試合終了を告げる笛が無情に響く札幌ドーム。屋根に覆われたここでは雨など降らず。前年度、先に降格したチームの選手やサポが流した涙を洗ってくれたようなものはなく。俺達はピッチの上に立ち尽くし、やがてがっくりと膝をついた。ここで戦ったチームのどちらもが来年はJ2のチームとなることが決まったのだ。
 …嗚呼、せめて空が見えたのなら。このやり切れない思いを放つことが出来るのに。自分に出来たのはここまでだったのか。悔しくてたまらない。
 それでも足を進めてチームメイトと共にサポの下へ行き頭を下げ挨拶した。「ずっと一緒じゃけー」と掛けられる声にますます頭が下がる。そして、ピッチを後にする。何度も繰り返し焚かれるフラッシュが眩しくてたまらない。目が眩んで視界がぼやけてくる。
「郭。大丈夫か?」
 ロッカールームで先輩選手に訊かれて初めて気がついた、涙。声は出ない。ただ、ただ流れていくのに任せる。




   Any




 せめて最後の花を咲かせたかった天皇杯も準決勝で負けて決勝まで進めず、埼玉スタジアムで終わったシーズン。広島に戻った俺達選手を待っていたのは人事だった。
「移籍、ですか?」
 俺はそう訊き返した。呼び出されて行ったクラブハウスの応接室には社長以下スタッフが揃って待っていた。俺の言葉に「いやいや」と苦笑して首を振るスタッフ。
「いやいや、勿論こちらとしては君には残って欲しいんだが、J1のチームからオファーが来ていてね。将来有望な君だから、無理にJ2に留めるのも惜しい気がしてね」
 具体的なチーム名も挙げられた。確かに代表のことを考えればJ1の方が良いだろう。でも、だからと言ってすんなりとそれを受け入れるはずは無く。
「…少し一人で考えさせてください」
と言ったところで、降格したチームのことだけにどうせマスコミが嗅ぎ付けていて、当然ゆっくり考えることなど出来るわけはないだろうけど。それでも今だけは一人で考えてみたかった。
「自分自身のことだ、しっかり考えなさい」
 最後に社長が優しい口調でそう言った。俺は「ありがとうございます」と言って一礼するとその場を後にする。マスコミの雑音を避ける為にも今日は早く帰ろうとロビーを歩いているところを先輩に呼び止められた。チームの中心選手だ。
「おう、郭。お前も呼ばれたんか」
「ええ。そちらはもうお話は終わったんですか?」
 俺はそう訊いた。それに対して、
「クビっぽい。まぁ、結構年俸貰っとるけん、俺売らんとやってけんのじゃろ」
とカラカラと明るい笑い声を立てながらそう言った先輩。
「そんな…」
 促されてロビーのベンチに座りながらも俺は驚いて言葉が出ない。すると逆に「お前は?」と訊かれて、俺は自分のことを話した。
「オファーは来てるんですけど、迷っていて」
 迷っている。それが正直なところだった。
「お前はどうしたいんだ?」
 先輩は笑いを引っ込めて真顔になるとそう訊いてきた。それには答えられず、しばらく間を置いてから、
「…俺、このチームが好きです」
と、ぽつりと俺はそう答えた。そう、俺のことを買って、わざわざ東京まで足を運んで説得してくれた熱意に、幼い時から育ってきたロッサを離れ広島まで来た。東京とはまるで違う地方の文化に戸惑いつつも、温かい先輩選手やスタッフそしてサポに支えられて、ようやっとここまでこれたのだ。東京やソウルとは違う、どこか懐かしさの残る街には愛着もある。俺がぼんやりとそう思い出してると先輩は立ち上がった。
「まぁお前が決めることじゃけ、しっかり悩んでしっかり考えろ。その答えに間違いはないと思うけん」
 そう言うと、ぽんと肩に手を置いて「じゃあな」と言って去る。俺も立ち上がって
「お疲れ様です」
と言うと、彼は振り返らないまま片手を上げて答えそのまま帰っていった。その背中は寂しさを抱えながらも、いつもよりも逞しく感じられた。


