞いてきた」
結人が一馬をたしなめ、後半は俺に言った。
「英士、韓国に行くって…」
一馬が不安そうにそう言った。
それに俺は微笑んで返した。
「やめたよ。…俺は日本に残るから」
「え?」
二人が俺を見た。
「家族皆、向こうに行ってしまっても、俺は日本にいるよ」
そう言った。まるで自分に言い聞かせるように。いや、言い聞かせたのだ。
そしてこう続ける。
「だから、これからもよろしくな。一馬、結人」
微笑んで言った。
「英士…」
片手で泣き出しそうな一馬を抱きしめる。
そして俺は結人に抱きしめられた。
…大丈夫、やっていける。これからどんなことが待ち受けようと。
――俺は決してひとりじゃない。
そう思った。
空港を後にして、3人電車に乗り込んだ。
「…良いのか、それで?」
隣に座っていた結人がそっと耳打ちしてきた。
「三人で代表を目指すんでしょ?」
俺はそう笑って返す。結人も笑った。
「何、二人でコソコソしてんだよっ」
向かいに座っている一馬がそう言った。その表情に浮かんでるのは笑み。
…泣いたカラスがもう笑ってるってのはこう言うことだろうか。
そんなことを考えた。すると、結人は
「え、別に〜」
などとニヤニヤと笑いながら返す
「んだよ、結人。このヤロ、吐けっ」
そう言って結人に掴みかかる一馬。「ギブギブ」と結人が叫ぶ。いつもなら「うるさい」と注意するところだが、今日は放っておくことにしよう。
と、俺はあることに気が付いた。そして口にする。
「それより、二人とも練習…」
「あ…」
見事に固まる結人と一馬。
その呆けた様子に笑うと、結人が先に我に返って、その隙に一馬の腕から逃れる。
それで一馬も我に返る。そして二人顔を見合わせた。
「今からなら、まだ半分はあるよな、な?一馬」
結人が時計も見ながらそう言った。それに頷く一馬。
「英士も行くだろ」
そう一馬に言われる。
横で結人も笑っている。
「ああ」
俺はそう返事をした。
…車窓の向こうに広がるのは青空。
・・・・・
――雲一つない青空の下で。
群青のユニフォームの左胸に手を置き、ナショナルアンセムを聞きながら。
…俺はもう一つの祖国、そして父親の顔を思い出していた。
捨てはした。
でも絶対に忘れてはいけないと思っている。
そして、そこまでしたからには絶対に勝たなければいけないと思った。
「英士」
結人と一馬に呼ばれた。
円陣を組む。
この青い炎に懸けて、
俺達は、必ず勝つ――。
…群青は緑色のピッチに散っていった。
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