 数日後の新聞にはその先輩選手の移籍が決まったことが大きく出ていた。その横には俺のことも載っていた。やはり早いな、とどこか他人事のように感じながらものんきに食事を取り、最後に珈琲を飲むと携帯電話を手にする。
「ああ、結人?新大阪には11時に着く予定…」
 話しながら荷物をまとめ始めた。
 路面電車で広島駅まで出て、おみやげにもみじ饅頭を買うと切符を買って改札をくぐった。ホームにあがってのぞみが来るまで待っている。とそこへ、
「郭選手ですよね?」
 そう声を掛けられ振り返ると、手にはアタッシュケースと新聞を持っていかにも出張といった感じの若いビジネスマンが立っていた。ファンだと言われ、握手を求められ応じる。
「頑張ってください!」
 別れ際、彼はそう言った。「残ってくれ」とは言わなかったものの、目はそう語っていた。改めて自分が期待されていたことを感じる。…このままチームを去れば、俺はその期待にも応えることも出来ず、不甲斐無かった自分からも逃げることになるのではないだろうか。のぞみに乗り込んで、飛んでいく車窓を風景をぼんやり眺めていると、その思いは強くなる一方だった。
 その思いが途切れたのは新大阪の駅で、結人が乗り込んできたところ。
「おーっす」
 明るい声にその声にほっと安らぐ。
「おはよう」
と微笑んで返した。そして、回ってきた車内販売に珈琲を頼む。その横で結人は荷物を上に置いて座るともう片方で持っていたビニル袋からごそごそと何か取り出して箱を空け食べ始めた。受け取った珈琲を飲みながら、
「何食べてんの…」
 俺は半ば呆れながら言った。
「551の豚まん。うまいでー」
 結人は変なイントネーションの関西弁でそう言って答える。いや、別に「何」ということを訊いたわけじゃないんだけどと苦笑しながら、一応気になって訊いてみた。
「お昼はどうするの」
 すると結人は何を訊くんだとばかりに不思議な顔をして、
「あ?コレはおやつ」
と言ってまた一口頬張る。そして、食べながら、隣のボックスの乗客が新聞を読み始めたのをちらっと見た結人は「英士、あのさ」と言いかけて、でも「やっぱ何でもない」と黙ってしまった。しばらくは食べるのに没頭していて―それにしても3つはどうかと思う―、食べ終わった頃に全然関係ないことを話し出した。好きな曲とか、最近見た面白い映画とか。たわいも無い話に、俺は考えていたことを頭の隅に追いやることが出来た。
 そうしているうちに列車はいつの間にか品川を過ぎていて、俺達は荷物を下ろして、降りる支度を始める。東京駅には一馬が車で迎えに来てくれた。
「悪ぃ悪ぃ、渋滞にハマっちまったよ。乗ってくれ」
 目の前に車を寄せるなりウィンドウを下げて、身を乗りだして一馬がそう言った。
「出迎えご苦労」
 結人はそう言って笑うと車のドアを開けると二人分の荷物を放り、そのまま後部座席に座った。俺は助手席に座りシートベルトを締めた。ゆっくりと車が走りだす。一馬がステアリングを右に傾けながら、訊いてきた。
「メシどうする?近くで食ってからの方が良いか?」
 その言葉に、待ってましたとばかりに結人が答える。
「うん、俺、腹ぺこぺこやねん」
「…新幹線で豚まん3つも食べてたでしょ」
 俺は呆れて溜息を吐く。それに一馬が「自分が豚まんになるぞ」とからかった。膨れる結人。
「てか、俺の分ねぇの?551の蓬莱」
「一馬にはやらへん」
「変な関西弁だな」
 一馬がクスッと笑った。
「るせーな。関西弁は感染るんだよ。…でも、英士は広島弁じゃないな」
 前半は一馬に怒鳴って、後半は俺に感心するように言う結人。
「そうだね」
 と、そこに携帯電話の着メロが鳴り響く。ポケットから取り出して表示を確認し「ごめん」と二人に詫びて、その電話に出る。
「久しぶり、水野」
 俺の言葉に運転してた一馬がちらっとこちらを見て、バックミラー越しに結人を見た。俺自身がその意外な人物の突然の電話に驚くも、来ていたオファーの中にマリノスも入っていたことを思い出して納得する。水野が話し出す。
「上から話聞いたよ。うちに来れば?俺、お前とならコンビ組むのなら悪くないと思ってるんだけど」
 意外な言葉に俺は苦笑しながら答える。
「どうしたの、らしくないね」
「なんだよ、俺なりに心配してやったってのに」
 俺の言葉に水野は怒ったような口調でそう言った。
「それはどうも。でも、今のところそのつもりはないから」
 そう言いながら自分で自分の言葉に驚いていた。しかし水野はそれには気付かず、
「…そうか、それなら良いんだ。悪かったな突然電話して。じゃ」
とだけ答えると、すぐに電話を切ってしまった。結局のところは水野らしくて、俺はまた苦笑すると携帯をポケットにしまう。
「水野がどうかしたのか?」
 一馬が前を見たまま訊いてきた。
「いや、心配して電話くれただけだよ」
 俺がそう答えると二人は何も言わなかった。…本当は言いたかったのは判ってる。だが人目もあり、食事に寄ったレストランでもその話題はまったく出さないでいたのだ。

 その話題が再び切り出されたのは一馬のマンションに着いて皆で一息ついた時。
「なぁ英士、お前残る気なのか?」
 一馬にそう言われて、思い浮かんだ風景でやっぱり自分の気持ちはチームに残るつもりなのだと実感する。

 路面電車の走る街並み、緑と川辺、原爆ドーム、平和公園の鳩、ビックアーチの階段。 社長の優しい笑み、チームメイト、振り返らなかった先輩の背中。温かかったサポーターの掌。
 それは今の俺を支えているすべてのもの達。あの場所が今の俺の居場所だ。
 そして、一生忘れることは無いだろう、あの日の札幌ドームの天井。
 俺が何をすべきかが自然と見えてくる。

「ああ、そのつもりだよ」
 そう答えると一馬が難しい顔をした。
「不満そうな顔だね」
 俺がそう言うと、一馬は説得するように言った。
「だってさ、J2は大変だろう?せっかくJ1のチームから声が掛かってるだから、そっちに行けば良いだろ。大体、代表はどうすんだよ、J2からなんて難しいだろ」
 尚も言い募ろうとする一馬を結人が遮った。
「そこまでだ、一馬。お前な、日本一サポに近いピッチに立つ人間が何言ってるのか判るか?お前のとこだって、ついこの間までこの残留争いに巻き込まれてただろ」
 判るだろう英士の気持ちは、と結人が言うが、一馬は
「…だからこそっ」
と言う。それに対して結人は納得がいかないらしい。
「じゃ、なんだ。皆見捨てて、お前、自分だけ条件の良いとこに行く気かよ」
 その結人の言葉には苛立ちが少しだけ見えていて。
「――結人もそこまで。二人の考え方は違うけど、どちらもそれはそれで理にかなってる」
「英士」
 一馬と結人の声がハモった。二人に俺は言った。
「どちらを取るかは俺が決めることだ」
 そういう自分の声が冷ややかにも聞こえてしまうのは気のせいか。一馬はそれを感じ取ってしまったようだ。
「…何だよっ、英士。俺らのことなんてどうでも良いって事か」
 そう叫びながら今にも俺の胸倉に掴みかかりそうな勢いの一馬。
「一馬っ!」
 結人が、必死で止めようとするも一馬は続ける。
「英士はいつだってそうだ!本当は無茶苦茶悩んでる癖に涼しげな顔して。誰の話も聞かずに自分で勝手に決めちまうんだっ。あの時だって…」
 最後まで言う前にバシッという音が響いた。
「っ痛ぇ。何すんだよ、結人」
「お前、本気で言ってるのか?」
 結人が一馬を殴ってしまい、完全に一馬と結人の言い争いになってしまった。
「…二人ともやめて」
 冷静にそう言ってみたところで、なんて様だろう。
 俺の葛藤に二人を巻き込んでしまったんだ。
 募り出す苛立ちは自分に向けてのもの。だから、止める声など聞かず二人が言い争い続けるのに思わず
「――やめろって言ってるだろっ!」
と叫んでしまった後は居たたまれなくなる。
「…すまない。先に帰るよ」
 そう詫び、ソファの背にかけてあった上着を手にする。
「英士!」
 二人が呼び止めるのを背にして、一馬のマンションを出る。あの交差点を曲がって大通りに出れば、タクシーを拾える。手を上げて止めると「柏駅まで」と告げる。
 俺はシートに深く座ると窓の外の風景を眺めた。空には今にも降り出しそうなどんよりとした雲が重く垂れ込めている。
 電車を乗り継いで実家に帰った。だが、実家には人の気配が無い。
「ああ、そう言えばソウルに行くって言ってたっけ」
 思い出して呟いて、ジャケットのポケットから家の鍵を取り出す。ドアを開けそのまま階段を上がって右の突き当たり。広島に入団して以来そのままになっている部屋に入る。カーテンをサッと空けると雨が降り出してきた。それはまるで俺の心の中を表しているようで。俺はそのまま窓ガラスに映る自分を見つめる。

 どの道が正しいのか。そんなことは多分誰にも判らない。
 そもそも、俺達は落ちるべくして落ちたのか。 
 もし、神と呼べるものがあるとしたら、それは相当に気紛れ。
 …いや。それを選択したのは自分だ。
 勝負事の世界の非情さを知りながら、この道を選んだのだから。
 この世に神なんていない。すべては己の裡にある。
 そう思うのは或いは傲慢なことなのかもしれないけど。
 その生き方こそが自分だと思っているから。

「…ごめん。一馬、結人」
 そうそっと呟く。それは激昂したこと、そして、違う舞台を選んだことに対しての謝罪。
「でも、これが俺の生き方で、あのチームが今の俺の居場所だから」
 きっと二人ともわかってくれる。そう思いたい。


 …その夜、夢を見た。
 幼い頃。母親の里帰りの最後の日、空港まで見送りに来てた従兄弟がよく訊いてきた言葉。
『ヨンサはどこにかえるの?』
 その言葉はいつか自分の生み出した幻想と結びついて、従兄弟に似た顔の者が同じ言葉を繰り返す。そのニュアンスは幼い頃の無邪気なものでは無く。
 二つの国の狭間に生まれ、彷徨う心を持たされた俺。
 そう、常に自分の居場所を問うてきた。

『俺は自分の場所に帰るよ』
 そう、幻に告げた。すると幻は訊いてくる。
『ひとりぼっちになっても?』 
 俺は幻を見つめる。幻は幼い頃の自分だ。
 本当は寂しかった自分だ。でも、今は違う。
『…俺は、一人じゃない。離れていても心が通じてる人がいるから』
 そこで幻はすっと従兄弟の姿に変わった。
 不意に記憶に戻る。
「ヨンサ、格好良い」
 そう言って微笑むユンギョン。 

 そこで目が覚めた。夜のうちに雨は止んだようだ。カーテン越しの明るい陽射し。
「…夢」
 そう呟いて、不思議な夢をみたものだと思いながらも、下りて食事をしていたところにピンポーンとチャイムが鳴る。ソウルから家族が帰るにはまだ早い。誰だろうと下に降りて行く。「はい」と、玄関を開けると立っていたのは一馬と結人だった。
「…謝りに来た」
 そう言ったのは一馬。しかし、その表情は仏頂面だ。いや、むしろ決まり悪いというのだろうか。どちらにせよ。
「謝りに来たって顔じゃないでしょ」
 俺は思わず笑いそうになるのを堪える。そして言った。
「二人で取っ組み合いの喧嘩でもした感じだね」
「ああ、もう。お前のことだってのに。何で本人無しでそんな喧嘩してるのかわかんなくなって馬鹿らしくなっちまったよ」
 結人がわしゃわしゃと頭を掻きながら溜息混じりにそう言った。そして「ごめん」と謝られた。それに対して俺は首を振って言う。
「謝らなきゃいけないのは俺だよ。俺がちゃんと話しておけば良かったんだね」
 そこでふっと苦い笑いが浮かぶ。自嘲。
「長い付き合いだ。話さなくても判って貰えると思ってしまった。甘えてたのは俺だよ」
「英士…」
 俺の声音に一馬がはっとした顔になる。
「そんなこと言うなよ、英士」
 結人がそう言った。それに頷いて一馬も
「俺だって、本当は判ってたんだ。けど、けど…」
 そう言ってぐっと手を握り締めている。
「それで良かったんだよ、一馬」
 俺は微笑んだ。
「言いたくないんなら構わないと俺は思ったんだけど」
 結人はそう言ってふっと溜息をつく。
「結人のその優しさも判ってた」
 俺はそう答えた。そして円陣を組む時のように二人の肩を抱いた。気がつけば一馬の背はまた伸びていて。結人はさらに逞しくなったみたいだ。俺はどうだろうかと、そんなことを思う。
「さぁ、二人とも上がって。さすがに寒いよ」
 ポンと二人の肩を軽く叩いて、家に入るよう促した。居間に通すと、俺は柚子茶を入れる。そして一息つくと二人に言った。
「待っててよ、1年くらい」
 それに結人と一馬が頷いて
「おう、待ってるぜ」
と、言った。
「お前のとこは入れ替わりで落ちるなよー」
 ニヤニヤと笑いながら一馬に言う結人。痛いところを突かれた一馬はウッとなったが、負けじと言い返す。笑っていた俺に対しても。
「なんだと、覚えてろー。つーか、笑うなよ英士」
 でもそれが余計に笑えてしまって、結局つられて一馬も笑い出す。


 ひとしきり話した後、帰る二人を見送る。その二人の背中に
「きっと、上がってみせるから」
と、そう呟いて目を瞑れば、歓喜に沸くスタジアが浮かぶ。
 そして、それはいつか現実になる。させてみせる。

 ――2003年 サンフレッチェ広島J1昇格


BGM:Mr.Children「Any」
2006.02.27 UP
※あくまでもフィクションです。
事実に対して彼らの年齢が追いつかない筈です(その確認の為に名鑑と睨めっこしていた人間)。それを捻じ曲げてでも書いてしまったのは、彼らが背負っている宿命と言うものにどうしても惹かれてしまいまして。万一当事者サポの方がいらっしゃったらすみません。
しかし妙にリアルなのは自分もk…